第8話 初めて自分で選ぶ
「今日は何をいたしますの? 水汲み? お食事の準備?」
翌朝。
レイナは豪華なドレス姿のまま、期待に満ちた目で尋ねてきた。
昨日、晩餐会から召喚されたときと変わらない衣装だ。
整えられた髪も、背筋の伸びた姿勢も完璧。
ただし、目だけが妙に子供っぽく輝いている。
「何でそんなに嬉しそうなんだ」
リゼが不審そうに言う。
「一度、自分でやってみたかったのですわ」
「言っておくけど、楽しい体験教室じゃないぞ」
水汲みも食料探しも、生存に必要な仕事だ。
失敗すれば腹が減る。
場合によっては、外の獣に襲われる。
「でしたら、なおさら実際にやらなければ分かりませんわ」
レイナは真顔で答えた。
物見遊山ではないらしい。
「まず、今の服では無理だな」
リゼがドレスの裾を見る。
「枝へ引っかける。火にも近づけない。走ることもできない」
「では、もっと動きやすくできませんの?」
レイナが自分のドレスを見下ろす。
俺は少し驚いた。
高価そうな服だから、汚したくないと言うかと思っていた。
だが、彼女が気にしたのは服の価値ではなく、作業に使えるかどうかだった。
「ファステ。この衣装をどうにかできる?」
「切ったり縫い直したりする道具がありませんので、大きく変えるのは難しいと思います。ただ、裾や袖を一時的にまとめるだけでしたら」
ファステが立ち上がり、レイナへ近づく。
その動きは丁寧だったが、表情にはわずかな緊張があった。
令嬢の服を整える。
ファステにとっては、過去の仕事を思い出しやすい状況なのだろう。
「でしたら、お願いいたしますわ」
レイナが自然に両腕を広げる。
ファステの肩が小さく強張った。
しかし次の瞬間、レイナは首をかしげた。
「いえ。違いますわね」
「何がでしょうか」
「それ、私にも教えてくださる?」
「私が、レイナ様のお召し物を整えるのではなく……?」
「ええ。自分でできるようになりたいの。ですから、教えてくださらない?」
ファステが目を瞬く。
「……では、ご自分で結べる方法から」
ファステはレイナの代わりに手を動かさなかった。
自分の服を使い、布をまとめる手順をゆっくり示す。
レイナはそれを見て、ドレスの裾へ手を伸ばした。
「こちらを、このように?」
「もう少し内側へ折ったほうが、ほどけにくいと思います」
「分かりましたわ」
一度目は形が崩れた。
二度目は結び目が緩い。
三度目で、ようやく裾が足元へ絡まない形になった。
次に袖をまくり、髪も作業の邪魔にならない位置へまとめ直す。
「できましたわ!」
レイナが、心から嬉しそうに笑った。
昨日までの完璧な令嬢姿とは違う。
豪華なドレスは少し崩れ、袖から腕がのぞき、整えられていた髪も生活向けにまとめられている。
本人が自分の意思で、庶民作業をするために服装を変えた。
その設定と状況が、やたらと刺さった。
『《淫獄石》を10個獲得しました』
所持十八個。
やはり、豪華なドレスそのものより増えている。
「夜斗様。何かおかしいでしょうか?」
「いや。すごく動きやすそうになったと思って」
「ええ。自分で整えたのですわ」
レイナが得意そうに裾を見せる。
「見れば分かる」
「リゼ、その言い方は俺に刺さるからやめて」
◇
「水とは、こんなに重いものですの?」
水場からの帰り道。
レイナは水を入れた袋を両手で抱えていた。
空のときは余裕そうだったが、水を入れた瞬間に表情が変わった。
「今まで誰が運んでたと思ってる」
リゼが前方を警戒したまま言う。
「使用人の方々ですわ」
「分かってるじゃないか」
「ですが、重さまで考えたことはありませんでした」
「普通はそこで黙るところだぞ」
「知らなかったのですから、今知ればよいのでしょう?」
レイナは水袋を持ち直す。
最初は腕の力だけで抱えていたが、リゼに身体へ寄せて運ぶよう言われると、すぐに姿勢を変えた。
「こうかしら?」
「さっきよりはましだ」
「では、次はもう少し長く運べますわね」
「無理はするなよ」
俺が言うと、レイナが不思議そうにこちらを見る。
「ですが、皆さまは運んでいらしたのでしょう?」
「慣れてない人間が、同じ量を持つ必要はない」
「では、どのくらいならよろしいの?」
「自分で持って、帰りまで歩ける量」
レイナは少し考え、水を分けてもらうことを選んだ。
重いまま意地を張るのではなく、自分で可能な量へ変える。
頭はいい。
経験がないだけだ。
◇
《淫獄》へ戻ると、リゼが火起こし道具を取り出した。
レイナはすぐ隣へしゃがむ。
「こちらを打ち合わせて火を作りますの?」
「近い」
「ですが、よく見えませんわ」
「近いと言ってる!」
リゼがレイナの腕をつかみ、後ろへ引いた。
直後、小さな火花が散る。
「服に移ったらどうする」
「ですが、どのように火が生まれるのか見たくて」
「お嬢様には関係ない」
「だからこそ知りたいのですわ」
リゼの顔から、いつもの強気な表情が少し消えた。
「こいつ、怖がらないのか……?」
「怖がるべきなのですか?」
「私じゃなくて火をだ」
「もちろん危険だとは理解しております。ですから、安全な距離を教えてくださる?」
「調子が狂うな……」
文句を言いながらも、リゼは道具の持ち方と、火花を飛ばす方向を説明した。
レイナは一度聞くと、同じ質問を繰り返さない。
少し崩れたドレス姿で、火花一つを真剣に見つめている。
豪華な屋敷なら、火を起こすことなど誰かに任せていただろう。
それを今は、自分で覚えようとしている。
『《淫獄石》を8個獲得しました』
所持二十六個。
仮説の再現性が高すぎる。
◇
食事の準備では、レイナがファステの隣へ座った。
「それ、私にも教えてくださる?」
昨日と同じ言葉だった。
ファステは食べられる根を手にしたまま、少し迷う。
「レイナ様がおやりになるのですか?」
「ええ。していただくのではなく、自分でやってみたいのです」
「では、こちらを持って、傷んでいる部分を除いてください」
ファステが手順を見せる。
レイナも同じように動かした。
最初の一つは、食べられる部分まで大きく落としてしまった。
「あら……」
「初めは、そのくらいでよいと思います」
「ですが、ずいぶん小さくなってしまいましたわ」
「次は少しずつ削りましょう」
「分かりました」
二つ目は、最初より残った。
三つ目は、さらにましになる。
失敗して不機嫌になることも、ファステへ任せて諦めることもない。
「こちらは、どうすれば?」
レイナが木の実の一つを手に取った。
表面上はほかと大きく変わらない。
だが、彼女は角度を変え、匂いまで確かめた。
「こちらは、見た目より傷みが進んでいると思いますわ」
「お分かりになるのですか?」
「保管の悪い果実や菓子を、お客様へ出さないための確認は学びましたから。色は似ていますけれど、表面の張りと香りが違います」
ファステも確認し、納得したようにうなずいた。
「確かに、こちらは使わないほうがよさそうです」
レイナは庶民生活を知らない。
水の重さも、火との距離も分からない。
だが、無能ではなかった。
名門令嬢として、多くの品物を見てきた。
その経験は、今の生活でも役に立つ。
リゼも、火起こし道具を手に取ったレイナの言葉へ耳を傾けている。
「こちらの道具、装飾はありませんけれど、金具の合わせ方が丁寧ですわね」
「分かるのか?」
「ええ。華美ではありませんが、長く使うために作られています。よい職人の品だと思いますわ」
「庶民仕事はできなくても、見る目はあるらしいな」
「褒めてくださっているの?」
「半分だけな」
「では、残り半分も褒めていただけるよう努力いたしますわ」
「そういう意味じゃない」
リゼは完全に調子を崩されていた。
◇
四人で粗末な食事を囲む。
椅子も机もない。
灰色の床へ座り、火を挟んで食べる。
レイナは周囲を見たあと、迷わず俺のすぐ隣へ座った。
近い。
ドレスの裾が俺の足へ触れそうな距離だ。
「レイナ。近くないか?」
「庶民の方は、このくらい近くでお食事をなさるのでしょう?」
「近い。さすがに近い」
「では、もう少し離れたほうが?」
レイナが少し残念そうに腰を浮かせる。
「いや、嫌という意味ではなくて……」
「なら、どっちだ」
リゼが呆れる。
「夜斗様、お顔が赤いです」
「火の近くだからだ」
「火は反対側ですわ」
「配置が悪い!」
何を言っているんだ、俺は。
隣には、豪華なドレスの裾をまとめ、袖をまくり、髪を簡素にまとめた令嬢がいる。
灰色の床へ座り、野生の根や木の実を嬉しそうに食べている。
完璧なお嬢様。
庶民生活への異常な憧れ。
本人には誘惑する意図などない。
ただ、共同生活とは近くに座るものだと思っている。
だからこそ刺さる。
『《淫獄石》を16個獲得しました』
所持四十二個。
露出度だけなら、さっき袖をまくったときのほうが高かった。
だが今のほうが多い。
人物と状況。
そこへ俺との距離まで加わることで、欲望の強さが変わる。
完全に理解したとは言えないが、方向は合っているらしい。
「お味は、思っていたより素朴ですのね」
「それ、不味いって意味か?」
「いいえ。自分で処理したものを食べるのは、不思議な気分ですわ」
レイナは、自分が小さくしてしまった根を口にする。
「形は悪いですけれど、私が選んで、私が作ったものです」
その言葉は、味の感想よりずっと嬉しそうだった。
◇
食事が終わり、火が小さくなる。
上へ昇った煙は、いつもどおり途中で薄れ、消えていった。
レイナはしばらく、それを見上げていた。
「夜斗様」
「何だ?」
「元の場所へ戻る方法は、本当に分からないのですね」
「ああ。俺も日本へ戻る方法を知らない」
「では、もし見つかったなら」
レイナは自分でまとめたドレスの裾へ触れた。
「私は、すぐに戻らなければなりませんの?」
「いや」
「ですが、私には家がございます。果たすべき役割も、進められていた婚約のお話も」
「それをどうするか、俺には決められない」
「では、誰が決めるのです?」
「レイナだ」
彼女が黙った。
誰が決めるのか。
本来なら、当たり前の答えなのかもしれない。
だが、レイナにとっては違う。
「ここにいるかどうかを、俺が決めるつもりはない。戻る方法が見つかったら戻ってもいいし、残りたいなら残ってもいい」
「自分で決めてよいと?」
「レイナの人生なんだから」
レイナは視線を下げた。
何を食べるか。
何を着るか。
誰と話すか。
どこで眠るか。
小さなことから将来まで、周囲に決められてきた彼女へ、俺はひどく難しいことを言っているのかもしれない。
◇
四人になり、休息区画は明らかに狭くなっていた。
「少し広げられるか試してみる」
俺は《淫獄》全体へ意識を向ける。
四人分の休息場所。
服装を整えるための目隠し。
水と食料。
リゼの装備。
作業場所。
全部が重ならない配置を考える。
灰色の床がわずかに震えた。
奥側の壁が少し遠ざかる。
短い仕切りも伸び、反対側から休息場所が見えにくくなった。
『新たな住民の生活参加を確認』
『休息区画を微細拡張しました』
完成した部屋には程遠い。
家具も寝具もない。
それでも、四人が横になれる程度の場所はできた。
「レイナは、どこがいい?」
「私の場所を、夜斗様がお決めになるのでは?」
「レイナが使う場所だから、レイナが決めていい」
「本当に、私が決めてよろしいの?」
「そのために聞いてる」
レイナは休息区画をゆっくり見回した。
一番奥。
仕切りの陰。
出口に近い場所。
いくつかの位置を見た末に、ファステとリゼ、そして俺の声が届く場所を指さす。
「でしたら……こちらがよいですわ」
「こちらでよろしいのですか? 端ではありませんが」
ファステが尋ねる。
「ええ。皆さまのお話が聞こえる場所がよいの」
自分で選んだ場所へ、レイナが座る。
そこには柔らかな寝具も、美しい家具もない。
灰色の床しかない。
それでも、彼女は豪華な屋敷の話をしたときより満足そうだった。
◇
「戻る方法が見つかったとしても、今すぐ戻らなければなりませんの?」
レイナが、もう一度尋ねた。
「決めるのはレイナだ」
俺は同じ答えを返した。
レイナは長い時間、考えていた。
元の世界を嫌いになったわけではない。
家族を捨てると決めたわけでもない。
婚約や家の責任を、もう知らないと言えるわけでもない。
だから、永遠に残るかどうかを今決める必要はない。
「でしたら……今日は、ここにいたいですわ」
「今日だけでいいのか?」
「明日のことは、明日の私が決めます」
レイナが微笑む。
晩餐会で浮かべていた完璧な笑顔ではない。
少し不安で、それでも嬉しそうな笑顔だった。
《籠の中の令嬢》は、豪華な屋敷ではなく、家具も寝具もない灰色の空間を選んだ。
貧しい生活が好きだからではない。
ここでは、今日何をするか。
誰と話すか。
何を食べるか。
何を着るか。
どこで眠るか。
その一つ一つを、自分で選ぶことができたからだ。
レイナ・クロフォードは今日、初めて自分で自分の居場所を選んだ。




