第78話 この子、相手で態度違わない?
縁が、この家で暮らし始めてから、どれくらい経っただろう。
正式に飼うと決めたわけではない。
食べられるかどうかも、もう誰も積極的には調べていない。
名前があって、寝床があって、食事と水を用意する担当がいる。
最近では、俺の足元へ身体を寄せて眠ることもある。
ここまで来ると、正式かどうかに意味があるのか分からなくなってくる。
「縁、少し待ってくださいね」
朝食の支度をしていたファステが、足元へ声をかけた。
縁は食べ物の匂いにつられて、いつの間にか近くまで来ていた。
しかし、ファステの足へまとわりつくことはない。
調理の邪魔にならない程度の距離で座り、じっと待っている。
「そこだと危なくないのか?」
「大丈夫です。火からも離れていますから」
ファステは作業を続けながら、ときどき縁の位置を確かめていた。
水を用意する。
食事を分ける。
縁がすぐに食べようとすると、ファステは器へ手を伸ばさず、穏やかに声だけをかける。
「まだ熱いですから、もう少し待ってください」
縁の耳が動いた。
器へ近づきかけた鼻先を引き、元の場所へ座り直す。
「待つのか」
「最近は、少し待ってくれるようになりました」
「言葉が分かってる?」
「声の調子を覚えているだけかもしれません」
ファステは断定しなかった。
少し冷ました食事を、縁の前へ置く。
「もう大丈夫ですよ」
今度は迷わず食べ始めた。
ファステは食べる様子をしばらく見てから、自分たちの朝食へ戻る。
過剰に構うわけでもない。
食べ終わるまで横に張り付くこともない。
必要な世話をして、大丈夫だと判断したら離れる。
俺が見ていないところでも、ずっとこうしていたのだろう。
「何かございましたか?」
「いや。ファステの言うことは聞くんだなと思って」
「私ではなく、食事の匂いに従っているだけかもしれません」
「それにしては、ちゃんと待ってたけど」
ファステは縁を見て、小さく笑った。
「でしたら、嬉しいです」
嬉しいと口にしても、もっと自分へ懐かせようとはしない。
必要な物を用意し、縁が自分から来るのを待つ。
その自然な距離が、妙にファステらしく見えた。
◇
朝食後、リゼは土間で装備を点検していた。
地下攻略は保留中だが、装備を放置してよいわけではない。
汚染した可能性のある物は分け、洗浄済みの武器も状態を確かめる。
縁は土間との境界近くに伏せていた。
以前なら、金属音が鳴るたびに耳を立て、すぐ逃げられる距離を取っていた。
今も完全に気にしていないわけではない。
リゼが刃を動かすと、その軌道を目で追う。
だが、逃げない。
「ずいぶん近くにいるな」
「そうか?」
リゼは手を止めずに答えた。
「前より近いだろ」
「向こうが勝手に来ただけだ」
そう言いながら、留め具を置く時の音は小さかった。
刃先も縁のいない方へ向けている。
金属同士が強く触れそうになると、間へ布を挟んだ。
「気を遣ってる?」
「刃物の近くに小動物がいるのだから、当然だ」
「小動物かどうかも確定してないけど」
「少なくとも、今の大きさは小さい」
縁がわずかに姿勢を変えた。
リゼが動きを止める。
逃げるのかと思ったが、縁は前脚へ顎を乗せ直しただけだった。
リゼの表情が、ほんの少しだけ緩む。
魔物を前にした時には見せない顔だ。
俺が見ていることに気づくと、すぐいつもの表情へ戻った。
「何だ?」
「いや。優しい顔もするんだなと思って」
「普通の顔だ」
「今、戻しただろ」
「何をだ」
リゼは点検へ戻った。
金属音は、やはり普段より小さかった。
◇
昼前になると、レイナが購入した布と補修済みの衣類を整理し始めた。
品質や用途ごとに分け、残量を確認する。
縁は少し離れた場所から、その作業を見ていた。
「来たいなら来てもよいのですわよ」
レイナが声をかける。
縁は動かない。
「今の言い方、警戒されてないか?」
「急に近づいてはいけないのでしょう? 待っていますの」
以前のレイナなら、自分から距離を縮めたくなっていたかもしれない。
今は布を整理しながら、縁がどうするかを待っている。
やがて縁が立ち上がった。
少しずつ近づき、重ねられた布の匂いを嗅ぐ。
そのまま、一番上へ前脚をかけようとした。
「それは駄目ですわ」
レイナの声で、前脚が止まる。
縁が顔を上げた。
「こちらは、まだ使っていない布ですの。毛が付くと困りますわ」
レイナは未使用の布を自分の側へ寄せる。
代わりに、補修へ使う予定の古い布を一枚広げた。
「こちらなら構いません」
縁は二つの布を交互に見た。
本当に違いが分かっているのかは知らない。
だが、レイナが広げた方へ移動し、その上で丸くなった。
「あら」
「乗ったな」
「見れば分かりますわ」
「毛が付くんじゃないか?」
「こちらは構いません。洗う予定ですから」
そう言いながら、レイナは縁の下になった布を取ろうとしなかった。
ほかの布だけで作業を続ける。
「それ、今使いたかったんじゃないの?」
ヴィオラが面白そうに聞く。
「ほかの布でもできますわ」
「動かせばいいのに」
「せっかく眠ったところを起こすほどではありません」
レイナは何でも許しているわけではない。
駄目な場所には駄目と言う。
その代わり、いてもよい場所を用意する。
品質にうるさく、物の扱いにも細かいレイナが、縁のために一枚だけ予定を変えていた。
その横顔は、街で品物を選んでいた時より柔らかい。
リゼに続いて、レイナまで普段とは少し違って見える。
その瞬間、表示が浮かんだ。
『《淫獄石》を280個獲得しました』
『所持《淫獄石》:7,280』
「……ここで?」
「何かありましたの?」
レイナが俺を見る。
「いや。何でもない」
「その顔は、何かありましたわね」
「縁へ場所を譲ってるレイナが、ちょっと意外だっただけ」
「譲ってはいません。使用予定を調整しただけですわ」
「それを譲ったって言うんじゃない?」
「合理的な変更です」
千代みたいなことを言い始めた。
表示が出た理由は、縁が布へ乗ったからではない。
強気で上品なレイナが、小さな存在へ許せる場所を用意している。
強さとは違うリゼの表情。
無理をせず、自然に世話をするファステ。
普段の役割だけでは見えにくい三人の姿が、いつもの印象との差になって俺へ刺さった。
その姿を魅力的だと思った瞬間、安心とは違う熱が混ざった。
石が出たのは、たぶんそのせいだ。
◇
昼過ぎ。
千代は共用部屋で記録をまとめていた。
水の消費量。
補充した量。
汚染装備へ使った分。
共同資金の残り。
二つの接続地点と、帰還石の運用手順。
最近は記録するものが増え、小石だけでは足りなくなりつつある。
縁は千代の近くで寝ていた。
正確には、千代が並べた記録物のすぐ横だ。
「縁。そこは困る」
名前を呼ばれ、縁の耳が一度だけ動く。
身体は動かない。
「聞こえておるのじゃろう」
もう一度耳が動いた。
やはり起きない。
「動かす?」
俺が聞く。
「起こせば余計に動き回るかもしれぬ」
千代は縁へ触れず、自分の記録物を少しずつ横へ移した。
並べ方も変える。
縁が寝ている範囲だけ空け、その周囲で作業を再開する。
「優しいじゃん」
「合理的じゃ」
「レイナもさっき同じこと言ってた」
「妾をあやつと一緒にするでない」
「聞こえていますわよ」
少し離れたところからレイナの声が飛んできた。
千代は聞こえなかった顔で記録へ戻る。
縁は何も知らずに眠っている。
王として責任を背負い、何でも管理しようとする千代が、自分の仕事場の一部を黙って譲っていた。
しかも、それを優しさだとは絶対に認めない。
俺が知らなかっただけで、千代と縁の間にも、こういう時間が何度もあったのかもしれない。
◇
夕方、ヴィオラが縁の前で紐を揺らしていた。
補修には使えない、短くなった安全な紐だ。
先端には何も付いていない。
飲み込めそうな小物も結ばれていなかった。
「ほら」
紐が床を滑る。
縁の目が動きを追う。
前脚が伸び、紐を押さえる。
ヴィオラが引く。
縁が追う。
「随分遊ぶようになったな」
「私、遊び相手だからね」
「自称?」
「今のを見ても分からない?」
もう一度、紐が動く。
縁が飛びつく。
ヴィオラが少し近くへ手を伸ばした。
その瞬間、縁が身を引いた。
「あ」
ヴィオラの手が止まる。
以前なら、もう一度だけ距離を詰めようとしたかもしれない。
だが、今日は追わなかった。
紐も動かさず、その場へ置く。
「もう終わり?」
俺が聞く。
「向こうが嫌がったからね」
「遊びたいんじゃなかったのか?」
「遊びたいのと、追いかけ回すのは別でしょ」
ヴィオラは縁を見ず、手元にあったコインを指の上で転がし始めた。
呼ばない。
手も伸ばさない。
戻ってくるかどうかを、縁へ任せている。
しばらくすると、縁が一歩だけ近づいた。
ヴィオラはまだ動かない。
もう一歩。
床へ置かれた紐の匂いを嗅ぐ。
それから、縁の前脚が紐を踏んだ。
「続ける?」
ヴィオラが小さく聞く。
意味が通じているとは限らない。
縁は紐から前脚を離さず、ヴィオラの指を見ていた。
ゆっくり引く。
縁が追う。
今度は、ヴィオラも手を伸ばしすぎなかった。
『《淫獄石》を370個獲得しました』
『所持《淫獄石》:7,650』
「また出た」
「今のは何?」
ヴィオラは紐を動かしながら尋ねる。
「ヴィオラが追わずに待ったところ」
「それで?」
「意外だった」
「失礼だね」
「でも、嫌がったら追わないんだな」
「相手が嫌だって離れたのに追ったら、遊びじゃないでしょ」
ヴィオラは軽く言った。
それを立派なことだと思っている様子はない。
自由に動く。
相手にも自由に動かせる。
離れたなら待つ。
戻ってきたなら、また遊ぶ。
普段から気ままなヴィオラだからこそ、その距離の取り方がよく似合っていた。
いつもの笑顔のまま、相手の拒否だけはきちんと尊重する。
そんな一面を目の前で見せられ、俺の中にまた別の熱が生まれた。
その結果が三百七十個らしい。
「縁を見てるだけだったはずなんだけどな」
「ちゃんと私も見てたってことだね」
「そういう言い方をするな」
ヴィオラが楽しそうに笑った。
◇
「……この子、相手で態度違わない?」
夕食前、俺はようやく気づいたことを口にした。
五人の視線が縁へ集まる。
縁は共用部屋の中央で毛づくろいをしていた。
「今さら?」
ヴィオラが最初に反応した。
「気づいてたのか?」
「ファステが食事を持ってくると待つし、私が紐を出せば遊びに来るよ」
「リゼの近くだと、あまり動きませんわね」
レイナが言う。
「警戒されているのではなくて?」
「最近は違うと思う」
リゼが縁を見る。
「私が装備を触っている間も寝ている。静かにしていれば、向こうもその場に残る」
「妾の近くでは仕事の邪魔をする」
「寝てただけだろ」
「記録を広げる場所を正確に選んで寝るのじゃ」
文句を言いながら、千代は縁を追い払わない。
「レイナの布にも乗ってたな」
「あれは、乗ってもよい物を用意したからですわ」
「つまり、許された場所なら入る?」
「そう見えますわね」
「ファステには、世話をしてもらう相手として安心しているのでしょうか」
ファステはそう言ったが、自信はなさそうだった。
「ただ、食事の時間を覚えているだけかもしれません」
「ヴィオラは遊び相手」
「そう」
「千代は仕事の横で寝る相手」
「その分類は必要か?」
「リゼは静かに休む相手」
「知らん」
「レイナは、いていい場所を作る相手」
「悪くない表現ですわね」
全員に同じように懐いているわけではない。
縁が相手ごとに距離を選んでいるようにも見える。
だが、本当にそこまで理解しているのかは分からない。
「縁が相手を見分けて、接し方を変えているのでしょうか」
ファステが言う。
「そうとは限らん」
千代が答える。
「我らの方が、縁への接し方を変えた結果かもしれぬ」
確かにそうだった。
ファステは待つように声をかける。
リゼは金属音を抑える。
レイナは駄目な場所と、いてよい場所を分ける。
千代は自分の記録物を動かす。
ヴィオラは離れた縁を追わずに待つ。
縁だけが五人を知ったのではない。
五人も縁を見ながら、少しずつ接し方を覚えたのだろう。
「俺には?」
聞いてから、自分でも妙な質問だと思った。
「夜斗のところには、戻ってくる」
ヴィオラが即答した。
「戻ってくる?」
「一通り好きなことをした後で、最後に行く場所」
「それ、寝床みたいな扱いじゃないか?」
「安心はされているんだろう」
リゼが言う。
「お前は追わないし、逃げ道も塞がないからな」
それは以前にも考えた。
俺は縁を懐かせようとしてこなかった。
逃げれば追わない。
近づいても無理に触らない。
縁が決めた距離を、そのままにしてきただけだ。
「そろそろ、こいつの扱いもちゃんと決めた方がいいのかな」
「正式に飼うということですの?」
レイナが尋ねる。
「ここまで一緒に暮らしてると、今さらな気もするけど」
「まだ分からないことが多い」
リゼの声は慎重だった。
種族。
性別。
食性。
健康状態。
本当に人が飼ってよい生物なのか。
外へ戻りたい意思があるのか。
何も分からない。
「今すぐ決める必要はなかろう」
千代が言う。
「必要な世話は続ける。そのうえで、分かることを増やせばよい」
「また保留か」
「保留できるものを、無理に決める必要はない」
縁本人は、自分の扱いを相談されているとも知らず、毛づくろいを終えた。
立ち上がる。
最初にファステの方を見る。
食事はまだ出ていない。
次にヴィオラの紐を見る。
もう片づけられている。
レイナの布にも、千代の記録にも向かわない。
リゼの近くで一度止まり、それから俺の方へ歩いてきた。
「最後はそこなんだ」
ヴィオラが言う。
縁は俺の足元へ座った。
身体の側面を、脚へ軽く寄せる。
いつもの距離だ。
「お食事を用意しているのは私なのですが……」
ファステが小さく漏らす。
「私は静かにしていたぞ」
リゼが言う。
「わたくしの布も空いていますわよ」
レイナは縁へ聞こえるように言った。
「妾は別に、こちらへ来てほしいとは言っておらぬ」
千代だけは誰にも聞かれていない主張をした。
「夜斗だけずるくない?」
ヴィオラは隠そうともしなかった。
「俺、何もしてないけど」
「何もしないからではありませんか?」
ファステが言う。
「縁が来るまで、夜斗様は待っていらっしゃいますから」
縁を見る。
俺の足へ触れたまま、目を細めている。
今日一日、縁はいろいろな場所へ行った。
ファステのそばで食事を待った。
リゼの装備点検を眺めながら休んだ。
レイナが許した布で眠った。
千代の仕事場の一部を占領した。
ヴィオラと遊び、一度離れ、自分から戻った。
俺の知らないところで、縁にもちゃんと関係が増えていた。
そして、縁を見ていたつもりだった俺は、その向こうにいる五人を見ていた。
五人とも同じように優しいわけではない。
同じ方法で縁を可愛がっているわけでもない。
それぞれの性格のまま、自分なりの距離を作っている。
強いリゼが、金属音を抑える。
上品なレイナが、布を一枚譲る。
責任感の強い千代が、小さな身体のために記録をずらす。
気ままなヴィオラが、拒まれたら追わずに待つ。
献身的なファステが、無理に構わず必要な世話だけをする。
俺が知らなかった五人の表情。
縁がいるから見られた、それぞれ違う姿。
その五人が、今は同じ家の中にいる。
誰かに決められた同じ距離ではなく、自分で選んだ関係を増やしながら暮らしている。
それを魅力的だと思った。
五人との間にあるものまで意識した瞬間、胸の奥へ熱が広がった。
『《淫獄石》を600個獲得しました』
『所持《淫獄石》:8,250』
「また出たね」
ヴィオラが表示を見る。
「今日は縁を見てただけなんだけどな」
「縁ではないのじゃろう?」
千代の指摘に、五人を見る。
「……たぶん」
縁が可愛かったからではない。
縁を通して見えた五人の姿が、普段とは違う魅力として俺の欲望へつながった。
「残り、千七百五十」
ヴィオラが言う。
「計算が早いな」
「次が近いからね」
「だからって、石のために縁を使うのはなしだぞ」
「誰も言ってないよ」
「言いそうだったから先に止めた」
縁は表示にも会話にも興味を示さなかった。
俺の足元で丸くなる。
正式に飼うかどうかは、まだ決まっていない。
何者なのかも分からない。
それでも、この家の中には、縁が相手ごとに選んだ場所がある。
俺の知らないところで、それぞれとの関係も増えていた。
最後にここへ来るのが、一番好きだからなのか。
一番動かないからなのか。
一番逃げ道を残すからなのか。
それもまだ分からない。
ただ。
「まあ、ここが一番近いなら、それはそれで悪くないか」
「何か言った?」
ヴィオラへ聞かれた。
「何も」
縁の身体が、俺の脚へもう少しだけ触れた。
今日も、無理に抱き上げることはしない。
足元へ戻ってきたなら、そこにいさせる。
それで十分だった。




