第76話 Lv.2って、家が広くなっただけ?
地下へ行かない朝なのに、俺たちは地下の後始末をしていた。
「今日使う分は足ります。ただ、そろそろ補充した方がよいと思います」
ファステは並べた容器を一つずつ確認しながら言った。
飲み水。
調理に使う水。
食器を洗う水。
身体や手を洗う水。
縁に与える水。
そして、生活用とは分けて置かれた、地下探索後の装備を洗うための水。
用途を書き出すだけで、容器がどんどん増える。
中身は逆に、どんどん減っていた。
「地下へ行かないのに、まだ地下に水を使わされてる……」
「行った事実まで、帰った瞬間に消えるわけではないからの」
千代は冷静だった。
その横では、リゼが洗浄済みの武器を改めて確認している。目に見える汚れは落ちていても、安全だと断定できるわけではない。
隔離した布も、仮保管中の汚水も残っている。
攻略を保留したからといって、問題まで消えてくれるわけではなかった。
「後始末の方が長いね」
ヴィオラが水の容器を覗き込む。
「地下へ入ってた時間より長いんじゃないか?」
「比べない方が幸せかも」
その言い方で、たぶん比べたら不幸になるのだと分かった。
ファステが残りの水を確認し終え、こちらを向く。
「今日のうちに補充しておけば、生活用には余裕ができます。ただ、洗浄を続けるのでしたら、いつもより多く必要です」
「また運ぶしかないか」
「現状では、そうなります」
一度に運ぶ量を増やせば、往復回数は減らせる。
だが、当然重くなる。
容器を増やすにも金がかかる。水を使う量を減らしすぎれば、今度は衛生面が不安になる。
「運ぶ人数を増やすか」
俺が言うと、リゼが首を振った。
「人数を増やせば一度の量は増える。だが、全員で毎回外へ出るのも危険だ」
「水場までの道を整えるという手もありますわ」
「それも、勝手に道を作ったと気づかれる可能性がある」
レイナの案へ、千代が問題を足した。
何かを楽にしようとすると、別の面倒が増える。
「水場を、もっと近くにできない?」
ヴィオラが気軽に言った。
「できるなら、俺だってそうしたい」
答えた瞬間、視界の端で何かが揺れたような気がした。
「ん?」
「どうした?」
リゼが顔を上げる。
「今、何か出なかった?」
「何も見えなかったが」
「気のせいかな」
疲れているのかもしれない。
地下へ行っていないのに。
いや、後始末をしているのだから、疲れていてもおかしくはない。
「そもそもじゃ」
千代が俺を見た。
「《淫獄の王》がLv.2となった時、何が変わったのか、そなたはすべて確認したのか?」
「家が広くなった」
「それは見れば分かる」
「個人用の空間ができた」
「ほかは?」
「棚が増えたり、床が少し整ったり……」
「ほかは?」
「……知らない」
千代が小さく息を吐いた。
「確認しておらぬものを、存在せぬと決めるでない」
「自分の能力なのに、一番知らないね」
「説明書がないんだよ」
ヴィオラへ言い返しながら、俺は《淫獄》の表示を開いた。
いつも見るのは石の数と、召喚に必要な量くらいだ。
今の《淫獄石》は六千三百六十個。
次の通常《住民召喚》には一万個必要なので、まだ足りない。
そこから意識をずらし、《淫獄》そのものに関係しそうな表示を探す。
家の状態。
生活環境。
住民の登録。
そして、出入口。
そこへ意識を向けた時、薄かった文字がゆっくり輪郭を持った。
『外界接続地点:一』
その下に、もう一つ。
『外界接続地点:二――登録可能』
「……二つある」
俺の声に、全員が集まってくる。
「昨日もありましたの?」
レイナに聞かれたが、答えられない。
「分からない。こんなところまで細かく見てなかった」
「Lv.2になった時からあったのではないか?」
リゼが表示を見る。
「それも分からない」
「前からあったとも、今生まれたとも決めるでない」
千代の言うとおりだった。
少なくとも、今は二つある。
分かるのはそれだけだ。
「外界接続地点って、どこのことだ?」
一つ目へ意識を向ける。
地図も、地名も、座標も表示されない。
だが、登録されている場所を思い浮かべた時、地下入口の固定前室が頭に浮かんだ。
石段の下にある小さな空間。
変動する地下領域との境界より手前。
俺たちが《淫獄》への入口を開けた場所だ。
「一つ目は、地下の前室だと思う」
「最後に外から入口を開いた場所だな」
リゼが言う。
ヴィオラが少し首を傾げた。
「外から入口を開いた場所が、次の出口として残ってたのかも」
「でも、今までは同じ場所へ出ることが多かったよな」
「戻ったあと、別の場所へ出ようとしたことがなかったから、気づかなかったんじゃない?」
「外から開いた地点を、そのまま帰還先として使っていた可能性はある」
リゼも仮説を足す。
「可能性の話はそこまでじゃ」
千代が止めた。
「表示で確認できる範囲を調べよ」
言われたとおり、一つ目の接続地点へ意識を集中させる。
文字の下へ、新しい情報が浮かんだ。
詳細な履歴ではない。
だが、現在の登録地点が、外界側から《淫獄》を開いた場所と対応していることは読み取れた。
さらに探る。
Lv.1では、保持できる接続地点は一つ。
外界から《淫獄》を開くと、その場所が自動的に登録される。
別の場所から開けば、登録地点が更新される。
そしてLv.2では、二地点まで保持できる。
新しい地点を登録する時には、どちらの枠を使うか選べるらしい。
「自由に開けてたんじゃなくて、外で開いた場所が登録されてたのか」
「今までは、一つの枠を知らないまま更新してた?」
「たぶん」
ヴィオラの問いへ答える。
過去にどの場所が登録されていたのかは表示されない。
いつ、どこで更新されたのかも分からない。
ただ、この仕組みなら今までの経験とは矛盾しない。
「でも、何で今になって二つ目が出たんだ?」
「Lv.2になった時から使えたのではありませんの?」
「Lv.2になってから、もう結構経ってるだろ」
レイナの疑問へ返す。
最初から使えたのに、今まで見落としていただけかもしれない。
そうでない可能性もある。
「必要だと思ってなかったから?」
ヴィオラが言った。
「機能って、そんな理由で出たり消えたりするのか?」
「《淫獄》が、私たちの暮らしに合わせて少しずつ変わったことはある」
リゼが室内を見る。
物を置くために増えた棚。
使い方に合わせて生まれた小さな仕切り。
歩きやすくなった段差。
縁がよく休む場所にできた、浅い窪み。
どれも大きな変化ではない。
だが、必要になるより前からあった物でもなかった。
「水を運ぶ負担を減らしたいと、夜斗様が強く思われたからでしょうか」
ファステが静かに言った。
「……俺が欲しいと思ったから?」
誰も答えなかった。
答えを知っている者がいない。
《淫獄》は欲望と無関係なスキルではない。
石だって、俺の性的な欲望が刺激された時に生まれる。
だが、それと家の機能が同じ仕組みで動いているとは限らない。
「考えるのは、試してからでもよかろう」
千代が表示を指す。
「今は二つ目が使える。それをどう使うかじゃ」
候補はいくつもあった。
街方面。
採取場所。
以前決めた第一帰還地点。
水場の近く。
セリナが帰ってくる可能性を考えた場所。
何でも登録できるわけではない。
二枠しかないのだから、何かを選べば、何かは残せない。
「一つ目は前室のままでいいと思う」
俺は言った。
地下攻略は保留した。
それでも接続先が変化した後には、もう一度確認する可能性がある。
管理標識や巡回の状況を調べる必要も残っている。
何より、あの場所で《淫獄》を開けることは確認できている。
「妾も同意見じゃ。試すなら、空いている二枠目を使え」
千代が頷く。
「なら、今一番必要なのは水場か」
全員の意見も一致した。
表示から分かる登録条件も確認しておく。
夜斗本人が現地へ行くこと。
外界側で《淫獄》を開くこと。
実際に開放できた地点だけが登録されること。
未到達の場所や、遠く離れた場所を思い浮かべるだけでは登録できない。
保持できるのは二地点。
入口を二つ同時に開くこともできない。
開閉できるのは俺だけだが、一度開けば住民も通れる。
変動接続領域では《淫獄》自体を開けなかった。
当然、そこを登録することもできない。
「便利だけど、俺が行かないと増やせないのか」
「最初の一度くらいは働けということじゃろう」
「厳しいスキルだ」
「かなり甘い方だと思うよ」
ヴィオラに言われ、反論できなかった。
◇
水場方面へ向かったのは、俺とリゼとヴィオラの三人だった。
今回は水を大量に持ち帰ることが目的ではない。
接続地点として使える、安全な場所を探すことが目的だ。
水辺のすぐ近くは、最初から候補から外した。
「ここなら近いのに」
水音の聞こえる方向を見ながら、俺は言った。
「動物も近い」
リゼが地面へ視線を落とす。
大小いくつもの足跡が残っている。
「水を使うのは、俺たちだけじゃないか」
「増水した時も危ないね」
ヴィオラが川岸の土を見る。
「それに、人が来たら入口を開くところを見られる」
「水場の近くへ行くために、水場から離れた場所を選ぶのか」
「便利さを少し捨てて、安全を買うんだよ」
ヴィオラの言葉を聞きながら、周辺を探す。
最終的に選んだのは、水場から少し歩いた場所だった。
背の高い植物と木々に囲まれ、外から直接見通しにくい。
地面は比較的硬く、容器を持って歩いても足を取られにくい。
一方向を塞がれても、別方向へ逃げられる。
動物の通り道らしい痕跡も少ない。
水場の真横より不便だ。
だが、以前の道を全部歩くよりは近い。
「周囲に人の痕跡はない」
リゼが戻ってくる。
「今の範囲では、だが」
「試す?」
ヴィオラが俺を見る。
「試す」
二枠目を意識する。
一つ目を上書きしないように。
地下の前室を残したまま、今いる場所を新しい接続地点にする。
《淫獄》への入口を開いた。
何もない空間に境界が生まれ、見慣れた家の内側が現れる。
『外界接続地点:二を登録しました』
表示が出た瞬間、胸の奥から、外へ細い何かが伸びた。
自分の中にあったものが、この世界へ根を下ろしたような感覚。
その直後。
遠くのどこかで、一瞬だけ見返されたような気がした。
「……っ」
「どうした?」
リゼがすぐ周囲を見る。
「今、誰かに見られたような……」
俺も辺りを確認する。
木々。
草。
水音。
人影はない。
気配も分からない。
「どっちから?」
ヴィオラに聞かれたが、答えられなかった。
「分からない。遠くからって感じだけで、方角も何も」
「敵意は?」
「それも分からない」
そもそも、本当に誰かがいたのか。
接続地点を登録した時の感覚を、俺が勝手に誰かの視線だと思っただけかもしれない。
その感覚は、もう消えていた。
「一度戻るぞ」
リゼが言った。
「異常を感じたなら、予定どおり進める必要はない」
「でも、周囲には何も――」
「分からないから戻る」
迷ったのは一瞬だった。
「分かった」
俺たちは、そのまま開いている入口を通って《淫獄》へ戻った。
入口を閉じる。
ファステたちへ登録そのものは成功したことと、直後に妙な感覚があったことを伝えた。
「誰かに見られた、というのは確かなのですの?」
レイナが尋ねる。
「分からない。そう感じただけ」
「ならば、事実と感覚を分けておくべきじゃな」
千代が整理する。
確認できた事実は、二つ目の接続地点を登録できたこと。
登録の瞬間、俺だけが異常な感覚を覚えたこと。
誰かがいたかどうかは不明。
敵意も、正体も、方角も分からない。
「今日はやめますか?」
ファステが心配そうに聞く。
「往復できるかだけ、ここから試したい」
「外へ出るのか?」
リゼが確認する。
「入口を開いて、向こうがさっきの場所かを見る。危なそうなら出ない」
それなら予定の範囲内だと判断した。
俺は内側から二つ目の地点を選ぶ。
入口を開く。
向こう側には、先ほどまで立っていた外界の景色が現れた。
木々の位置も、地面の形も同じ。
人影はない。
「……出られそうではある」
「今日は見るだけにしておけ」
リゼの言葉に従い、外へは出ない。
一度入口を閉じる。
登録は成功している。
内側から同じ場所へ開くこともできた。
安全を確認できたとは言えないが、機能そのものは使えるらしい。
「ようやくLv.2らしいことをしたね」
「家が広くなっただけじゃなかった」
「使えることと、安全に使えることは別じゃ」
千代が念を押す。
「次に使う時も、必ず周囲を確認せよ。先ほどの感覚も忘れるでない」
「分かってる」
「最近、その返事が増えたね」
「確認事項が増えたからだよ」
水場への本格的な運用は、翌日以降に回すことになった。
妙な感覚があった直後に、何度も出入りする必要はない。
それでも、登録地点から持ち帰った少量の水は残っている。
ファステがそれを用途別の容器へ移した。
飲用には回さず、まずは洗浄用に分ける。
容器を置いた時、その下で床がわずかに動いた。
「また?」
俺たちが見ている前で、床の一部が平らになる。
容器が安定して置ける程度の小さな変化。
さらに周囲へ浅い縁が生まれ、水をこぼしても一気に広がりにくい形になる。
空気の流れも、ほんの少し変わった気がした。
『生活環境を微細調整しました』
「そこまでやるなら、水を出してくれてもいいのに」
「欲張り」
「欲望で動くなら、欲張ってもよくない?」
ヴィオラへ言い返したものの、自分の言葉が少し引っかかった。
欲望で動く。
本当に、そうなのだろうか。
俺たちが物を置いたから、置きやすい床になった。
水を運ぶのが大変だと思ったから、二つ目の接続地点が使えるようになった。
偶然かもしれない。
Lv.2になった時から使えたのに、今まで俺が見つけられなかっただけかもしれない。
まだ、どちらとも決められなかった。
縁が新しく運び込まれた水へ近づく。
鼻先を動かし、容器の匂いを嗅いだ。
知らない匂いでもしたのか、一度離れる。
俺が床へ座ると、少しして戻ってきた。
身体の側面を俺の足へ軽く触れさせ、そのまま座る。
今回は、壁も床も見ていない。
耳を立てることもない。
ただ、いつもの場所へ戻ってきただけだった。
俺も、毛へ触れようとはしなかった。
近くにいるなら、それでいい。
夜。
俺は《淫獄》の表示をもう一度確認した。
一つ目は、地下入口の固定前室。
二つ目は、水場から少し離れた場所。
地下攻略は保留したまま。
汚水の処分方法も分からない。
水が勝手に湧くようになったわけでもない。
二つ目の地点を、本当に安全に使い続けられるかも分からない。
それでも、使える可能性は増えた。
Lv.2になって、家は広くなった。
それだけだと思っていた。
実際には、帰る場所を二つ覚えられるようになっていたらしい。
どうして今になって使えるようになったのかは、分からない。
俺たちに必要になったからなのか。
俺が、そうしたいと強く思ったからなのか。
登録した瞬間に感じた、遠くから見返されたような感覚も気になっている。
ただ、今日はもう確かめようがない。
二つ目の帰り道はできた。
実際に使い続けるかは、明日また考える。
今は、それで十分だった。




