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このスキル、やばスギル。 ~ガチャ沼に堕ちたら俺の負け~  作者: 明日乃風
第七章 「最低危険度の地下」

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第72話 最低危険度へ



 地下入口は、前に見た時と変わっていなかった。


 植物に隠れかけた古い石組み。


 地面の下へ続く石段。


 その横に立つ、意味の分からない数字と記号が並んだ管理標識。


 読める部分は二つだけだ。


『危険度』


『最低』


「最低、か」


 声に出してみても、安心できる言葉には聞こえなかった。


「帰るなら今だぞ」


 先頭に立つリゼが言った。


「まだ一段も降りてないんだけど」


「だから一番安全に帰れる」


「正しいけど、今日は降りる」


「なら行くぞ」


 リゼが石段へ足をかける。


 俺がその後ろ。


 最後尾はヴィオラだ。


 周囲に巡回者やほかの人間がいないことは確認した。


 だからといって、ここへ勝手に入ってよいと分かったわけではない。


 今日の目的は、あくまで入口付近の危険確認。


 物は取らない。


 設備へ触れない。


 何も壊さない。


 人が来たら接触せずに戻る。


 継続して探索するかどうかは、入場規則を調べてから改めて決める。


「入る前から禁止事項ばかりだね」


 後ろからヴィオラの声が聞こえた。


「増やさないための禁止事項だよ」


「何を?」


「問題を」


「地下へ入る時点で増えてない?」


「それは考えないことにした」


 石段を降りるにつれ、外の光が弱くなる。


 代わりに、ヴィオラが持つ松明の光が石壁を照らした。


 湿った空気。


 冷えた石。


 下へ向かうほど、土とも古い水ともつかない匂いが強くなる。


「呼吸は?」


 リゼが尋ねる。


「今のところ平気」


「私も」


 ヴィオラが答える。


 石段を下りきると、小さな前室へ出た。


 以前確認した場所だ。


 四方を古い石壁に囲まれ、一方に地上へ戻る石段がある。


 その反対側に、奥へ続く暗い通路。


 ここまでは現地世界側に固定された管理区画だと、セリナから聞いている。


 前室の中で立ち止まり、三人で床と壁を確認する。


 新しい足跡は見当たらない。


 何かが壊された様子もない。


 奥から響いていた、あの音も今は聞こえなかった。


「まず、帰り道」


 俺は《淫獄》への入口を開く。


 灰色の境界が、前室の石壁の前へ問題なく現れた。


「開いた」


「ここではな」


 リゼの言葉に頷く。


 一度開いた入口を閉じる。


 前室で開くことは、すでに何度か確認している。


 今日確かめるべきなのは、その先だった。


 奥へ続く通路へ視線を向ける。


 松明の光が届く範囲では、一本道に見える。


 ただ、前室と同じ石造りではなかった。


 前室の床は、形を揃えた石材が規則的に並んでいる。


 その先は、似た色の石でできているのに、継ぎ目も摩耗の仕方も違う。


 壁には不規則な凹凸があり、天井もわずかに低い。


「ここから先が、変わる方?」


 ヴィオラが尋ねる。


「たぶん」


 前室は残る。


 その先に接続される領域が、中期的に変化する。


 話としては聞いた。


 だが、境界に扉や表示があるわけではない。


 床と壁の作りが変わる、その場所が境目に見えるだけだった。


「私が先に入る」


 リゼが通路へ足を踏み入れた。


 周囲を確認し、数歩進む。


「今のところ、何もいない」


 俺も境界を越えた。


 足元の感触が変わる。


 整えられた床ではあるが、表面が粗い。


 靴底が石へ触れる音も、前室より鈍く響いた。


 ヴィオラも続く。


 三人全員が通路側へ入ったところで止まった。


「試す?」


 ヴィオラが言う。


「ああ」


 まだ前室はすぐ後ろにある。


 数歩戻れば届く距離だ。


 俺は前と同じように、《淫獄》への入口を開こうとした。


 何も起きなかった。


「……開かない」


 もう一度試す。


 灰色の境界は現れない。


 表示もない。


 拒否されたという通知すら出なかった。


「操作を間違えた?」


「前室でやった時と同じだよ」


「もう一度」


 リゼに言われ、意識を集中する。


 それでも、何も開かない。


「戻れないのか?」


「違う」


 答えながら、背後の前室を見る。


「ここから直接は開かない。前室まで戻れば、たぶん開ける」


「“たぶん”のまま進むな」


 リゼはすぐに前室を指した。


「戻って確認するぞ」


 三人で数歩戻る。


 床の作りが変わる境界を越え、前室へ入る。


 そこで改めて《淫獄》を開く。


 今度は、すぐに灰色の入口が現れた。


「開いた」


 安堵しかけて、息を吐く。


「境界を越えたら開かなくなる?」


 ヴィオラが前室と通路を見比べる。


「距離の問題かもしれない」


「数歩しか離れてないよ」


「じゃあ、場所の問題」


「決めつけるな」


 リゼが止めた。


「前室では開く。奥側では開かなかった。今分かるのは、それだけだ」


「原因は分からない?」


「分からない」


 地下だからではない。


 前室も地下にある。


 壁の材質か。


 領域そのものの性質か。


 《淫獄》側の制限か。


 考えられることはいくつもあるが、確かめる方法はない。


 俺は《淫獄》への入口を閉じた。


「これ、かなり重要だよな」


「ああ」


 リゼが答える。


「奥で何が起きても、ここまで自力で戻る必要がある」


「深い場所から一瞬で帰る、はできないってことか」


「少なくとも、今の通路ではな」


 前室が、ただの入口ではなくなった。


 ここが帰還地点だ。


 奥へ進んだ距離は、そのまま自力で戻らなければならない距離になる。


「今日の範囲、さらに短くする?」


 ヴィオラが尋ねる。


「短くする」


 俺は即答した。


「前室が見えなくなる場所までは行かない」


「曲がり角があれば、その手前で終わりだな」


 リゼも同意する。


 予定していたより、ずっと狭い範囲になる。


 それでも構わない。


 帰れる範囲を確かめに来た。


 直接帰れないと分かったなら、範囲を縮めるのが当然だった。


 ◇


 再び通路へ入る。


 リゼが先頭。


 俺が中央。


 松明を持つヴィオラが最後尾。


 前室から伸ばした縄を、帰路の補助として使う。


 ただし、縄だけには頼らない。


 俺たちが進んだのは、前室からほんのわずかな距離だった。


 壁に扉はない。


 床へ落ちている物もない。


 採取できそうな物があったとしても、今日は触らない。


 通路は緩やかに下っている。


 先へ進むほど、匂いが変わった。


「臭うな」


 リゼが足を止める。


 湿気とは違う。


 腐った肉のような、生温かい臭い。


 思わず口元を覆いそうになり、手を止めた。


 不用意に顔へ触るなと言われていた。


「グール系って、やっぱりこういう匂いなのかな」


 俺が小声で言う。


「可能性はある」


 リゼが姿勢を低くする。


 ヴィオラも松明の位置を少し下げた。


 光を前へ出しすぎないためだ。


 何かがいる。


 まだ姿は見えない。


 けれど、さっきまでなかった音が聞こえ始めていた。


 ズ……。


 少し間を置いて。


 ……ズ……。


 前に聞いたのと同じ音だった。


「石を引きずってるんじゃなかったね」


 ヴィオラが囁く。


「静かに」


 リゼが片手を上げる。


 三人で動きを止める。


 通路の奥から、何かが姿を現した。


 人に近い形。


 だが、人ではない。


 背中を曲げ、片脚を引きずるように歩いている。


 汚れた灰色の皮膚。


 不自然に細い腕。


 裂けた衣服のような物が身体へ残っている。


 顔は俯いていて、よく見えない。


 一歩進むたび、足が石床を擦る。


 ズ……。


 ……ズ……。


「あれか」


 声が震えそうになり、息だけで言う。


「たぶんな」


 グール系。


 詳しい種別は分からない。


 ただ、街で聞いた特徴とは一致している。


 相手はまだこちらに気づいていない。


 通路の中央を、ゆっくり歩いている。


 こちらへ近づいているわけではない。


 横へ逸れられる場所もない。


「戻る?」


 ヴィオラが聞く。


 まだ前室は見えている。


 相手との距離もある。


 観察という目的は、すでに果たした。


「戻ろう」


 俺が答える。


 戦う必要はない。


 三人で少しずつ後退する。


 リゼは相手から目を離さない。


 俺も足元を確認しながら下がる。


 ヴィオラは後ろ向きに進まず、何度も前室との距離を確かめていた。


 その時。


 俺の靴底が、小さな石を踏んだ。


 乾いた音が通路へ響く。


 グールの動きが止まった。


 伏せられていた顔が上がる。


 濁った目が、こちらへ向いた。


「走るな」


 リゼが低く言った。


 グールの口が開く。


 歯の並びは人に似ていた。


 けれど、その間には黒ずんだ汚れが詰まり、口元から粘ついた液体が垂れている。


 次の瞬間、さっきまでの遅い動きが嘘のように踏み込んできた。


「下がれ!」


 リゼが前へ出る。


 俺はヴィオラに腕を引かれた。


 後ろへ身体が動く。


 リゼの刃が抜かれる。


 グールが腕を伸ばす。


 爪がリゼの肩を狙う。


 刃がその腕を外側へ弾いた。


 金属ではない、湿った音。


 グールの身体が傾く。


 それでも止まらない。


 口を開き、リゼへ噛みつこうとする。


「リゼ!」


「見えている!」


 リゼが半歩横へ動く。


 狭い通路の中で、グールの進路をわずかにずらす。


 その首筋へ、短く刃を入れた。


 一撃。


 深追いせず、すぐに引く。


 グールの身体が前へ倒れた。


 石床へ手をつき、まだ動こうとする。


 リゼがもう一度、今度は頭部へ刃を振り下ろした。


 鈍い音。


 グールの動きが止まる。


 静かになった。


「倒した?」


「近づくな」


 リゼは刃を構えたまま答えた。


 俺たちはグールへ触れない。


 死体らしきものから距離を取る。


 ヴィオラが俺の腕を掴んだまま、奥を見る。


「まだ終わってないかも」


 何か聞こえた。


 ズ……。


 一つではない。


 正面の奥から。


 そして、壁の向こうか、別の通路かも分からない方向から。


 ……ズ……。


 音が重なった。


 数は分からない。


 姿も見えない。


「複数」


 リゼが言う。


「帰る」


 俺は即座に答えた。


 確認しない。


 数えない。


 どこから来るのかも調べない。


 数を確認できない状況では即撤退。


 決めた条件どおりだった。


「前室まで下がるぞ」


 リゼが後退を始める。


 グールの死体を避け、俺とヴィオラが先に戻る。


 リゼは最後まで奥へ刃を向けていた。


 床の境界を越える。


 固定前室。


「全員入った」


 ヴィオラが言う。


 リゼも前室へ下がる。


 奥から何かが現れる前に、俺は《淫獄》への入口を開いた。


 今度は開く。


 灰色の境界が現れた。


「ヴィオラ、先に」


「分かった」


 ヴィオラが中へ入る。


 続いて俺。


 最後にリゼ。


 全員が《淫獄》側へ入ったことを確かめ、入口を閉じる。


 地下の臭いと音が途切れた。


 それでも、すぐには家の中へ進まなかった。


「土間で止まってください」


 待っていたファステの声が飛ぶ。


 帰還後の手順は決めてある。


 俺たちは入口付近に空けておいた隔離場所へ移動した。


「負傷は?」


 レイナが尋ねる。


「私はない」


 リゼが答える。


「二人は?」


「ない」


「俺も。ヴィオラに引っ張られた腕が少し痛いくらい」


「それは負傷に入れないで」


「心配したのに」


「近くへ来ていたからね」


 ヴィオラに掴まれた場所を確かめる。


 痛みは残っていない。


 俺の服にも、目立った汚れはなかった。


 ヴィオラも同じだ。


 問題はリゼだった。


 噛まれてはいない。


 爪も届いていない。


 だが、刃と手袋、靴の一部へ黒っぽい汚れが付着している。


 グールを斬った時のものだろう。


「触れないでくださいませ」


 レイナが布を広げる。


「まず、汚れた物を分けます」


「分かっている」


 リゼが剣を指定した場所へ置く。


 手袋を外し、汚れた側を内側へ畳む。


 ファステは用意していた水を運び、千代は使用した物と量を記録する。


 準備したとおりに進めている。


 それでも、実際に汚れた装備を前にすると、動きは慎重になった。


「臭いが残っています」


 ファステが言う。


「水だけで落ちるか?」


 リゼが尋ねる。


「分かりません。まず表面を洗います。ただし、洗った水も生活用とは分ける必要があります」


「捨てる場所も考えないと駄目か」


「庭へそのまま流すわけにはいかぬ」


 千代が答える。


 一体倒した。


 それだけだった。


 でも、帰ってきた瞬間から仕事が増えている。


 汚れた装備。


 使った水。


 布。


 武器の手入れ。


 身体に傷がないかの確認。


 準備していなければ、全部を共用部屋まで持ち込んでいたかもしれない。


「最低危険度、か」


 俺が呟く。


「最低でも、噛まれれば無事では済まなそうだったな」


 リゼが言う。


「一体なら倒せたけどね」


 ヴィオラがリゼを見る。


「簡単だった?」


「私一人なら、さほど難しくはない」


 リゼは汚れた刃へ視線を落とした。


「だが、二人を守りながら、数の分からない相手と戦うなら話は別だ」


 一体なら倒せる。


 だから奥へ進める。


 そうはならなかった。


 見えない場所から、いくつ音がしたのかも分からない。


 もし引き返す判断が少し遅ければ。


 もし前室までの通路を塞がれていれば。


 《淫獄》は、あの領域の中では開かなかった。


「前室まで戻れなかったら、帰れなかったんだよな」


「ああ」


「やっぱり、あそこが限界だった」


 進んだ距離は短い。


 得た情報も多くはない。


 それでも、今日の目的は果たした。


 変動する領域の中では、《淫獄》を開けない。


 現在の接続先には、グール系の魔物がいる。


 一体だけならリゼが倒せる。


 複数の音がした。


 そして、倒した後に残る物へどう触れればよいかも分からない。


 確認できた。


 全員で戻った。


 何も持ち帰らなかった。


 失敗ではない。


「お帰りなさいませ」


 装備の処理を始めながら、ファステが改めて言った。


「ただいま」


 俺が答える。


 その声に反応したのか、少し離れた場所で待たされていた縁が立ち上がった。


 こちらへ来ようとして、ファステに止められる。


「今は近づいてはいけません」


 縁の耳が伏せられた。


「汚れを落としたら行くから」


 俺が言うと、縁はその場に座った。


 近づかない。


 でも、離れてもいかない。


 その様子を見た瞬間、胸の奥へ別の感覚が重なった。


 汚れた装備のまま土間に立つリゼ。


 帰還まで俺の腕を離さなかったヴィオラ。


 受け入れる準備を整え、待っていたファステ、レイナ、千代。


 そして、安全な距離で俺たちを待つ縁。


 危険そのものではない。


 戦闘でも、汚れでもない。


 外へ出た者と、家で待った者。


 それぞれが自分の役割を選び、全員で俺たちを生活へ戻そうとしている。


 その関係が、俺の性的な好みへ不意に結びついた。


『《淫獄石》を520個獲得しました』


『所持《淫獄石》:5,130』


「今?」


 ヴィオラが表示を見る。


「俺もそう思う」


「戦っていた時ではないのだな」


 千代が言った。


「戦闘中に出ても困るよ」


「では、何がよかった?」


「聞かれて説明できると思う?」


「縁が待っていたから?」


「縁では石は出ない」


「なら、私たち?」


 ヴィオラが面白そうに笑う。


「今は洗浄を優先してくださいませ」


 レイナが会話を切った。


 助かった。


 俺たちはまだ、家の中へ戻れていない。


 ただ帰還しただけでは、探索は終わらない。


 装備を分ける。


 汚れを落とす。


 傷を確認する。


 使った物を数える。


 それが全部終わって、ようやく普段の生活へ戻れる。


 最低危険度の区画へ入り。


 一体を倒し。


 何も持ち帰らず。


 全員で帰った。


 今日できたのは、それだけだ。


 でも。


 今日確かめたかったのも、それだった。


 どこまで行けるかではない。


 どこまでなら戻れるか。


 その答えは、前室が見えるところまで。


 今の俺たちには、そのくらいがちょうどよかった。

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