第70話 同じカップじゃなくていい
三人が街へ出る朝、共用部屋の卓には一枚の紙が置かれていた。
書かれているのは、今回探す物と四人の希望だ。
リゼは丈夫さ。レイナは口当たりと仕上げ。千代は倒れにくさと深い色。ヴィオラは変わった柄、できればコイン模様を望んでいる。
最後の一文には、俺が横から線を引いていた。
その下に、ヴィオラがもう一度書き足している。
『コインの模様も候補』
さらに俺が、
『賭け事に関係しない物を優先』
と追加した。
そしてヴィオラが、
『模様に罪はない』
と返した。
「買い物の記録で会話するな」
千代が呆れたように言った。
「夜斗が先に消したんだよ」
「却下しただけだ」
「本人の希望を尊重する話だったのに」
「共同資金で賭博用品を増やさない話でもある」
「カップだよ?」
「お前が使うと賭博用品になりそうなんだよ」
ヴィオラは紙を畳み、自分の小袋へ入れた。
「実際に見てから決めるよ。高かったら買わない。それでいいんでしょ?」
「うん」
欲しい物があることと、必ず買うことは違う。
今の共同資金には限りがある。
今回は街で短期仕事をして、その報酬をどう分けるか決めてから買い物をする予定だった。
「茶葉を入れる容器も、お願いいたします」
ファステが、小さな布袋に入った茶葉を確認しながら言う。保存条件は前日にレイナへ伝えてある。
「実物を確認してまいりますわ」
「縁の器は?」
俺が尋ねると、千代が記録を見た。
「まずは水用じゃ。今の器は軽すぎる。餌用まで同時に買うかは、値段を見て決めよ」
「正式に飼うと決めてないのに、専用の器を買うんだね」
ヴィオラが言う。
「一時保護中であっても、水は飲む」
「はいはい」
縁は自分の話をされているとも知らず、庭へ続く入口の近くで尾を揺らしていた。
出発するリゼが荷物を背負う。
保存容器を優先し、残った資金でカップと縁の水入れを見る。高ければ、どれも無理には買わない。
「分かりましたわ」
レイナは少し楽しそうだった。
自分のカップを選ぶだけではない。
店に並ぶ物の品質を見て、全員の希望と予算を合わせる。
それが、今の彼女の役割になっている。
リゼが荷物を背負い、三人を送り出す。俺は周囲の安全を確かめてから《淫獄》への入口を閉じた。
◇
リゼたちが街へ到着したのは、以前と大きく変わらない時間だった。
決めていた経路を使い、周囲を確認してから人の流れへ混ざる。
今回も三人は、最初から買い物へ向かわなかった。
まずは短時間で終わる仕事を探す。
持っている金だけで買うこともできる。
しかし、共同資金を減らし続ければ、いずれ何も買えなくなる。
外から物を持ち帰るなら、外で使える金も少しずつ増やす必要があった。
三人が見つけたのは、荷車から店舗裏の保管場所へ商品を移す仕事だった。
布の束。
木製の器。
小さな金属製品。
乾燥させた食料。
運ぶ距離は短いが、数が多い。
リゼは最初に報酬を確認した。
「この量を全部運んで、この額か?」
「ああ。割った物は報酬から引く」
「終わったあとの追加は?」
「ない。増やすなら先に言う」
「分かった」
ヴィオラが荷車の中を見る。
「壊れやすい物は?」
「箱に印がある。それは二人で運べ」
レイナは店の裏口から保管場所までの通路を確認した。
「この布は、地面へ直接置かない方がよろしいですわね」
「汚したら困るからな」
「でしたら、先に置き場所を空けた方が早いですわ」
三人は、すぐには荷物へ手をつけなかった。
何をどこへ置くのか。
どれが重く、どれが壊れやすいのか。
先に順序を決めてから動き始める。
リゼが重い物を運び、ヴィオラが荷物の流れを整理し、レイナが品物の状態と置き方を確認する。
作業は予定より早く終わった。
「三人とも、前にもこういう仕事を?」
雇い主が尋ねる。
「似たことは何度か」
ヴィオラが答えた。
嘘ではない。
街での短期仕事は、すでに初めてではなかった。
報酬を受け取る。
以前より大きな額ではない。
それでも、今日の買い物へ使える分は増えた。
人通りの少ない場所まで移動してから、三人は硬貨を分けた。
「最初に決めたとおりですわね」
レイナが確認する。
報酬の一部は共同資金へ。
残りは、働いた三人がそれぞれ持つ。
全額を共同の物にする必要はない。
共同生活のために働いた部分と、自分で使い道を選べる部分を分ける。
「自分のカップで基準を超えた分は、ここから出せばいいんだね」
ヴィオラが自分の取り分を小袋へ入れる。
「そこまでしてコイン柄が欲しいのか?」
「実物を見てから決めるよ」
「買う気ではいるんだな」
三人は器を扱う店へ向かった。
◇
店には、棚いっぱいに器が並んでいた。
木製。
素焼き。
釉薬のかかった物。
金属製。
形も色もばらばらだ。
「これだけあると、逆に面倒だな」
リゼが言った。
「選べるというのは、そういうことですわ」
レイナは手近なカップを持ち上げ、縁の厚さを指で確かめた。
次に表面を見る。
底へ置き、わずかに揺らす。
「これは安定していますけれど、内側の仕上げが粗いですわね。汚れが残りやすそうです」
「飲めればいいんじゃないのか?」
「毎日洗う物ですのよ。手入れしにくければ、結局使わなくなりますわ」
「なるほど」
リゼは素直に頷き、自分でも器を手に取った。
持ち手へ指を通す。
軽く力をかける。
「これは細いな」
「乱暴に扱えば割れますわ」
「普通に持っただけだ」
「あなたの普通を基準にしてはいけません」
ヴィオラは二人から離れ、模様のある器を探していた。
「これ、丸い模様だよ」
持ち上げたカップには、小さな輪がいくつも描かれている。
「コインではありませんわね」
「見る人によってはコインに見える」
「花ではないか?」
リゼが言う。
「丸ければいいんだよ」
「希望が雑になっておるぞ」
その場にいない千代の声が聞こえた気がした。
値札を確認したヴィオラは、少し考える。
共同資金から出す基準額より、わずかに高い。
「差額は自分で出すのですの?」
「うん。これなら高すぎないし」
「本当にそれでよろしいのですか?」
「毎日使うなら、見て面白い方がいいからね」
ヴィオラは自分の取り分から差額を出すことにした。
リゼが選んだのは、厚手で持ち手の大きな灰色のカップだった。
表面には細い青色の線が一本だけ入っている。
「印もあるな」
「これで十分だ」
共同資金の基準内。
丈夫さも、持ちやすさも問題ない。
レイナは時間をかけて、淡い乳白色のカップを選んだ。
リゼの物より少し薄く、縁の部分が滑らかに仕上げられている。
装飾は控えめだったが、表面に小さな葉の模様がある。
「これにしますわ」
「もっと高い物を見ると思ってた」
ヴィオラが言う。
「高ければよいわけではありません。この価格で、この仕上げなら十分ですわ」
レイナのカップも基準額に収まった。
最後は千代の分だった。
底が広く、倒れにくい物。
黒か深い赤。
三人で探した結果、深い赤色のカップが見つかった。
装飾はほとんどなく、下へ向かうほど少し広がっている。
卓へ置いて軽く触れても、簡単には傾かない。
「これなら記録の横へ置いても倒しにくいな」
リゼが確認する。
「色も希望どおりですわ」
「千代、何でもいいって言いながら、意外と注文が多かったね」
「本人の前で言うなよ」
四つのカップが決まった。
同じ棚から選んだ物ですらない。
大きさも色も、形も違う。
だが、誰が使う物かは一目で分かった。
◇
次に、茶葉の保存容器を探した。
レイナはファステから預かった条件に沿って、匂い移りと手入れのしやすさを確かめる。
完全に密閉できる物は高かった。
そのため、三人は比較的小さな蓋付きの容器を選んだ。
茶葉の量にも合っている。
少なくとも、布袋のまま棚へ置くよりはいい。
「最初にこれを確保できたなら、残りはどうする?」
リゼが手元の硬貨を確認する。
四人分のカップと保存容器。
共同資金には、まだ少し余裕がある。
「縁の器を見ましょう」
レイナが言った。
「水用だけだな」
三人は、浅く底の広い器を探した。
倒れにくく、縁が顔を入れても深すぎない物。
候補は見つかった。
しかし、手に取ったレイナが眉を寄せる。
「内側に小さなひびがありますわ」
「水が漏れる?」
「今は漏れなくても、長くは使えないかもしれません」
ほかの物は値段が高いか、深すぎる。
「今日は見送る?」
ヴィオラが尋ねる。
「ああ」
リゼが即答した。
「今の器も、動きやすいだけで使えないわけじゃない。悪い物を急いで買う必要はない」
「賛成ですわ」
縁用の器は買わなかった。
餌用も含め、次回以降へ持ち越す。
必要な物をすべて買えたわけではない。
それでも三人の荷物には、四つのカップと茶葉の保存容器が入った。
帰る前に追跡の有無を確認し、予定していた経路を使って街を離れる。
余計な噂は追わない。
知らない若者を見かけても近づかない。
今日の目的は、生活用品を選び、無事に持ち帰ることだった。
◇
第一帰還地点で三人を迎えた時、最初に目へ入ったのは、リゼが抱えている包みだった。
「買えた?」
「一部はな」
「一部?」
「縁の器は見送った。条件に合う物がなかった」
「なるほど」
全部買えなかったことより、合わない物を買わずに戻ったことへ安心した。
「カップは?」
俺が尋ねると、ヴィオラが自分の荷物を軽く叩く。
「四つともあるよ」
周囲に人がいないことを確認してから、《淫獄》への入口を開く。
三人が中へ入り、俺も続いた。
家へ戻ると、ファステと千代が共用部屋で待っていた。
縁も、入口の開く気配に反応したのか庭から顔を出す。
「お帰りなさいませ」
「ただいま」
包みを卓上へ置く。
最初に取り出されたのは、茶葉の保存容器だった。
ファステが蓋を開け、内側の匂いを確認する。
指で表面をなぞり、布で拭きやすいか確かめる。
「これなら、今よりずっとよいと思います」
「完全には閉じないけどね」
「今ある茶葉の量でしたら、十分です。ありがとうございます」
ファステはすぐに茶葉を移さなかった。
一度容器を洗い、完全に乾かしてから使うらしい。
次に、四つのカップが並べられた。
灰色に青い線。
淡い乳白色に、小さな葉。
深い赤。
丸い模様。
本当に、全部違う。
「これはリゼだな」
「なぜ分かる?」
「一番頑丈そうだから」
「正解だ」
「こっちはレイナ」
「もちろんですわ」
「赤いのが千代」
千代は手に取り、底を確かめた。
卓へ置く。
軽く触れてみても、ほとんど揺れない。
「悪くない」
「気に入った?」
「実用に足ると言っておる」
気に入ったらしい。
「じゃあ、残りがヴィオラ」
「見て。コイン柄」
「花だろ、これ」
「私がコインだと思えばコインだよ」
「急に本人の解釈が強くなったな」
「自分のお金で差額を払ったからね」
ヴィオラは得意そうにカップを持ち上げる。
「差額?」
俺が尋ねると、レイナが今日の報酬の分け方を説明した。
一部を共同資金へ。
残りを三人の取り分へ。
共同資金の基準を超えた分は、欲しい本人が負担した。
「もう運用してきたんだ」
「先に決めた考え方を、そのまま使っただけですわ」
「問題あった?」
「ありませんでした」
レイナは自分のカップを撫でる。
「基準額の範囲でも、十分に良い物は選べましたから」
自分たちで働き。
報酬を分け。
共同生活に必要な物と、自分の希望へ使う物を区別する。
そして、買わない方がよい物は持ち帰らない。
俺が街へ行かなくても、その判断は進んでいた。
「縁の器は?」
千代が尋ねる。
「よい物がなかった」
リゼが答えた。
「ひびのある物を急いで買うより、今の器を使い続けた方がいい」
「うむ。それでよい」
千代も異論なく頷いた。
縁は自分の器が買われなかったことなど知らず、俺の足元まで来て座る。
「お前のは次だって」
声をかけると、耳だけがこちらへ向いた。
「本人は不満なさそうだね」
「話が分かってないだけだろ」
「正式に飼うと決めていないのに、次の買い物が決まったね」
「必要な物を検討しているだけじゃ」
千代の返答は前と同じだった。
◇
その日の午後、ファステが新しいカップを洗った。
買ったばかりの器を、いきなり全員で使う。
茶葉はまだ保存容器へ移していない。
容器を乾かす間、残っている茶葉で紅茶を淹れた。
俺とファステのカップ。
リゼの灰色。
レイナの乳白色。
千代の深い赤。
ヴィオラの丸い模様。
六つが卓上へ並ぶ。
色も形も揃っていない。
同じ家で使う食器としては、統一感がない。
それなのに、前よりずっと、この家に合っているように見えた。
「持ちやすいな」
リゼが自分のカップを確かめる。
「こちらは口当たりも問題ありませんわ」
レイナは一口飲み、満足そうに頷いた。
「倒れにくい」
千代はカップの隣で記録を開いている。
「やっぱりコインに見えるよね?」
ヴィオラが俺へ模様を向ける。
「花だよ」
「夜斗は想像力がないなあ」
「賭け事に寄りすぎなんだよ」
ファステは、六人のカップを順番に見た。
「皆様、違うのですね」
「同じ物を選ばなかったからな」
「はい」
彼女は自分のカップへ両手を添える。
「ですが、とてもよいと思います」
全員が違う物を使っている。
それぞれが、自分の欲しい条件を考えた。
街へ行かなかった者の希望も、行った三人が持っていった。
選ぶ者と、選択を預けた者。
買った者と、それを待っていた者。
一人ひとりの違いが、六つ並んだことで一つの光景になっている。
その関係と、カップを手にした五人の姿が重なり、俺の性的な好みへ静かにつながった。
『《淫獄石》を350個獲得しました』
『所持《淫獄石》:4,610』
「出たね」
ヴィオラがすぐに反応する。
「今回は服じゃないぞ」
「知ってるよ。カップを持った女が好きなんでしょ?」
「そういう単純な話にするな」
「では、何がよかったのじゃ?」
千代に聞かれ、俺は卓上を見る。
「全員、違うところ?」
「説明が足りぬ」
「俺にもよく分からないんだよ」
ただ、同じ物を持たせたかったわけではない。
皆が自分で選んだ物を、この家の中で使っている。
その光景が思った以上に刺さった。
「夜斗様」
ファステが穏やかに笑う。
「次は、縁の器ですね」
「まだ増やすの?」
ヴィオラが尋ねる。
「必要な物ですから」
「正式に飼ってないのに?」
「一時保護中でも、毎日使います」
ファステまで千代と同じ答えになっていた。
足元では、縁が昨日までと同じ軽い器から水を飲んでいる。
飲むたびに、器が少しずつ動く。
「次は、ちゃんとしたのを探そうな」
俺が言うと、縁は水から顔を上げた。
返事はない。
それでも、逃げることなく俺の足へ身体を寄せ、そのまま座った。
棚には、六つのカップが並んだ。
同じ物は一つもない。
誰の物か、見ればすぐに分かる。
家の中へ物が増えるというのは、ただ便利になることではないらしい。
そこに暮らす誰かの違いが、目に見える形で残っていく。
揃っていない。
だからこそ。
六つ並んだその棚は、前より少しだけ俺たちの家らしく見えた。
あとがき
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