第69話 次は、みんなのカップ
朝食を終えたあと、ファステは昨日使った二つのカップを棚から取り出した。
一つは俺の前へ。
もう一つは自分の前へ。
それぞれに紅茶を注ぎ、残りは普段使っている簡素な器へ分けていく。
「やはり、わたくしたちだけ違いますわね」
レイナが自分の器を見下ろした。
不満があるというより、目の前にある違いを確認している顔だった。
「飲めれば同じだろ」
リゼは気にせず紅茶へ口をつける。
「そういう問題ではありませんわ」
「味は変わらん」
「口当たりは変わります。厚みや形によって、香りの感じ方も違うのですわ」
「同じ物を買っても、レイナだけ感想が細かそうだね」
ヴィオラが笑う。
「あなたは何でも賭け事へ結びつけるでしょう」
「カップでは賭けないよ」
「“では”って言った?」
俺が尋ねると、ヴィオラは答えずに紅茶を飲んだ。
絶対に何か考えている。
俺も自分のカップを持ち上げる。
昨日より少し苦みが弱く、代わりに甘い香りが分かりやすくなっていた。
「昨日と違う?」
ファステに尋ねる。
「茶葉の量を少し減らし、湯へ入れておく時間を変えてみました」
「俺は今日の方が好きかも」
「分かりました。記録しておきます」
ファステは嬉しそうに答え、自分でも紅茶を確かめる。
昨日の一杯で終わりではなかった。
もう二杯目が始まっている。
俺とファステのカップは、卓上へ並んでいた。
その周囲に、形も用途もばらばらな器が四つ置かれている。
改めて見ると、確かに少し不揃いだった。
「買うか」
俺が言うと、四人の視線が集まった。
「何をだ?」
「カップ。四人の分も」
「まあ」
レイナの表情が明るくなる。
その隣で、千代がすぐに現実的な質問をした。
「共同資金から出すのか?」
「そこから決めないと駄目か」
「当然じゃ。必要な器なら共同の支出にできよう。されど、装飾や個人の好みまで、どこまで負担するかは別の話じゃ」
「カップ一つ買うだけで国家予算みたいになってきたな」
「家計じゃ」
千代に即座に訂正された。
「同じくらい面倒そう」
「面倒だから管理するのじゃ」
ヴィオラが、自分の器を指先で回す。
「全員、同じ物にする?」
「その方が管理はしやすいな」
リゼが答えた。
だが、レイナは少し考えてから首を横へ振った。
「毎日使う物ですもの。全員が同じ物を選ぶ必要はないと思いますわ」
「でも、違う物にすると値段も変わるよ」
「でしたら、共同資金で出す基準額を決めて、それを超える分は本人が負担する形でもよいでしょう」
レイナが言うと、千代が頷いた。
「筋は通っておる」
「俺たち、個人の金なんてほとんど持ってなくない?」
「これから持つ者も出よう。今すぐ全ての仕組みを完成させる必要はない」
「一回で正解を決めなくていい、か」
最近よく聞く考え方だった。
茶葉も。
紅茶の淹れ方も。
共同資金の使い方も。
最初から完璧な答えを出す必要はない。
「じゃあ、最低限使える値段までは共同資金。それより高い物が欲しいなら、差額をどうするか本人が考える。今はそんな感じでいい?」
「よかろう」
千代が答えた。
「ただし、安い物を基準とするにしても、すぐ割れるようでは余計に高くつく。レイナに品質を見てもらうべきじゃな」
「お任せくださいませ」
「また仕事が増えたね」
ヴィオラの言葉に、レイナが胸を張る。
「必要とされているのですから、構いませんわ」
以前なら、その言葉には少し危うさを感じたかもしれない。
役に立つからここにいる。
必要だから価値がある。
そういう考え方へ、皆が引っ張られていた時期があった。
でも、今のレイナは違う。
自分が選んだ役割を、自分ができるから引き受けている。
「で、どんなのが欲しい?」
俺が尋ねると、最初に答えたのはリゼだった。
「割れにくい物」
「終わり?」
「持ちやすくて、手入れが簡単ならいい」
「色とか模様は?」
「どうでもいい」
「選ぶ楽しみが全然ないね」
ヴィオラが呆れたように言う。
「道具は使えればいい」
「でも、自分の物だって分かる印くらいはあった方がいいよ。間違えないし」
「なら、小さな印があればいい」
「リゼの希望、丈夫で実用的で印がある物、と」
俺が数えるように言う。
「十分選んでるじゃん」
「そうか?」
本人だけが納得していなかった。
「レイナは?」
「実際に見てから決めますわ。持った時の重さ、縁の厚さ、表面の仕上げも確認したいですもの」
「装飾は?」
「実用品として無理のない範囲でしたら、少しくらいは」
「それ、店で長くなるやつだ」
「必要な確認ですわ」
次に千代を見る。
「妾は、倒れにくい物がよい」
「意外と普通だな」
「記録を取りながら使うこともある。底が狭く不安定な物では困る」
「色は?」
「何でもよい」
そこで少し間が空いた。
「……黒か、深い赤なら悪くない」
「ちゃんと好みあるじゃん」
「悪くないと言っただけじゃ」
千代は顔をそらした。
それを聞いていたヴィオラが、楽しそうに笑う。
「私は変わった柄がいいな」
「賭け事に関係ないやつにしろよ」
「コインの模様とか」
「今言ったばかりだろ」
「でも、他のと見分けやすいよ。実用的」
「その言葉を便利に使うな」
「夜斗はもう持ってるから、選ぶ楽しみがなくて残念だね」
俺は手元のカップを見る。
飾り気の少ない、簡素な物だ。
高価ではない。
特別な模様があるわけでもない。
けれど、最初の一杯を飲んだカップだった。
「俺はこれでいいよ」
そう答えると、ファステが自分のカップへ視線を落とした。
「私も、こちらを使いたいです」
「おそろいだね」
ヴィオラが言う。
「同じ店で買っただけだろ」
「二つだけ」
「最初の一杯に必要だったからな」
「二人で選んだの?」
「選んだのは三人だよ。俺は留守番」
「でも、二人で使うために買った」
「何が言いたいんだ」
「別に?」
またそれだった。
横を見ると、ファステが少しだけ俯いている。
耳が赤いように見えたが、湯気のせいかもしれない。
深く追及するのはやめておいた。
◇
話し合いが終わった頃、縁が庭から戻ってきた。
入口付近で足を止め、こちらを見ている。
「おいで」
ファステが呼ぶと、縁の耳が動いた。
すぐには来ない。
室内の様子を確かめてから、ゆっくり歩いてくる。
卓の下へ入り、いつものように俺の足元へ座った。
「やっぱり夜斗のところへ行くんだ」
ヴィオラが言う。
「俺、何も持ってないけど」
「何も持ってないからではないか?」
リゼが縁を見る。
「餌を持っている相手には、近づけば何かされる可能性もある。お前は本当に何もしないからな」
「褒められてる気がしない」
「褒めてはいない」
縁は俺たちの会話に構わず、前脚を折って丸くなる。
その近くには、普段使っている水入れがあった。
持ち帰った小動物へ一時的に使うため、手元にあった浅い器を割り当てた物だ。
欠けてはいない。
まだ使える。
ただ、縁が水を飲むたびに少し動く。
「縁の器も、見た方がよいかもしれません」
ファステが言った。
「今の物は軽く、動きやすいので」
「餌の器も必要ですわね。水用とは形を変えた方が見分けやすいでしょう」
レイナも縁の器を確認する。
「浅くて、倒れにくい物がいいな」
リゼが言う。
「急に全員具体的だな」
「毎日使っておるから、問題点も分かる」
千代が当然のように答えた。
「それも共同資金?」
ヴィオラが尋ねる。
「縁が共同で世話をしている存在なら、共同の支出でよかろう」
「正式に飼うと決めてないのに?」
俺が確認すると、千代の動きが止まった。
「……一時保護中の生物へ、必要な器を用意するだけじゃ」
「名前もあるし、寝床もあるし、餌の担当も決まってるけどね」
「観察に必要なのじゃ」
「外へ戻す予定は?」
「まだ決めておらぬ」
「もう答え出てない?」
「出ておらぬ」
千代が強く言い切る。
その声に、縁の耳だけが動いた。
「本人にも選ばせればいいんじゃない?」
俺は縁を見る。
「外へ出たければ、出られるようにしておく。ここにいたければ、使いやすい物を用意する」
「器を見せて選ばせるの?」
「そこまでは言ってない」
「縁なら、値段では選ばぬであろうな」
「千代、もう買う前提になってるぞ」
「必要性を検討しておるだけじゃ」
千代はそう言いながら、記録へ「浅く安定した器」と書き加えた。
完全に買うつもりだ。
◇
午後には、次に街へ行く時の候補品が整理された。
四人分のカップ。
茶葉を保管するための小さな容器。
縁の水と餌に使える、浅く倒れにくい器。
全部を一度に買えるとは限らない。
店に希望どおりの物があるとも限らない。
値段が高ければ、後へ回す物も出る。
「優先するなら、茶葉の保存容器でしょうか」
ファステが言った。
「今の茶葉を傷ませるわけにはいきません」
「自分のカップより先でいいのか?」
「私はすでに持っていますから」
ファステは棚の二つを見た。
「皆様のカップと、茶葉の容器。そのどちらを優先するかは、実際の価格を確認してからでよいと思います」
「次に行くのは、また三人?」
「今のところは、それが無難だろうな」
リゼが答える。
リゼ、ヴィオラ、レイナ。
街での短期仕事と買い物を経験している三人だ。
ファステは街へ行ってみたいと言ったが、彼女の過去と街との関係はまだ十分に確認できていない。
急がせる必要もない。
「希望は忘れないようにしないとね」
ヴィオラが指を折りながら確認する。
「丈夫で、印がある物」
「リゼ」
「口当たりと作りが良い物」
「レイナ」
「倒れにくくて、黒か深い赤」
「千代」
「変わった柄」
「お前」
「コイン柄」
「それは却下」
「本人の希望を尊重するんじゃなかった?」
「賭け事を家中へ増やしたくないという共同体側の希望も尊重しろ」
「多数決?」
「安全対策」
「模様が危険物扱いになってる」
ファステが小さく笑った。
リゼも呆れたように息を吐き、レイナは「品のある物にしてくださいませ」と付け足す。
千代は記録を続けている。
縁は俺の足元で眠ったままだ。
棚には二つのカップがある。
次に増えるのは、同じ物ではない。
丈夫な物。
作りの良い物。
倒れにくい物。
変な柄の物。
六人で暮らしているからといって、六人が同じ物を欲しがるわけではなかった。
むしろ、一緒に暮らすようになったからこそ、誰が何を選ぶのかが見えてくる。
最初の二つは、もう棚にある。
次に増える四つは、同じ物である必要はない。
毎日使う物を、自分で選ぶ。
家というのは、たぶん、そういう違いを置いておける場所だった。




