第68話 最初の一杯
朝から、ファステの様子が少しおかしかった。
落ち着きがない、というほどではない。
共用部屋の掃除をして、朝食の準備をして、縁の水を替える。いつもと同じ順番で、いつもと同じように身体を動かしている。
ただ、ときどき棚を見る。
昨日買ってきた茶葉と、二つのカップが置かれている棚を。
俺が気づいただけでも、これで四回目だ。
「今日、飲むんだよな?」
朝食の片づけが終わったところで尋ねると、ファステの手が止まった。
「はい」
短い返事だった。
それから、棚を見て少しだけ目を細める。
「今日、淹れます」
ずっと待っていたはずなのに、その声は浮ついていなかった。
むしろ、大事なものを扱う前のように慎重だった。
「手伝うことある?」
「お気持ちだけで十分です」
「即答」
「夜斗様にお任せすると、不安が増えますので」
「俺、紅茶で何かやらかしたことあったっけ?」
「火と水を扱います」
「存在そのものを信用されてない?」
ファステは困ったように微笑んだ。
否定はしなかった。
「今日は、二人で飲むんだよね?」
共用部屋の端でコインを弄んでいたヴィオラが、面白そうに口を挟む。
「最初の一杯は、そういう約束だったからな」
「へえ」
「何だよ」
「別に?」
絶対に何かある言い方だった。
レイナも、買ってきた二つのカップへ視線を向ける。
「わたくしたちは後なのですわね」
「皆様の分も、あとでお淹れします」
ファステがすぐに答えた。
「ただ、最初だけは……」
そこで言葉を切り、俺を見る。
「夜斗様と飲みたいのです」
静かな言葉だった。
以前から決まっていたことを、もう一度確認しただけ。
それなのに、正面から言われると妙に落ち着かない。
「うん。俺も、そのつもり」
「では、少しお待ちください」
ファステはそう言って、茶葉を棚から下ろした。
◇
本格的な道具が揃っているわけではない。
湯を沸かすための鍋と、湯を移す容器。茶葉を量る小さな匙。目の細かい布。
どれも、紅茶のためだけに作られた物ではなかった。
それでもファステは、一つずつ状態を確かめていく。
容器を洗い、布の目を確認し、買ってきた茶葉の香りをもう一度確かめる。
俺には手際がいいようにしか見えない。
けれど、本人は何度か動きを止めた。
「やっぱり、道具が足りない?」
「そうですね。以前と同じようにはできません」
ファステは茶葉を見つめたまま答える。
「湯の温度も、正確には測れません。茶葉の量も、この匙を基準に覚える必要があります。容器も専用の物ではありませんから、香りがどこまで残るか……」
「失敗しそう?」
「分かりません」
ファステは素直に言った。
「ですから、今日の淹れ方を覚えます。次は少し変えて、また確かめます」
一回で正解を選ぶ必要はない。
昨日、茶葉を選ぶ時にも出た言葉だった。
茶葉だけではなく、淹れ方も同じらしい。
「前と違ってもいいんじゃない?」
俺が言うと、ファステがこちらを見た。
「前に飲んでた紅茶を、そのまま再現しなくても。ここで飲むなら、ここでできる淹れ方を探せばいい」
「ここでできる、淹れ方……」
「道具も茶葉も、これから増えるかもしれないし」
俺は二つのカップを見る。
「今日のが最初なら、次はそこから変えていけるだろ」
ファステはしばらく黙っていた。
やがて、わずかに肩の力を抜く。
「はい」
今度の返事は、さっきより柔らかかった。
「そうしてみます」
鍋の中で水が温まり、小さな音を立て始める。
ファステはその音と湯気を確かめながら、火から下ろす時を待った。
茶葉を入れる。
湯を注ぐ。
ほのかな香りが、簡易調理場所へ広がっていった。
強くはない。
けれど、普段の食事とも、採ってきた香草を煮た時とも違う。
穏やかで、その奥に少し甘さを感じる香り。
「昨日より分かる」
「湯を注ぐと、香りが開きますから」
ファステは嬉しそうだった。
大きく笑ったわけではない。
ただ、湯気の向こうで目元が少し緩んでいる。
それを見ているだけで、長く待った意味があったように思えた。
茶葉を布で受けながら、二つのカップへ注ぐ。
片方を満たしてから次へ移るのではない。
濃さが偏らないように、少しずつ交互に。
俺の分と。
ファステの分。
二つとも、同じ紅茶だった。
「ファステも同じのを飲むんだな」
思わず口にすると、彼女の手が止まった。
「はい。私も飲みたいと、お伝えしましたので」
「ああ、うん」
分かっていた。
分かっていたはずなのに。
ファステが誰かへ出すためだけではなく、自分の分まで同時に用意している光景は、想像していたより強く胸に残った。
使用人としてではない。
俺のためだけでもない。
自分も飲みたいから、自分の分を淹れている。
「お待たせしました」
二つのカップが、共用部屋の卓上へ並べられた。
◇
最初の一杯だからといって、二人きりになったわけではない。
リゼは土間で装備を整えている。
レイナは少し離れたところで布を畳み、千代は物置の記録を確認していた。
ヴィオラに至っては、隠す気もなくこちらを見ている。
「見られてると飲みにくいんだけど」
「気にしないで」
「気になるから言ってる」
「だって、最初の一杯でしょ?」
「そうだけど」
「私たちならおらぬものと思え」
千代が記録から顔も上げずに言った。
「五人もいるのに無理だろ」
足元では縁が丸くなっていた。
こいつだけは本当に興味がないらしい。
ファステは向かい側へ座り、自分のカップへ両手を添えた。
「どうぞ」
「いただきます」
慎重にカップを持ち上げる。
まだ少し熱い。
香りを感じてから、少量だけ口へ含んだ。
苦い。
最初に浮かんだのは、それだった。
でも、嫌な苦さではない。
飲み込んだあとに香りが残り、その奥からわずかな甘さが戻ってくる。
これまで飲んできた水や香草の煮汁とは、明らかに違う。
「どうでしょうか」
ファステが俺を見ていた。
期待だけではない。
少しの不安も混ざっている。
俺はもう一口飲んだ。
「うまい」
「本当ですか?」
「たぶん」
「たぶん?」
「紅茶の良し悪しを語れるほど飲んでないから。でも、俺は好きだと思う」
正直に答えると、ファステの表情が緩んだ。
「よかったです」
「ファステは?」
「まだ飲んでいません」
「俺の反応待ってたの?」
「……少しだけ」
「先に飲んでもよかったのに」
「一緒に飲みたかったのです」
ファステもカップを持ち上げる。
香りを確かめ、静かに口をつけた。
目を閉じる。
急いで評価せず、口の中に残るものまで確かめているようだった。
「どう?」
今度は俺が尋ねた。
ファステは目を開き、カップの中を見る。
「以前飲んでいたものとは、違います」
「やっぱり?」
「はい。茶葉も、道具も、淹れ方も違いますから」
失敗したのかと思った。
けれど、ファステはカップを置かなかった。
もう一度、今度は先ほどより自然に口をつける。
「ですが」
湯気の向こうで、ファステが微笑んだ。
「私は、好きです」
その言葉が、静かに胸へ残った。
誰かへ出すためではなく、自分のためにも選んだ茶葉。
俺と飲むと決めた最初の一杯。
二つ並んだカップ。
同じ紅茶を飲み、自分の好みを自分の言葉で口にしたファステ。
最初に会った頃なら、きっと俺が喜ぶ答えを先に探した。
皆が望むものを、自分の希望より優先した。
今は違う。
ファステ自身が飲みたいものを選び。
ファステ自身が淹れたいから淹れ。
そして、好きだと言った。
俺はもう一度、紅茶を口へ運んだ。
さっきより温度は下がっていたが、香りはまだ残っている。
今日の淹れ方を覚えて。
次は少し変えて。
そうやってファステが選び直していく紅茶を、また一緒に飲んでみたい。
「これなら、また飲みたい」
ファステの目がわずかに見開かれた。
「ファステが淹れたこれなら、また飲みたい」
言い直す必要はなかった気もする。
でも、茶葉が同じなら誰が淹れても同じ、とは思わなかった。
ファステはカップを両手で包んだまま、ゆっくりと頷いた。
「はい。私も、またお淹れしたいです」
一瞬、静かになった。
過去の約束が実現しただけではない。
今日の一杯が、次も続いてほしいものへ変わった。
ファステの変化と、ここまで積み重なった関係。そして、これからも彼女と同じ時間を重ねたいという俺自身の欲望。
そのすべてが俺の性的な好みへ一気につながり、深く刺さった。
『《淫獄石》を1,500個獲得しました』
『所持《淫獄石》:4,260』
数字を見たまま、俺は固まった。
静かな食卓には、あまりにも似合わない増加量だった。
「……今の、性癖クリティカルでしょ」
ヴィオラの声が飛んでくる。
いつの間にか、全員がこちらを見ていた。
「たぶん」
今回は否定できなかった。
「何がそこまで刺さった?」
「聞くな」
「1,500だよ?」
「俺が一番驚いてるよ」
レイナがファステと俺を交互に見る。
「ただ紅茶を飲んだだけですわよね?」
「ただではなかった、ということであろう」
千代が妙に納得した様子で頷いた。
「長く待ち続けた約束が、ようやく形となったのじゃ。こやつの欲望には、そうした積み重なりも強く響くらしい」
「冷静に分析しないでくれ」
リゼは俺たちのカップを見た。
「装備を変えた時より、ずっと多いな」
「比較するな」
「服じゃなかったね」
ヴィオラが楽しそうに言う。
「分かってるよ」
分かってしまった。
派手な衣装でもない。
露出が増えたわけでもない。
二人で紅茶を飲んだだけだ。
でも、その「だけ」に至るまでが長かった。
前にも似たことで石は出ている。
それでも、今回は意味が違った。
約束した未来を想像した時ではない。
それが本当に目の前へ来て、その先の未来まで欲しいと思った瞬間だった。
◇
最初の一杯を飲み終えたあと、ファステは残った茶葉でもう一度紅茶を淹れた。
今度は全員分だ。
カップは二つしかないので、残りは普段使っている簡素な容器になった。
「私だけ違いますわ」
レイナが少し不満そうに自分の容器を見る。
「俺も二杯目はそれだよ」
「最初の二つだけが特別なのですね」
「そういう言い方やめてくれる?」
「事実ですわ」
リゼは香りを嗅いでから、一口飲んだ。
「苦いな」
「お前、感想が俺と同じだな」
「だが悪くない」
千代はしばらく味を確かめてから頷く。
「温かい飲み物としてもよい。保存と量には注意が必要じゃが、余裕がある時の楽しみにはなる」
「娯楽費が飲み物になったね」
ヴィオラが言う。
「賭け事よりは有益だろ」
「両方あってもいいじゃない」
「共同資金を賭けるなよ」
「まだ賭けるとは言ってないよ」
「その“まだ”が怖いんだよ」
いつもの会話の中に、紅茶の香りが混ざっていた。
縁も匂いが気になったのか、卓の下から鼻先を上げる。
「これは駄目です」
ファステが先に止めた。
縁の耳が動く。
「ごはんではありません」
理解したのかどうかは分からない。
縁は少しだけこちらを見てから、俺の足元で丸くなった。
棚には、まだ茶葉が残っている。
次に淹れる分。
その次に試す分。
二つしかないカップも、いつかは増やすことになるかもしれない。
専用の道具も欲しくなる。
茶葉を長く保管する容器も必要だ。
最初の一杯を飲んだことで、足りない物はむしろ増えた。
でも、それは困っているという意味ではない。
次に欲しい物が分かるようになった、ということだ。
ファステが自分のカップを洗い、大切そうに水気を拭き取る。
俺のカップも、その隣へ置かれた。
今日、最初の一杯を飲んだ。
それで約束が終わったわけではない。
また飲みたいと、俺は言った。
また淹れたいと、ファステも言った。
最初の一杯は、一度しかない。
けれど。
二杯目から先は、これからいくらでも増やしていける。




