第66話 家って、勝手に馴染むもの?
「こちら、昨日までありましたか?」
朝食の片づけをしていたファステが、保管場所の前で首を傾げた。
指しているのは、小さな棚だった。
塩を入れた容器。
補修用品。
針と糸。
用途の違う布。
残った共同資金。
まだ空の茶葉用容器。
最近増えた物を分けて置くのに、ちょうどよい大きさだった。
「なかったと思う」
「少なくとも、妾の記録にはない」
千代が保管状況を記した物を確認する。
「昨夜の時点では、塩と補修用品を同じ段へ置いておった」
「じゃあ、夜の間に増えた?」
俺は《淫獄》の表示を開いた。
『生活環境を微細調整しました』
「微細調整」
見慣れ始めた通知だ。
「レベルは上がってない」
『固有スキル:《淫獄の王》Lv.2』
表示は以前と変わらない。
「大きさも、ほとんど変わっておらぬ」
千代が家の中を見回す。
「今ある物を置きやすくなっただけのようですわね」
レイナが新しい棚へ布を置いてみる。
棚の幅は、畳んだ布を少量収めるのにちょうどいい。
「家って、勝手に使いやすくなっていくものなの?」
「普通の家は勝手に棚を増やさぬ」
千代に即答された。
「この家、使い方に合わせて変わることはあるみたいだし」
ヴィオラが増えた棚を覗き込む。
「便利だからいいけど、見られてる感じがするな」
「今さらではないか?」
「そうだけど」
欲望から石を作り、住民を召喚し、暮らしに合わせて形まで変える。
普通の家からは、かなり遠い。
それでも今では、ここ以外の家で暮らす方が想像しづらくなっていた。
◇
棚以外にも、小さな変化があった。
土間の装備置きは、以前より少し安定している。
武器や道具を立てかけても滑りにくい。
針と糸を置く場所には浅い仕切りが増え、小さな物が転がり落ちにくくなっていた。
共同資金を入れた容器も、ほかの素材と離して置ける。
空の茶葉用容器の下には、倒れにくい程度の浅い窪みまでできている。
「茶葉はまだないのに」
「容器を置いたからではないでしょうか」
ファステが空の容器を元の場所へ戻す。
「場所だけ先に馴染んだのか」
「中身が入る日はまだ決まっておりませんが」
「そのうちな」
「はい」
ファステが少し笑った。
庭へ続く場所の段差も、以前より滑らかになっていた。
大きな設備が増えたわけではない。
水が自由に使えるようになったわけでも、食料の保存問題が解決したわけでもない。
ただ、毎日使う場所が、少しずつ使いやすくなっている。
◇
庭にも変化があった。
縁がよく休んでいた一角。
家の影が入り、風を避けやすい場所だ。
そこが浅く窪み、身体を丸めるのにちょうどよさそうな形になっていた。
底には柔らかい草が残っている。
周囲より少し高い部分があり、雨が降っても水が溜まりにくそうだった。
「これ、前からあった?」
「いや。少なくとも、ここまで整ってはおらなんだ」
千代がしゃがみ込み、地面を確認する。
「縁がよくここで休んでいたからでしょうか」
ファステが言う。
「縁が望んだから変わったのか?」
「それは分からん」
リゼが周囲を見る。
「六人がここを縁の休む場所として扱っていることへ反応した可能性もある」
「単純に、何度も使った場所へ合わせただけかもしれませんわ」
原因は分からない。
《淫獄》が縁の望みを拾ったのか。
俺たちの生活に合わせたのか。
同じ場所が繰り返し使われた結果なのか。
「本人に聞いてみる?」
ヴィオラが縁を見る。
当の縁は、窪みとは別の場所で毛づくろいをしていた。
「使わないね」
「作られたって分かってないだろ」
「縁が作ってほしいと思ったとも限らない」
リゼの言うとおりだった。
六人で窪みを囲んでいる方が、縁にとっては迷惑かもしれない。
俺たちは場所を空け、家の中へ戻った。
◇
共用部屋の床へ座る。
縁は少し遅れて庭から入ってきた。
ファステの近くを通る。
千代が管理している餌の置き場所を確認する。
ヴィオラの指先で回るコインへ一度だけ目を向ける。
その後、まっすぐではないが、最後には俺のところへ来た。
「今日も来た」
足元で一度止まる。
俺が動かないでいると、縁は膝の横へ身体を寄せた。
服の裾に前脚を乗せ、そのまま丸くなる。
「俺、何もしてないけど」
「お食事を用意しているのは、私なのですが……」
ファステが小さな声で言った。
「餌の時はファステのところへ行くだろ」
「お食事がなくても来ていただきたいのです」
言った後で、ファステは少し恥ずかしそうに目を伏せた。
「いずれ来ると思うよ」
「そうでしょうか」
「俺より世話してるし」
「世話の量で決まるものではないのかもしれないな」
リゼが俺と縁を交互に見る。
「お前、本当に何もしていないように見えるんだが」
「俺もそう言った」
「何もしないのがいいのか?」
リゼはしばらく考えた。
「追わないから、向こうから来るのか」
「たぶん」
◇
レイナが、縁から少し離れた場所へ腰を下ろした。
すぐに手は伸ばさない。
自分の隣を軽く叩く。
「わたくしのところへ来てもよいのですけれど」
縁の耳が一度だけ動いた。
しかし、俺の横から離れない。
「聞こえなかったようですわね」
「聞こえてたと思うよ」
ヴィオラが言う。
「聞こえなかったのです」
レイナは表情を変えずに言い切った。
「動物の選択に一喜一憂するでない」
千代だけは、少し離れた場所で冷静に記録を整理している。
縁が俺の服へ身体を預け、完全に目を閉じる。
「……少しくらい、こちらへ来てもよかろうに」
「今、何か言った?」
「何も言っておらぬ」
千代も表情を変えなかった。
「夜斗だけずるくない?」
ヴィオラは隠すつもりすらないらしい。
「何が?」
「全員で世話してるのに、一番いい場所を取られてる」
「俺が取ったんじゃない」
「選ばれた側の余裕だ」
「そんな大げさな話じゃないだろ」
ヴィオラがコインを床へ置き、指で弾く。
飲み込めないよう、縁から距離を取ったまま転がした。
縁は目を開け、光るコインを視線だけで追う。
しかし動かない。
「負けた」
「勝負だったのか?」
◇
その後、五人がそれぞれ縁を呼び始めた。
「縁、こちらへ来ませんか?」
ファステが餌を持たずに名前を呼ぶ。
縁は顔を上げたが、動かなかった。
リゼは、俺と同じように動かず待とうとした。
「怖いんじゃない?」
「何がだ」
「いつでも動ける姿勢になってる」
ヴィオラに言われ、リゼは力を抜こうとする。
しかし、普段から周囲を警戒しているためか、完全に無防備には見えなかった。
レイナは何度か上品に隣を勧めた。
そのたびに縁は耳だけ動かす。
「聞こえておりますわね」
「さっきは聞こえてないって言ってなかった?」
「今は聞こえましたの」
千代は興味がない顔をしながら、自分の近くへ柔らかい布を置いた。
「それ、縁のため?」
「余った布の置き場所を変えただけじゃ」
「縁が来やすい位置に?」
「偶然じゃ」
ヴィオラはもう一度コインを使おうとして、リゼに止められた。
「飲み込ませるな」
「分かってるよ」
「なら離せ」
「厳しいなあ」
誰も無理につかまえようとはしない。
その点だけは、最初の頃から変わらなかった。
◇
「俺は、懐かせようとしてなかったから?」
自分で言ってみる。
餌を用意するのはファステだ。
寝床や必要量を管理しているのは千代。
危険から守れるのはリゼ。
近づくまで待っていたのはレイナも同じ。
遊びを持ち込んだのはヴィオラだ。
俺だけが何か特別なことをした覚えはない。
「夜斗様は、縁が近づくまで待っていらっしゃいますから」
ファステが言った。
「皆も待ってただろ」
「近づいた後も、縁が離れれば追われません」
縁が近づけば、そのままにする。
離れれば追わない。
触れそうな距離に来ても急がない。
俺の都合で間を縮めようとしない。
「近づいた後も、いつでも離れられると思っているのかもしれないな」
リゼが言う。
「そんなに考えてるかな」
「考えていなくても、感じてはいるんじゃない?」
ヴィオラが答えた。
縁の内面は分からない。
俺が一番好きだから来ているとも限らない。
一番動かず、逃げ道を塞がないから安全だと判断しているだけかもしれない。
でも、その積み重ねで、今の距離になった。
追わなければ、誰もが戻ってくるわけではない。
セリナはまた旅立った。
これからも、戻るかどうかは本人が決める。
ただ、戻りたいと思った時に戻れる余地だけは残る。
人と動物を同じに考えるつもりはない。
それでも、距離を決める権利を相手に残すという点では、少し似ている気がした。
◇
「今なら触れるんじゃない?」
ヴィオラが声を落として言った。
縁は俺の膝の横で眠っている。
前には、自分から俺の手へ顔を触れさせた。
それでも、俺から触れたことはない。
手を伸ばす。
縁が目を覚ましたら、すぐ止められる速さで。
指一本だけを近づける。
背中の毛先へ、ごく軽く触れた。
縁が目を開けた。
耳が一度動く。
俺は指を止めた。
逃げるなら、すぐ離せる。
だが縁は立ち上がらなかった。
しばらく俺の指を見た後、また目を閉じる。
「……逃げなかった」
「よかったですね」
ファステが自分のことのように微笑む。
「次はわたくしですわね」
レイナが言う。
「順番制なの?」
「お前と同じことをすればいいのか?」
リゼまで聞いてくる。
「俺にも正解は分からないぞ」
「ずるい」
ヴィオラが、今度ははっきり言った。
五人の視線が、縁と俺へ集まっている。
いつもは落ち着いて世話をするファステが、少し寂しそうにする。
リゼは真剣に理由を分析している。
レイナは上品に振る舞いながら、次は自分だと思っている。
千代は平静な顔で、近くに置いた布を片づけようとしない。
ヴィオラだけは、素直に羨ましいと言う。
同じ一匹をめぐって見せる、五人それぞれの普段とは違う表情。
縁ではない。
その五人と、これまで積み重ねてきた関係。
俺だけが選ばれているように見える状況まで重なり、性的な意味で強く刺さった。
『《淫獄石》を220個獲得しました』
『所持《淫獄石》:2,670』
「縁より、私たちに反応した?」
「たぶん。認めたくないけど」
「何を考えておった」
千代が目を細める。
「言えるわけないだろ」
「聞かない方がよさそうですわね」
「それがいい」
縁は表示にも声にも反応せず、俺の横で眠り続けていた。
◇
増えた棚。
使いやすくなった道具置き場。
庭にできた小さな窪み。
俺のそばで眠る縁。
「家も、縁も、急にこうなったわけじゃないんだよな」
「積み重ねが形になったのであろう」
千代が答えた。
物を置く。
同じ場所を使う。
世話をする。
待つ。
外へ出て、戻る。
それを繰り返した結果、家も関係も少しずつ形を変えた。
正確な条件は分からない。
《淫獄》が何を見て、どこまで反応しているのかも分からない。
ただ、昨日までの暮らしが、今日の形へ残っている。
◇
「ここまで懐いておりますのに、まだ正式に飼っていないのですの?」
レイナが改めて尋ねた。
千代は飼育判定を保留のまま記録し、リゼが続けた。
「食性も種族も、まだ不明だ」
リゼも冷静だった。
「でも名前も寝床もある」
「餌も水も管理しています」
ファステが付け加える。
「実態はかなり飼ってるけどな」
「なら、いつ正式になるんだろうね」
ヴィオラが言う。
誰も答えられなかった。
正式飼育は保留。
食用判定も保留。
それでも縁は、今日もこの家で眠っている。
◇
夜。
縁は結局、その日も俺の足元で眠った。
ファステは空の茶葉用容器を新しい棚へ置く。
リゼは土間で装備を整える。
レイナと千代は、今日増えた保管場所を確認している。
ヴィオラは共用部屋でコインを弄んでいた。
「ずるい」
誰かが小さく言った。
俺が顔を上げる。
五人とも、何も言っていない顔をしていた。
たぶん、一人ではなかった。




