第58話 行かない理由が減ってきた
セリナが再び旅立った翌日。
共用部屋は、昨日より少しだけ静かだった。
一晩しか滞在していないのだから、生活が大きく変わったわけではない。
ファステはいつもどおり朝食の片づけをしている。リゼは土間で装備を確認し、レイナは庭から戻ってきたところだった。
千代は床へ小石と素材片を並べ、ヴィオラはその横でコインを指の間に転がしている。
縁は俺の足元から少し離れたところで丸くなっていた。
いつもの朝だ。
ただ、一度増えた人数が減ると、その一人分だけ音が足りなく感じる。
「で、どうする?」
ヴィオラがコインを弾いた。
「何を?」
「街と地下」
俺は答えず、床に並べられた物へ視線を落とした。
地下入口を示す黒い小石。
街があると思われる方向を示す細長い枝。
その間に置かれた、小さな白い石。
たぶん、俺たちだ。
「まず、分かっていることを整理するぞ」
千代が枝先で黒い石を示した。
◇
「地下へ入る理由からじゃ」
現在、あの入口の先はグール系の区画へつながっている可能性が高い。
危険度は最低。
ただし、安全ではない。
敵対的な魔物がいて、集まれば面倒で、噛まれれば衛生面の危険もある。
そのうえ、価値の高い鉱石や薬草などは期待できず、探索者からの人気も低い。
「危険はあるのに、欲しい物がほとんどないんだよな」
「探索そのものが目的なら別だが、生活改善の優先度は低い」
リゼが即答した。
「未知の場所へ行くっていう楽しみはあるよ?」
「命を懸ける娯楽は間に合ってる」
「賭け事より健全かもしれないのに」
「どこが?」
それでも、地下入口そのものに価値がないわけではない。
入口直下では《淫獄》と往復できた。
将来的には、《淫獄》と外界をつなぐ地点として使える可能性がある。
現在の接続先が変われば、資源価値も上がるかもしれない。
「二月ほどで接続先が変わる可能性があるのであれば、今の区画を深く調べる価値はさらに低い」
千代が黒い小石を少し脇へ動かした。
「調べ終わった頃に変わったら嫌だな」
「攻略した瞬間、別の地図になるかもしれないね」
「ゲームなら怒るやつ」
しかも、入口は何者かによって管理されている。
巡回者もいる。
利用に許可や登録が必要なのか、勝手に入れば問題になるのかも分かっていない。
「捨てる必要はない」
リゼが言った。
「だが、今すぐ奥へ入る理由もない」
「では、当面は保留じゃな。入口周辺の変化だけは、必要な範囲で確認する」
地下探索の中止ではない。
ただ、優先順位を下げる。
未知の地下へ入りたいという気持ちは、少しだけある。
でも、今そこへ入る意味は薄かった。
◇
「次は街じゃ」
千代が細長い枝を示す。
そちらについては、セリナから得た情報が多い。
旅人でも街へ入れる。
短期の仕事があり、現地通貨を稼ぐ方法もある。
食料、塩、調味料、保存容器、布、糸、針、縄、武具の補修用品。
今の《淫獄》で不足している物の大半が、街には存在するらしい。
「茶葉もあります」
ファステが小さく付け加えた。
「買ってなかったけどな」
「旅のためのお金を減らしてまで、急いで買っていただく物ではありませんから」
そう言いながらも、ファステは少しだけ嬉しそうだった。
茶葉が見つかった。
それだけで、以前から続いている約束が現実へ少し近づいたのだと思う。
「布と糸と針があれば、今ある衣服ももう少し整えられますわ」
レイナが自分の袖へ触れる。
「縄と補修用品も必要だ」
「地図と相場の情報もじゃ。周辺の勢力や治安も分かればよい」
「酒場と賭け事もあるかもしれない」
ヴィオラが当然のように続けた。
「お前だけ希望の種類が違わない?」
「噂は情報だよ」
「賭け事は?」
「文化調査」
「絶対違う」
街には物がある。
仕事もある。
情報もある。
学生らしき若者の噂まである。
俺は床の枝を見た。
「……行かない理由、減ってない?」
「最初から、行きたくないという理由しか残ってないんじゃない?」
「それはかなり強い理由だろ」
「じゃあ行こう」
「まだ行くとは言ってない」
俺は反射的に答えた。
ヴィオラが笑う。
以前は何も分からなかった。
誰が暮らしているのか。
外から来た人間がどう扱われるのか。
金を持たない俺たちが生きられるのか。
何一つ分からなかったから、近づかなかった。
今は少し分かる。
だからといって、すぐ街へ行く必要はない。
「次は、行ける状態にする」
「行くかどうかと、行けるかどうかは別じゃな」
千代が頷いた。
◇
「誰が行く?」
ヴィオラが尋ねる。
「もう行く前提になってない?」
「候補を決めるだけだよ」
初めて街へ入るなら、俺は同行した方がいい。
最終的な判断をほかの誰かへ押しつけたくない。
学生らしき若者の噂も、自分で確かめたい気持ちはある。
問題は、俺に戦闘能力がほとんどなく、人付き合いも得意ではないことだ。
「自分で言ってて悲しくなってきた」
「正確な自己評価は大切じゃ」
「もう少し慰めてくれてもよくない?」
護衛ならリゼだ。
危険の察知や追跡への警戒も任せられる。
ただし武装が目立つ可能性がある。
「必要なら武器は減らす」
「減らしすぎるなよ」
「どちらなんだ」
「目立たず、でも俺を守れるくらい」
「無茶を言うな」
ヴィオラは交渉、相手の表情、価格、噂話を見ることに向いている。
「賭け事へ寄り道しないなら」
「必要な文化調査かもしれない」
「初回は必要ない」
「残念」
千代は情報を整理する能力が高い。
しかし服装や態度によっては、普通の旅人より目立つ。
「そなたが余計なことを口走らぬか見張る役も必要じゃがな」
「それはヴィオラに頼む」
「私が一番余計なこと言いそうだけど?」
「自覚あるんだ」
ファステは街の生活物資に詳しいかもしれない。
だが、元の家の関係者や追っ手への不安はまだ消えていない。
この街に関係者がいる可能性は低くても、ないとは言い切れない。
「私は留守を守ります」
ファステは自分から言った。
「欲しい物については、先にお伝えできますから」
レイナは布や生活用品を見る目がある。
一方で、言葉遣いや立ち居振る舞いが目立つ可能性がある。
「初めての訪問で人数を増やす必要もありませんわ」
「では、夜斗、リゼ、ヴィオラが第一候補じゃな」
「まだ候補だからな」
「何回言うの、それ」
大事なところなので何回でも言う。
◇
「セリナは普通に入れたんだよな」
俺が言うと、千代はすぐに首を振った。
「セリナが入れたことと、そなたらが同じ扱いを受けることは別じゃ」
「服装も似たような旅装だぞ」
「人数が違う。武装も、持ち物も、振る舞いも違う」
リゼが加える。
「一人旅の女と、武装した三人組では警戒のされ方も変わる」
「セリナと同じ格好をすれば大丈夫、ではないってことか」
「当たり前じゃ」
成功例を、そのまま自分たちへ当てはめるわけにはいかない。
街の入口では、名前や来訪目的を尋ねられる可能性がある。
出身地。
滞在予定。
同行者との関係。
武器を持っている理由。
「遠方から来た旅人。目的は補給と情報収集。この辺りには詳しくない」
ヴィオラが指を折りながら並べた。
「嘘ではないね」
「出身を聞かれたら?」
「正直に日本って言う?」
「それは嫌だ」
「では、遠方とだけ答えればよい」
千代が言った。
「答えぬ方がよい問いには、答えをぼかすしかあるまい。下手に虚偽の土地を作れば、詳しく尋ねられた時に破綻する」
「嘘は増やすほど管理が難しいからね」
ヴィオラがコインを裏返す。
賭け師に言われると妙な説得力があった。
◇
次に、絶対に話さないことを決めた。
《淫獄》の存在と能力、住民たちの出自。それに、出入口へつながる場所だ。
「話さないことの方が多くない?」
「秘密基地だからね」
「基地より家なんだけど」
「秘密の家?」
「急に危ない響きになるな」
セリナとの関係も、必要以上には話さない。
旅人と知り合い、街のことを少し教わった。
それで十分だ。
◇
「それで、金はどうする?」
最大の問題が残っていた。
街へ入れても、現地通貨がない。
店を見つけても何も買えない。
「俺も荷運び?」
「お前が?」
リゼが真顔で聞いた。
「その反応やめろ」
「無理とは言っていない」
「今の間で十分伝わった」
「三人で仕事を探すなら、力仕事はリゼが一番向いてるね」
ヴィオラが言う。
「私は交渉。夜斗は……」
「俺にも何かあるだろ」
「荷物の数を数える?」
「急に子供の手伝いみたいになった」
リゼが小さく息を吐く。
「必要なら、私は自分で仕事を選ぶ」
夜斗がリゼの能力を売るのではない。
リゼ本人が条件を見て、自分で引き受ける。
「それでいい」
俺たちは、誰かの能力を持ち物として扱うために一緒にいるわけではない。
◇
「初回で、何をする?」
全員の希望をそのまま詰め込めば、一日では終わらない。
だから最初の目的を絞る。
まずは街へ問題なく入れるかを確かめ、主要な通りと物価を見る。余裕があれば短期仕事を探し、学生の噂は自然に聞こえた場合だけ確かめる。
「茶葉まで買って帰るのは?」
ファステを見る。
「急ぎません」
「助かる」
「ですが、もし余裕がございましたら、値段だけでも……」
「覚えておく」
買い物は塩と補修用品を優先し、余裕があれば容器や布類、最後に茶葉と決めた。
「茶葉は最後で大丈夫です」
ファステはそう言った。
だからこそ、その順番は覚えておこうと思った。
「硬貨、噂、賭け事」
「最後の一個は消せ」
ヴィオラの希望だけは、その場で修正した。
◇
「行くなら、帰り方を先に決めろ」
リゼが言った。
街から《淫獄》へ直接戻らず、一度迂回して追跡の有無を確かめる。入口は人目のない場所で開く。
「帰路を見られた時点で失敗だ」
「行く前から帰る話してるな」
「それでよい」
千代が迷わず答えた。
地下へ入る時も、最初に決めたのは撤退条件だった。
街も同じだ。
むしろ人がいる場所だからこそ、戻る条件を先に決める必要がある。
「身元を深く追及されたら退く」
リゼが挙げる。
「武器を預けるよう求められ、条件が分からなければ退く。尾行を感じた場合は、買い物や仕事を中止する。三人を分断しようとされた場合も同じだ」
「学生らしい人を見つけたら?」
「すぐには追わない」
答えたのは俺だった。
「本当に?」
ヴィオラが聞き返す。
「学生探しを目的にすると、それしか見えなくなりそうだから」
以前なら、生きていればそれでいいと言って済ませたかもしれない。
今も、生きていてほしいと思っている。
ただ、本当に無事なのか知りたい気持ちもあった。
誰と一緒にいるのか。
どんな扱いを受けているのか。
帰りたいと思っているのか。
確かめたい。
でも、会いたいと思うことと、すぐ会いに行くことは同じではない。
「噂が自然に入れば確認する。それ以上は、その時に考える」
「悪くない」
リゼが短く答えた。
◇
千代が、決まったことを記録へまとめた。
「地下より条件増えてない?」
「街の方が魔物は多いかもね」
「人を魔物扱いするな」
「襲ってくるか分からない相手って意味では似てるよ」
「その理屈なら俺たちも魔物側になるだろ」
「外から見れば、そうかもね」
否定しきれないのが嫌だった。
◇
話し合いが長引くうちに、縁が俺の近くまで来ていた。
最近は、足元へ寄ることが増えている。
俺が動かなければ、近くで寝ることもある。
今日の縁は、俺の足へ身体の側面を軽く預けるようにして丸くなった。
「……え?」
「動くなよ」
リゼが小声で言う。
「分かってる」
「会議が終わっても動けないね」
ヴィオラが楽しそうに笑った。
「起こしたくない」
「街へ行く準備より先に、足を抜く準備が必要かな」
「そのままでよいではありませんか」
ファステまで微笑んでいる。
縁の小さな身体から、かすかな温かさが伝わってくる。
触ろうとはしなかった。
今は、この距離を縁自身が選んでいる。
それで十分だった。
◇
結論として、地下は当面保留になった。
現在の接続先は、危険に対して得られる物が少ない。
約2か月後には状況が変わる可能性がある。
利用規則も分からない。
入口周辺の変化だけは、必要な範囲で確認する。
街へも、まだ行かない。
ただし、行ける状態は作る。
「地下は今すぐじゃなくていい」
俺は床の黒い小石を端へ寄せた。
「街も、今日行く必要はない」
細長い枝は残す。
「でも準備はする」
千代が頷いた。
「それでよかろう」
◇
夜。
自分の空間へ戻ってからも、街のことを考えた。
地下入口。
街。
学生らしき若者の噂。
以前なら、怖いから行かないと言えば、それで終われた。
知らない場所。
知らない人間。
知らない決まり。
近づかない理由はいくらでもあった。
今は違う。
少しずつ情報が増え、分からないことが減っている。
街へ行くと決めたわけじゃない。
学生を探しに行くと決めたわけでもない。
ただ、いつでも選べるようにしておく。
行きたいわけではない。
それでも、行かない理由が少しずつ減ってきた。
それが一番、面倒だった。




