第55話 地下より、入口の外が面倒
「今日は地下へ入らないぞ」
朝、装備を確かめていた俺へ、リゼが先に言った。
「分かってる」
「その返事、最近多いね」
ヴィオラがコインを指先で転がす。
「地下へ入らないのに、その格好をする必要ある?」
「何かあった時に走れるようにだ」
今日は地下の調査ではない。
入口を管理しているらしい巡回者が、いつ、何人で来て、何を見て、どれくらい滞在するのか。それを離れた場所から観察する。
「一度見ただけでは、巡回の規則など分からぬ」
千代が念を押した。
「今日は一回分の記録だけ取る」
「前回の目撃も忘れるな」
「分かってる。まともに時間を記録するのが今日初めてってこと」
同じ人数が同じ時間に現れても、二回だけで周期とは決めない。
◇
前回隠れた場所は使わなかった。
同じ所へ繰り返し人が入れば、草や地面に痕跡が残る。相手が入口の周囲まで確認するなら、隠れ場所そのものを見つけられるかもしれない。
リゼとヴィオラが、少し離れた位置を探した。
入口が直接見えすぎない。逃げ道がある。風下を避け、足跡が残りにくい地面を選ぶ。《淫獄》へ退避できる場所からも遠すぎない。
「見るだけなのに準備が多い」
「見つからないための準備だ」
「地下へ入るより面倒じゃない?」
「今のところはな」
その答えは聞きたくなかった。
◇
観察を始めても、何も起きなかった。
鳥が鳴く。風が葉を揺らす。虫が腕へ止まり、追い払ってもまた近くを飛ぶ。
地下入口は静かなままだ。
「地下探索より暇だね」
「暇な方が安全なんだろ」
「そう思えるなら成長したな」
リゼに褒められた気がしない。
声を抑え、姿勢を変える回数も減らす。
時間だけが過ぎていく。
「動くな」
姿勢を変えようとした俺の肩を、リゼが押さえた。
反対側では、ヴィオラが声を潜めるために顔を寄せてくる。
「見つからないための準備、大変だね」
耳元へ息が触れた。
片側には、身体へ沿うように装備を締めたリゼ。
反対側には、身軽な旅装のヴィオラ。
狭い。近い。
今はそういうことを意識している場合ではない。
『《淫獄石》を35個獲得しました』
『所持《淫獄石》:860』
「……最悪のタイミングだ」
「何か出た?」
「声を出すな」
リゼに叱られたので黙った。
待つという行為は、何もしないことに似ている。だが実際には、勝手に動かないことを選び続けなければならない。
俺には地下を歩くより向いているはずなのに、妙に疲れた。
◇
「来た」
リゼの声で、身体を低くする。
二人。その少し後ろに、もう一人。
前回と同じ三人かは分からない。距離があり、顔も細部も見えなかった。
似た形式の実用装備。武器。一人は記録板か冊子のような物を持っている。
動きには慣れがあった。
一人が周囲を警戒し、残りが標識と入口を確認する。
標識の表面を拭き、表示を手元の記録と照らし合わせる。石段の上から暗い内部を見て、音か匂いを確かめるようにしばらく止まった。
それでも地下へは入らない。
「やっぱり、中には入らないんだ」
「入る必要がないのか、今日は入らないだけなのか」
「前回も入らなかったよ」
「二回で結論を出すな」
リゼの声は小さいが厳しい。
巡回者の一人が、入口脇から周囲の地面へ視線を移した。
屈み、草の根元を見る。
「あれ、足跡見てない?」
「見てる」
喉が乾いた。
こちらへ向かってくる様子はない。だが入口だけでなく、その周辺を人が通った痕跡まで確かめている。
何かを記録し、三人は来た方向へ戻っていった。
十分に離れるまで、俺たちは動かなかった。
◇
「時間だけ分かっても、足跡でばれるかもしれないね」
ヴィオラが言った。
「出入りするなら痕跡対策も必要だ」
「地下に行く前にやること増えてない?」
「増えてる」
否定してほしかった。
千代から渡された簡易記録へ、来た時間帯、人数、滞在時間、行動を書き込む。
標識を見た。入口を見た。周囲の足跡も確かめた。地下へは入らなかった。
「前回と似てるね」
「まともに時間を記録したのは今日の一回だけだ。前と似てても、同じ周期だとは決めない」
「慎重だね」
「十個も撤退条件を作った後だからな」
ヴィオラは去った巡回者の方向を見る。
「少し離れて、どこへ帰るか追ってみる?」
拠点か街の方向が分かるかもしれない。
知りたい。
だが尾行が見つかれば、ただ観察しているより話が大きくなる。相手が本当に三人だけかも分からない。
「追わない」
「知りたくない?」
「知りたい。でも今日はそれを調べに来てない」
「最近、その止まり方が上手くなったね」
「褒められてる?」
「半分くらい」
◇
入口付近で《淫獄》を開くことも避けた。
地下では入口直下が緊急帰還地点になる。だが地上で開く瞬間を巡回者に見られれば、《淫獄》そのものを知られる。
地下入口から十分に離れ、巡回者が去った方向とも違う場所まで移動する。
周囲を確認してから《淫獄》を開いた。
◇
「今日も何もしてないのに疲れた」
帰還して荷物を下ろすと、縁が足元へ寄ってきた。
俺がゆっくりしゃがむ。
縁は逃げなかった。
手は伸ばさない。その距離のまま、近くへ座る。
「外で待ってただけなんだけどな」
縁は答えず、尻尾を身体へ寄せた。
共用部屋では、千代が報告を待っていた。
今回も巡回者は二人か三人。標識、入口、周囲の痕跡を確認し、一定時間滞在して去った。地下へは入っていない。
「巡回の時刻より、見ている範囲が分かったことの方が大きい」
千代が記録を読む。
「入口だけじゃなく、周りまで見てる」
「痕跡を残せば、いずれ気づかれる」
リゼが言った。
そこで、今まで避けていた問題に気づいた。
「……そもそも、あそこって勝手に入っていい場所なのか?」
誰も答えなかった。
許可が必要なのか。登録がいるのか。最低危険度なら自由に入れるのか。管理者への申告が必要なのか。
何も知らない。
「分からぬ規則を、存在せぬものとして扱うわけにはいかぬ」
千代が小石を一つ追加した。
「地下の危険。巡回者に見つかる危険。それから、知らぬまま規則を破る危険か」
「地下より、入口の外が面倒になってない?」
「順調だね」
「何が?」
◇
結論は、数日分の観察記録を取ることだった。
毎日同じ時間には行かない。同じ場所も使わない。日を空け、朝、昼、夕方で分ける。
その間、地下へは入らない。
「地下探索の前に、巡回表を作ることになるとは思わなかった」
「攻略対象が人間になってきたね」
「攻略しない。見つからないようにするだけ」
夜、千代の簡易図へ「巡回確認」と書き足した。
地下の奥には、正体の分からない音がある。
入口の外には、誰かがいる。
そして俺たちは、そのどちらにも見つからず動こうとしていた。
地下へ入るために、地下へ入らない日が増えていく。
少し前なら、遠回りだと思ったかもしれない。
でも、見つかってから後悔するよりはいい。
俺が欲しいのは、先へ進むことじゃない。
いつでも自分で戻れることだった。




