第52話 地下でも、帰れる?
「今日は何をしに行く?」
朝食を終え、持ち物を並べ終えたところで、千代が聞いた。
「入口周辺の確認。それと、地下で《淫獄》へ帰れるか試す」
「奥の探索ではないな」
「入口だけ」
「昨日からそれ、何回言った?」
ヴィオラが笑う。
「言っておかないと俺が忘れそうだから」
「自覚があるならまだましだ」
リゼは装備を確かめ、ファステから水と応急処置用品を受け取った。
「大きな怪我を治せるものではありません。少しでも危険を感じたら――」
「戻る。分かってる」
「はい。どうか、お気をつけて」
床の端にいた縁が、いつの間にか俺の近くまで来ていた。
足元の荷物を嗅ぎ、こちらを見上げる。
「留守番な」
縁は耳だけを動かした。
返事として受け取るには都合がよすぎるので、そのままファステたちに任せた。
◇
地下入口までの道に、前回との大きな違いはなかった。
リゼが先頭で周囲を確かめ、俺が続き、ヴィオラが後方を見る。
入口付近にも、明らかに新しい足跡や生物の痕跡はない。
「予定どおり進める」
リゼが言った。
蔓に半ば隠れた石組み。その奥で、地下へ続く石段が暗闇へ沈んでいる。
昨日は上から見ただけだった。
今日は、その最初の一段へ足を置く。
「やっぱり、入りたくはないな」
「今さら?」
「入りたくないのと、調べたいのは両立する」
松明へ火をつけたリゼが先に降りる。
俺が中央。ヴィオラが最後尾。
数段降りるだけで、外の空気が遠くなった。
冷たい。湿っている。古い石と土の匂いがする。
呼吸に異常はない。壁にも、今すぐ崩れそうな亀裂は見当たらない。
外の光がまだ届く場所で、リゼが止まった。
「ここまでだ」
「分かってる。まず試す」
俺は石壁の間に立ち、《淫獄》への入口を意識した。
何も起きなかった場合を考える。
その時点で、今日の探索範囲は入口付近だけに縮める。
だが次の瞬間、目の前の空間が揺らいだ。
見慣れた灰色ではなく、今では小さな家になった《淫獄》の景色が、その向こうに現れる。
「……開いた」
「じゃあ帰れるね」
「ここでは、な」
安心しかけた自分へ言い聞かせるように答えた。
「ここで開いたことしか確認できてない。奥でも開くとは限らない」
「その言い方を忘れるな」
リゼが先に入口を通る。俺とヴィオラも続いた。
◇
「もう戻りましたの?」
共用部屋にいたレイナが目を丸くした。
「確認の途中」
「開いたか」
千代が真っ先に結果を聞く。
「入口直下では」
「ならば次は、同じ場所へ戻れるかじゃな」
帰ってこられただけでは往復の確認にならない。
俺は《淫獄》側から、先ほどの地下へ接続し直した。
開いた先には、同じ石壁と、リゼが残した松明の光がある。
俺たちは再び地下へ出た。
「これなら逃げ放題?」
「入口の近くだけなら」
「一度成功しただけで万能扱いするな」
「二回成功したよ?」
「場所は一か所だ」
リゼの言うとおりだった。
確認できたのは、地下から《淫獄》へ戻れたこと。《淫獄》から同じ地点へ戻れたこと。
それだけだ。
◇
石段を最後まで降りると、狭い前室のような空間へ出た。
自然に割れた岩ではない。床も壁も、大きさを揃えた石で組まれている。
水滴が壁を伝い、隅に浅く溜まっていた。
足跡は見つからない。新しい生物の痕跡もない。
壁には何かを擦ったような古い傷が残っているが、いつ付いたものかは分からなかった。
前室の奥には一本道が続いている。
松明を掲げても、光は途中で闇へ呑まれた。
「ここまで」
俺が言うと、ヴィオラが暗い通路を覗き込んだ。
「まだ何も見てないよ」
「入口を見るのが今日の目的」
「真面目だね」
「昨日、十個も条件を決めたからな」
空気、床、壁、通路幅。確認できる範囲を書き留める。
水滴の音。松明が燃える音。三人分の呼吸。
それ以外は何もない。
そう思った時だった。
ズ……。
低い音が、通路の奥から届いた。
三人とも動きを止める。
しばらくして、もう一度。
……ズ……。
重い石を床へ押しつけたまま、ゆっくり引きずるような音。
「人工的に聞こえる」
リゼが小さく言った。
「誰かいる?」
「分からない」
人かもしれない。生物かもしれない。仕掛けや装置かもしれない。水や岩が偶然そう聞こえただけかもしれない。
ただ、一定の間隔で繰り返されている。
「ちょっとだけ見に行けば分かるかも」
「帰る」
「早い」
「人の声や人工的な音を確認したら、接触せず戻る」
「気にならない?」
「気になる」
暗い通路の奥を見た。
音の正体を知りたい。何が動いているのか、少しだけ確かめたい。
だからこそ、その気持ちのまま進めば、決めた線を簡単に越える気がした。
「だから帰る」
ヴィオラは一瞬だけ俺を見て、それから肩をすくめた。
「了解、王様」
来た道を戻る。
音は追ってこなかった。一定の間隔で、遠くから聞こえ続けている。
「近づいてこないから安全とは限らない」
「今日はそれを確かめる日でもない」
入口直下まで戻り、念のため《淫獄》を開く。
今回も問題なく開いた。
それを確認して一度閉じ、地上側の状況を見るため石段を上った。
◇
地上へ戻ってから、ヴィオラが入口脇の茂みへ目を向けた。
「あれ、前からあった?」
植物に覆われ、角度によっては岩にしか見えない場所に、腰ほどの高さの石柱が立っていた。
近づくと、その上部に金属製の板が固定されている。
入口そのものへ気を取られ、前回は見落としていたらしい。
古い物だ。だが完全に放置されてはいない。
金属部分だけ苔が薄く、泥を拭ったような跡がある。
刻まれた文字の一部を読む。
「『危険度』……『最低』」
「読めるの?」
「文字は読める。でも、こっちは分からない」
その横には数字、記号、略号らしきものが並んでいた。
文字として拾える部分はあっても、それが日付なのか、管理番号なのか、別の何かなのか判断できない。
「最低なら安全?」
「安全なら『危険度』とは書かないだろ」
「最低でも危険はある。それくらいに考えろ」
リゼが周囲を見回し――表情を変えた。
「誰か来る。離れろ」
標識から手を離し、俺たちはその場を離れた。
足跡を増やしにくい硬い地面を選び、入口を直接見下ろさない距離まで下がる。
低い植物と地形の陰で身を伏せていると、やがて二人――少し遅れて、もう一人が現れた。
全員成人に見える。似た形式の実用的な装備を身につけ、武器を持っている。一人は板か冊子のような物を抱えていた。
探索者というより、決められた仕事をしに来たような動きだった。
彼らは標識を確認し、表面を拭き、数字か記号を手元の記録と照らし合わせる。
周囲を見回し、入口を外側から確かめ、何かを書き込んだ。
地下へは入らない。
会話は距離があり、内容まで聞き取れなかった。
十分に離れていくまで、俺たちは動かなかった。
「……管理されてるじゃん」
「しかも現在進行形でね」
「俺、誰にも知られてない入口を見つけたつもりだったんだけど」
「思い込みだったな」
リゼの言葉が冷たい。
「街へ行かないようにした結果、管理されてる地下施設に出入りしてるんだけど」
「順調に社会へ近づいてるね」
「近づきたくない」
一度撤退した地下へ戻る選択肢はない。
標識にも近づかず、巡回者が去った方向とは別の経路で十分に距離を取る。
安全を確認してから《淫獄》を開き、帰還した。
◇
共用部屋で、今日分かったことを並べた。
入口直下では《淫獄》と往復できる。
深部でも開くかは分からない。
石段の先には小さな前室と一本道がある。
奥からは、石を引きずるような規則的な音がした。
地上には管理標識があり、『危険度』『最低』という部分だけ読めた。
そして、今も誰かが巡回している。
「誰かが管理している場所なのですね」
ファステが不安そうに言った。
「たぶん」
「言葉そのものは分かります。でも、その制度は私も知りません」
「最低危険度でしたら、安全なのではなくて?」
レイナの問いに、リゼが首を振る。
「安全なら危険度など付けない」
「管理者が巡回している時点で、放置してよい場所ではないのじゃろう」
千代が、報告した内容を小石で整理していく。
問題は二つ。
地下の奥にある規則的な音。
地上側の管理者。
中へ進んでも問題があり、外にいても見つかる可能性がある。
「面倒の種類が増えたね」
「一つずつでいい」
俺は答えた。
今日確かめるつもりだったことは確かめた。それ以上を一日に詰め込む必要はない。
荷物を置くと、縁が自然に近づいてきた。
俺の足元を嗅ぎ、身体の側面を一瞬だけ足へ触れさせる。
そのまま少し横へ座った。
「ただいま」
手は伸ばさなかった。
縁も逃げなかった。
◇
地下でも帰れる。
少なくとも、入口の近くでは。
奥には、正体の分からない音がある。
外には、この入口を管理している誰かがいる。
どっちも気になる。
だから今日は、どっちにも近づかなかった。
気になるからこそ帰る。
少し前の俺なら、たぶんそれを臆病だと思っていた。
今は、それでいいと思っている。




