第51話 地下へ入る前に
「で、いつ入る?」
朝食を終えた直後、ヴィオラが聞いてきた。
正直に言えば、昨日から少し気になっている。
あの石段の先に何があるのか。あの音は何だったのか。
入りたくない。でも、気になる。
だからこそ、その場の勢いで行くのは嫌だった。
「その聞き方がおかしい。まず入るかどうかを決める」
「昨日よりはまともだな」
リゼが言った。
「昨日もまともだっただろ。ちゃんと入らずに帰ってきた」
「入りたそうな顔はしてた」
「顔だけで減点されるの?」
「行動へ移さなかった分は加点してやる」
「入るか否かを決める前に、必要条件を出せ」
千代が床へ小石を並べ始めた。
「何が分からず、何が足りず、何が起きれば戻るのか。先に決めるべきはそこじゃ」
「入る前から帰る話?」
「帰れぬ者に次の探索はない」
慎重というより、最悪の想像が得意なだけだと思う。
だが地下へ入る時くらいは、それが役に立つはずだ。
◇
「どこまで続いてるか分からない」
俺が言うと、千代が小石を置いた。
「ほかに出口があるかも不明。崩落、空気、水、今も誰かが使っている可能性」
リゼが続けるたび、小石が増える。
「動物や、それ以外の何かがいるかもしれませんわ」
「罠もね」
ヴィオラがコインを弄ぶ。
「人工物なら、入ってほしくない誰かが作った可能性がある」
「逆に、入ってほしい者が作った罠かもしれぬ」
年代も、建造者も、目的も分からない。
「地下で《淫獄》の入口を開けられるかも分からない」
最後に俺が言うと、全員の視線が集まった。
「最後が一番大事」
「戦うより逃げる方法が先か」
「逃げられない場所で戦う方が嫌だ」
石壁に囲まれた場所で入口が開かなければ、自分たちの足で階段まで戻るしかない。
「それを確かめず奥へ進むのはなしだ」
リゼの言葉に、誰も反対しなかった。
◇
最優先は照明だった。
枝へ繊維を巻き、燃料になりそうな物を染み込ませる。松明らしき物は作れても、どの程度保つか分からない。
「一つ燃やして確かめましょう」
ファステが、同じ長さの目印を用意した。
「火を使うなら煙も考えないといけません」
「地下で煙が逃げぬ可能性もある」
千代が頷く。
明るすぎれば燃料を早く使い、弱ければ前が見えない。持つ者の片手も塞がる。
「予備も必要だ。一つ消えてから次を探すのでは遅い」
「暗い所へ行く準備って、地味だね」
「命に関わる準備ほど地味なんだよ」
「それは正しい」
リゼに珍しく認められた。
縄は段差、滑落防止、救助、帰路確認へ使える。
「入口へ結んで伸ばせば迷わない?」
「一本だけに頼るな。切れれば終わりだし、引かれれば位置を知らせる」
目印も布、形の違う石、簡単な標識を組み合わせる。正体不明の遺構へ傷をつける案は見送った。
水と少量の食料。布、傷を洗う水、固定用の板と紐。
ファステが応急処置用の物をまとめ、使い方まで確認する。
「大きな怪我へ対処できる物ではありません」
「大きな怪我をする前に戻る」
そう答えると、ファステは少し安心したように頷いた。
◇
行くのは昨日と同じ、俺、リゼ、ヴィオラの三人。
人数を増やせば安心に見えるが、狭い場所では動きにくくなり、守る相手も増える。
千代、ファステ、レイナは留守番だ。
「縁も連れていけば?」
ヴィオラが床の端を見た。
準備会議の途中から、縁が少しずつこちらへ近づいていた。
俺が縄をまとめていると、手を伸ばせば届く位置まで来て、そのまま足元へ座る。
「あら」
「最近、夜斗様の近くにいることが増えましたね」
「そう?」
「気づいてなかったの?」
手を伸ばしかけて、やめた。
縁が自分から選んだ距離なら、こちらから詰める必要はない。
別の縄を取るため、俺が少し姿勢を変える。
縁は逃げなかった。
俺の足を避けるように尻尾を丸め直し、同じ場所へ座り直しただけだった。
「以前、《淫獄》が変わる前に反応してたでしょ。地下でも何か分かるかも」
「能力があるかも分からないのに、危険な場所へ連れていく理由にはならない」
「便利そうだから連れていく、は違う」
リゼも同意した。
縁は会話など気にせず、前脚を舐め始めた。留守番で決定だ。
◇
撤退条件の中で、特に重要なものは三つだった。
光源を失ったら戻る。
人の声や未知の生物の痕跡を確認しても、追わずに戻る。
地下で《淫獄》の入口が開かなければ、入口付近から先へ進まない。
空気、水、崩落、予定時間についても、千代が小石を動かしながら条件へ加えた。
「多くない?」
「命が一つしかないからじゃ」
千代は最後の小石を置いた。
「そして迷った時点で戻れ。迷ったまま進むことを、勇気とは呼ばぬ」
「忘れそうだから書いた物を持っていく」
「暗くて読めなかったら?」
「その時点で光源の条件に触れてるから帰る」
「徹底してるね」
地下で入口が開くかは、石段を降りた直後に試す。それで駄目なら奥へ進まない。
開いたとしても、奥でも確実に開く保証にはしない。
◇
午後は松明を実際に燃やした。
明るさ、煙、熱、燃え方。同じ長さの目印と比べ、おおよその持続を確かめる。
持ち物も並べ、帰還と応急処置に必要な物だけを残した。
不安になった俺は、使えそうな物をさらに足そうとした。
「重すぎれば逃げられない」
リゼが止める。
「必要になるかもしれない」
「その可能性だけで全部持てば、荷物に殺されるぞ」
「準備したら荷物が増えて、逃げにくくなるの欠陥じゃない?」
「準備の準備が必要だね」
「さらに荷物が増えそうなことを言うな」
必要最低限まで減らした。
◇
初回の目的は、攻略でも宝探しでもない。
入口周辺の安全と、《淫獄》への帰還が可能かを確かめる。それだけだ。
「目的を増やすな」
千代が念を押した。
「珍しい物を見つけても持ち帰らない。道が続いても進みすぎない。何か聞こえても確かめに行かない」
「入口調査だけ」
「それでいい」
リゼが頷く。
翌日、入口周辺だけを再調査する。
本格的な内部探索は、まだ先だ。
◇
夜。
俺は個人空間の入口で、まとめた荷物を見た。
未知の地下。
少し怖い。
同じくらい、少し気になる。
怖くないふりをする必要はない。
怖いから準備する。危ないと思ったら帰る。
明日、最初に確かめることは決まっている。
地下でも、《淫獄》へ帰れるのか。
いつの間にか、縁が少し離れた場所で丸くなっていた。
「明日は、入口だけだからな」
縁は返事をしない。
耳だけが、少し動いた。
地下へ入る準備は、だいたいできた。
だからといって、怖くなくなったわけじゃない。
明日確かめるのは、奥に何があるかじゃない。
ちゃんと帰れるかどうかだ。
今の俺には、それで十分だった。




