第48話 街にいた旅人
鐘の音がした。
森の木々を抜け、遠くまで響く硬い音。
セリナは歩みを止めた。
一度。
少し間を置いて、もう一度。
自然に生まれた音ではない。
あの方向に、鐘を作り、鳴らす者がいる。
だからといって、音の方へまっすぐ歩くほどセリナは無謀ではなかった。
「近いようで、遠いかもしれない」
独り言に答える者はいない。
セリナは道らしき踏み跡から一度離れ、緩やかな斜面を上った。
木々の隙間から先を見る。
煙が何本か上がっている。
一本ではない。
同じ場所へ続く轍も見えた。
しばらく待つと、荷物を積んだ車が遠くを通った。
車を引いているものの姿は、木に隠れてよく見えない。
歩く者もいる。
荷物を背負った者。
武器らしい長い物を持つ者。
急いでいる様子はない。
「街は逃げない」
セリナはその場で観察を続けた。
◇
日が少し高くなる頃、セリナは街へ続くらしい道を見つけた。
街の全体は見えない。
一目で端から端まで把握できる小さな集落ではなさそうだが、大都市と呼べるほどかは分からなかった。
外から入る者が集まる場所がある。
武器を持った見張り役もいる。
荷車が通れる幅の道があり、人と荷物が途切れず出入りしていた。
完全に閉ざされた場所ではない。
セリナは入口へ向かわず、まず出入りする者を見た。
地元の者らしい人物は、短い言葉を交わすだけで通る。
荷物の多い者は止められ、中身や行き先を確認されているようだった。
旅装の者も入っている。
腰に武器を下げていても、すぐ取り上げられるわけではない。
だが、誰でも無条件に通しているわけでもなかった。
「名前と目的くらいは聞かれそうね」
見張りの人数。
逃げられる方向。
道を戻る場合に邪魔になる荷車。
周囲にいる武装者。
順番に確認する。
戦うためではない。
戦わずに離れられるか知るためだ。
◇
最初に声をかけたのは、街の外で荷物を下ろして休んでいた人物だった。
一人。
武器は小さな刃物だけ。
服と荷物には何度も道を歩いた汚れがある。
街へ入ることにも慣れていそうだった。
セリナは相手の正面ではなく、少し斜めから近づいた。
「少しいい?」
相手が顔を上げる。
警戒はしたが、すぐ逃げたり武器へ手を伸ばしたりはしなかった。
「何だ?」
「旅の途中なんだけど、あそこへ入る時は何を聞かれる?」
「初めてか?」
「この辺りはね」
「名前と用事くらいだ。荷物が怪しければ見られる。揉め事を起こせば追い出される」
どこまで正式な決まりなのかは分からない。
少なくとも、この人物はそう理解しているらしい。
「旅人でも入れる?」
「入れる。金があるなら泊まる場所も飯もある」
「補給は?」
「食い物も布も縄もある。高いか安いかは知らん」
「ありがとう」
「あんた、どこから来た?」
当然の質問だった。
「遠くから」
「どこの?」
「長く人の少ない道を歩いてたから、この辺りには詳しくないの」
答えになっているようで、なっていない。
相手は少し怪訝な顔をした。
だが、それ以上は追及しなかった。
「街道から外れたなら、森には気をつけろ。最近は獣だけじゃないって話だ」
「獣以外?」
「知らん。俺も噂で聞いただけだ」
そこで会話は終わった。
セリナも無理に続けない。
聞きたいことを一度に全部聞けば、今度はこちらが怪しまれる。
◇
入口へ近づく。
逃げ道はまだある。
見張り役はセリナの旅装と荷物を見た。
「名前は?」
「セリナ・ウェルズ」
「用件」
「旅の補給と、少し情報を集めたい」
「滞在は?」
「まだ決めてない」
嘘ではない。
見張り役の視線が、腰の刃物へ向く。
「揉め事は起こすな」
「起こすつもりはないわ」
荷物をすべて開かされることはなかった。
歓迎されたわけでもない。
ただ、旅人として入ることを拒まれなかった。
セリナは見張り役の横を通り、街の内側へ足を踏み入れた。
◇
最初に感じたのは、匂いだった。
焼いた食べ物。
人。
獣。
土。
煙。
酒。
森とは違う匂いが、狭い場所へ重なっている。
声も多い。
物を売る者。
値段を交渉する者。
荷物を運ぶ者。
道を空けろと怒鳴る者。
通常の生活が続いていた。
戦いで崩れた街には見えない。
病で閉ざされてもいない。
それでも、武器を持つ者はいる。
入口にも見張りがいた。
安全だと決めるには早い。
セリナは歩きながら、店先に並ぶ物を見た。
乾燥させた食材。
布。
糸。
縄。
大小の容器。
刃物や金属製品を扱う場所もある。
香りのある乾燥した葉を並べた店先で、一度足が止まった。
「茶葉、かもしれない」
ファステの顔が浮かぶ。
最初の一杯は夜斗と飲みたいと、あの家で話していた。
買って戻れれば喜ぶだろう。
問題は、買えないことだった。
客は小さな硬貨らしい物を渡している。
セリナは一枚も持っていない。
「店があっても、お金がない」
夜斗なら、そう言うだろう。
想像すると少し笑えた。
手持ちの道具や保存食を簡単に手放すわけにもいかない。
相場を知らないまま交換を持ちかければ、価値の低い取引を飲まされる可能性もある。
まず必要なのは品物ではなく、この街で価値を得る方法だった。
◇
食事と酒を出しているらしい場所の近くは、声が多かった。
セリナは中へ入らず、出入りする者と、外まで漏れる会話を拾う。
街道の状態。
森で見かけた獣。
荷物の値段。
見張りへの不満。
意味の分からない名前や場所も多い。
すべて覚える必要はない。
自分に関わりそうな話だけを残す。
「最近、この辺じゃ見ない若い連中が何人か通ったらしい」
そんな声が聞こえた。
「旅人だろ」
「それにしちゃ妙だったってよ」
「何が?」
「知らん。聞いた奴も、又聞きだ」
話はそこで別の話題へ流れた。
若い連中。
この辺では見ない。
それだけだ。
人数も、服装も、能力も分からない。
夜斗と同じ場所から来た学生たちかもしれない。
まったく無関係な旅人かもしれない。
今は記憶に残すだけでいい。
◇
「仕事を探してるのか?」
荷物を眺めていたセリナへ、通りがかった者が声をかけた。
「どうして?」
「店を見るだけで何も買ってない。旅人なら金が必要だろ」
よく見ている。
セリナは相手との距離を保ったまま聞いた。
「短い仕事はある?」
「荷運びなら探せばある。道を知ってるなら案内もあるが、あんたは初めてなんだろ」
「採取は?」
「物による。勝手に採って売れると思うなよ」
「なるほど」
採取物にも、この街なりの決まりや価値があるらしい。
すぐに稼げるとは限らない。
だが、選択肢はある。
セリナは礼を言い、その場を離れた。
今日中に仕事を決める必要はない。
街へ留まるか。
補給だけして旅を続けるか。
いつか《淫獄》へ戻る道を探すか。
その先を、今の自分へ全部決めさせるつもりもなかった。
◇
日が傾き始める頃、セリナは人の往来を見渡せる場所で立ち止まった。
街は存在した。
外から来た旅人も入れる。
交易があり、硬貨が使われている。
食料、布、縄、容器、補修用品も手に入る可能性がある。
茶葉らしい物もあった。
見慣れない若者の噂も聞いた。
ただし、この街が安全とは限らない。
誰が支配し、どんな決まりがあり、裏で何が起きているかは分からない。
分からないことは多い。
それでも、一つずつ見ればいい。
「仲間はいないのか?」
入口で聞かれなかった問いを、別の誰かに尋ねられる日は来るかもしれない。
その時も、《淫獄》について話すつもりはなかった。
命令されたからではない。
忠誠を誓ったからでもない。
世話になった場所を、そこに暮らす者の許可なく売る理由がないだけだ。
旅袋の中には、壊れた方位磁針と、庭から持ってきた小石が入っている。
行き先を決める物と、どこから来たかを覚えておく物。
どちらも今は、他人へ見せる必要がない。
夜斗たちがまだ知らない街の中を、旅人は一人で歩いていた。




