第46話 人のいる方へ、どこまで近づく?
「せっかく場所が分かったんだから、見に行かないの?」
朝食の席で、ヴィオラが言った。
「場所は分かってない。方向が分かっただけ」
俺は即座に訂正する。
セリナが見つけたのは、人が何度も通ったらしい痕跡と、その人たちが戻っている可能性の高い方向だ。
街の看板を見つけたわけではない。
地図もない。
どれだけ歩けば着くのかも分からない。
「でも、人がいる可能性は高いのでしょう?」
レイナが尋ねる。
「前よりはな」
「もし安全に取引できるのでしたら、食料以外の物も手に入るかもしれません」
ファステの声には、控えめな期待が混じっていた。
「茶葉とか?」
俺が聞くと、ファステは少し目を伏せた。
「……あれば、嬉しいです」
いつか、ファステが淹れた最初の一杯を一緒に飲む。
その約束を実現するには、まず茶葉が必要だ。
まともなカップも欲しい。
今の俺たちなら、木を削った器に色のついた湯を入れて紅茶と言い張ることになる。
「茶葉だけではありません」
ファステは指を折る。
「塩や調味料、保存に使える容器もあれば、今よりずっと食事を整えられます」
「布と糸、それに針も必要ですわ」
レイナが続く。
「今ある衣服を直すだけでも、道具が足りませんもの。できれば身だしなみを整える物も」
「武器を手入れする道具と、丈夫な縄」
リゼは実用一辺倒だった。
「あとは周辺の情報だ。獣、道、危険な場所。現地で何が起きているかも知りたい」
「食料の価格、交易量、人口、治安、周辺勢力との関係も必要じゃ」
千代の要求は、買い物というより統治前の調査である。
「コインと酒場と賭け事」
ヴィオラが言った。
「お前だけ目的が違わない?」
「噂は情報だよ」
「賭け事は?」
「文化調査」
「絶対違う」
ヴィオラは楽しそうに笑った。
人の暮らす場所が見つかれば、今の生活は大きく変わるかもしれない。
毎日、正体の分かる食材を食べられる。
服を直せる。
道具を揃えられる。
水や食料を運ぶ容器だって手に入るかもしれない。
期待する理由はいくらでもある。
だからこそ、俺は気が重かった。
「行きたくない顔をしてるね」
ヴィオラに見抜かれた。
「だって人がいるんだぞ」
「人を探してるんだから当然でしょ」
「こっちが相手を知らない状態で、家の場所だけ知られるのが一番嫌だ」
善良な村人が暮らしているとは限らない。
話の通じない集団かもしれない。
俺たちの持つ《淫獄》を知れば、利用しようとする者もいるだろう。
大学の学生たちがいる可能性もある。
だが、彼らが今どんな立場で、誰と行動しているかも分からない。
「接触するならば、先に相手を知るべきじゃ」
千代が頷く。
「相手を見る前に、こっちを見られたら負けってことだね」
「負けって言い方は嫌だけど、だいたいそう」
「なら今日は、会いに行くのではなく見るための場所を探す」
リゼが食事を終え、器を置いた。
「どこまで進み、何があれば戻るかを先に決めるぞ」
◇
出発前に決めた条件は七つになった。
一つ。人の姿を発見しても接触しない。
二つ。建物が見えても近づかない。
三つ。武装した集団を確認したら即時撤退。
四つ。新しすぎる足跡を見つけた場合は距離を取る。
五つ。暗くなる前に必ず帰還を開始する。
六つ。追跡されている可能性があれば、《淫獄》の入口へ直接戻らず迂回する。
そして七つ目。
「夜斗が『帰る』と言った時点で、理由を問わず撤退する」
千代が俺を見た。
「最後だけ王様らしいな」
リゼが言う。
「外で俺が唯一できる仕事だからな」
「威張るところではないぞ」
「撤退を決められる王は悪くない」
千代の評価は褒めているのか微妙だった。
だが、反対されてはいない。
同行するのは、俺、リゼ、ヴィオラの三人。
俺は《淫獄》の出入口と最終判断。
リゼは護衛と危険察知。
ヴィオラは人の痕跡や行動を読む役だ。
「歩ける範囲までだぞ」
リゼが俺へ念を押す。
「俺が目的地じゃなくて、距離の基準になってない?」
「便利だね」
ヴィオラが言う。
「便利ではないだろ」
「限界が分かりやすい」
「低い方へ合わせられてるだけだからな?」
ファステ、レイナ、千代は留守番。
縁も連れていかない。
今回は正体不明の小動物へ、さらに正体不明な人里を見せる日ではない。
◇
外へ出ると、リゼが先頭に立った。
セリナが整理した採取経路を使う。
水場までの道。
足を休められる岩。
繰り返し踏まれている場所。
理由は分からないが、人も獣も避けている茂み。
以前より迷わない。
危険な場所へ近づかずに済む。
「セリナいないのに普通に使ってるな」
「覚えたからな」
リゼはそれだけ答えた。
俺たちは休憩地点を越え、以前引き返した場所より先へ進んだ。
すぐに、痕跡が変わった。
薄かった荷車の轍が、前よりはっきりしている。
地面には、形の異なる靴跡がいくつも重なっていた。
木の枝は刃物で払われ、少し離れた場所には新しい切り口もある。
「これ、もう人いるよな」
「近くにはな」
リゼは周囲から目を離さない。
「しかも一人や二人じゃない」
ヴィオラがしゃがむ。
「断定できる?」
「正確な人数は無理。でも靴の形と歩幅が違う。何度も同じ道を通ってるね」
轍の脇には、縄が擦れたような繊維が落ちていた。
少し先では、木の皮が同じ高さで削れている。
荷車か、それを引く何かが触れた跡かもしれない。
動物の種類までは分からない。
さらに進むと、黒く焦げた地面が見つかった。
「焚き火か?」
「触るな」
伸ばしかけた俺の手を、リゼが止める。
「まだ触ってない」
「触ろうとしただろ」
「温度を確認しようと」
「棒を使え」
俺の危機管理能力は信用されていない。
当然かもしれない。
リゼが細い枝で灰を動かす。
熱は残っていない。
だが雨に完全に流されてもいない。
周囲には、何人かが座ったような窪みがあった。
食べ物の皮らしい乾いた欠片と、小さな骨も残っている。
ヴィオラは焚き火そのものより、少し離れた地面を見ていた。
「旅人より、荷物を運ぶ集団っぽいね」
「なぜ分かる?」
「ここ」
ヴィオラが地面の四角い窪みを示す。
「荷物を置いた跡が同じ側にまとまってる。人だけなら、もっと火の近くへ好きに座ると思う」
「荷車を使う商人か?」
「かもしれない。護衛付きかもしれないし、仕事で物を運んでいるだけかもしれない」
商隊。
行商人。
兵士の補給。
村人の共同作業。
可能性はいくつもある。
今の段階で一つへ決める理由はない。
「先へ行くぞ」
リゼが言う。
俺たちは焚き火跡を崩さないよう離れた。
◇
進むほど、轍は新しくなった。
人の姿は見えない。
声も聞こえない。
それでも、人の生活へ近づいている感じがする。
俺も見たかった。
この先に村があるのか。
街があるのか。
どんな人たちが暮らしているのか。
茶葉があるのか。
現代日本から来た学生たちがいるのか。
もう少し。
あと少し進めば、何か見えるかもしれない。
その時、リゼが手を上げた。
「止まれ」
柔らかい地面に、靴跡がある。
底の模様まで分かるほど、形がはっきり残っていた。
窪みに溜まった泥は、まだ乾いていない。
「新しいね」
ヴィオラの声が低くなる。
「どれくらい?」
「天気と土次第。時間までは断定できない」
それでも、以前見つけた跡より新しいことは分かる。
事前に決めた四つ目の条件。
新しすぎる足跡を見つけた場合は距離を取る。
リゼはさらに周辺を確認した。
「姿は見えない。もう少しなら進める」
ヴィオラも先を見ている。
俺も行きたい。
だからこそ、決めた。
「帰ろう」
リゼが振り返る。
「まだ姿は見てないぞ」
「だから帰る」
「理由は?」
「相手を見る前に、こっちを見られたくない」
一拍。
リゼが頷いた。
「了解」
反論はなかった。
ヴィオラも立ち上がる。
「もう少し見たいけど、決めた条件だからね」
臆病だから逃げる。
それを否定する気はない。
俺は臆病だ。
でも今回は、怖くなってから逃げたわけではない。
行きたいと思っているうちに、戻ると決めた。
その瞬間。
カーン――。
遠くで、音がした。
三人とも動きを止める。
鳥の声ではない。
獣の鳴き声でもない。
硬いものを打ち鳴らした、長く響く音。
少し間を置いて、もう一度。
カーン――。
「動物じゃないね」
ヴィオラが囁く。
「ああ」
リゼは音の方向へ目を向けた。
「……人里、本当にあるな」
誰が鳴らしたのかは分からない。
時刻を知らせる鐘かもしれない。
見張りの合図。
警報。
儀式や祈りに使うもの。
そもそも、鳴らした者が人間だとも限らない。
だが、自然に生まれた音ではない。
あの方向に、道具を作り、鐘を鳴らす暮らしがある。
「もう少し行けば見えるかもよ?」
ヴィオラが冗談半分に言った。
「だから帰るんだよ」
姿が見える距離なら、向こうからも見えるかもしれない。
リゼが少し笑った。
「今日は珍しく正しい」
「普段も正しい」
「普段のお前は、怪しい物へ素手を伸ばす」
「今日は触ってない」
俺たちは鐘へ背を向けた。
来た時と同じ道を、そのまま戻りはしない。
一度横へ逸れ、追跡する足音や気配がないことをリゼが確認する。
休憩地点も一つ飛ばした。
誰にも見られていない。
そう判断できてから、ようやく《淫獄》へ戻った。
◇
帰還後、全員へ見つけたものを報告した。
新しい轍。
複数種類の靴跡。
切られた枝。
比較的新しい焚き火跡。
荷物を同じ側へ置いたらしい窪み。
乾いていない泥に残った足跡。
そして、遠くから二度聞こえた鐘。
「それならば、人の暮らす場所があると考えてよさそうじゃな」
千代が言う。
「人間とは限らないけどな」
「少なくとも、道具を使う者たちの生活圏はある」
リゼが補足した。
「集落でしょうか。街でしょうか」
ファステが尋ねる。
「そこまでは分からない」
「鐘があるなら、ある程度大きな場所かもしれませんわ」
レイナの推測に、千代が首を横に振る。
「小さな集落でも鐘を使うことはあり得る。用途も不明じゃ」
安全か。
住んでいる者は誰か。
どんな勢力に属しているのか。
学生たちがいるのか。
何一つ分からない。
それでも、昨日までとは違う。
あの方向には、たぶんではなく、ほぼ確実に誰かの暮らしがある。
「では、次は実際に行くのですの?」
レイナが聞いた。
「そこを決めるのは次」
俺は答える。
「接触は偵察とは別の問題じゃ」
千代も同意した。
「もし交易できるのでしたら……」
ファステは期待を捨てていない。
俺も茶葉や容器は欲しい。
だが、欲しい物があることと、安全に会えることは別だ。
「接触するなら、何を見せて何を隠すか決める必要がある」
リゼが言った。
《淫獄》の存在。
俺たちの人数。
能力。
出身。
持っている物。
知られたくないことはいくらでもある。
◇
その夜。
俺は遠くで聞いた鐘を思い出していた。
建物は見ていない。
人にも会っていない。
それでも、今までとは違う。
これまでは、たぶん人がいる、だった。
今日は、確かに誰かが暮らしている、へ変わった。
人のいる場所は見つけた。
正確には、まだ見ていない。
でも。
次に決めることは、もう場所の問題じゃなかった。
会うか、会わないか。
そっちの方が、よほど面倒だった。




