第44話 やっぱり、分かってる?
「今日は何もなさそうだな」
朝食を終えた俺は、平和な家の中を見回して呟いた。
ファステは、セリナから教わった方法で根を水へさらしている。
リゼは土間で外出用の装備を点検中。
レイナは乾燥させた香草を選り分け、千代は物置の前で在庫を示す小石を動かしていた。
ヴィオラは共用部屋でコインを指の間に遊ばせている。
庭では縁が、自分の尾を追いかけて二回ほど回り、何事もなかったように地面へ座った。
本当に普通の朝だ。
「何もないことを口にすると、何か起きるものだよ」
ヴィオラが言う。
「嫌なこと言うな」
「賭ける?」
「賭けない。今日は何も起きない方へ全財産を張る」
「それ、もう賭けてるよ」
しまった。
だが、俺の全財産である《淫獄石》190個は消費されなかった。
当然だ。口にしただけで石が減る賭博機能など追加されてたまるか。
◇
異変が起きたのは昼前だった。
庭でファステとレイナが、乾燥させる植物を広げている。
俺は日当たりの違いを確認するという名目で、近くに座って眺めていた。
働いていないわけではない。
配置を考えるのも拠点主の仕事である。
たぶん。
縁は庭の端から二人の周囲を歩き、落ちた葉の匂いを嗅いでいた。
その足が、突然止まった。
耳が立つ。
ゆっくり動いていた尾も、途中で固まる。
視線の先には、庭と家の境目がある。
壁でも扉でもない。ただ空気が続いているだけの場所だ。
「……また?」
俺が立ち上がる。
レイナも縁の視線を追った。
「以前と同じですわ」
「縁?」
ファステが呼んでも、縁は振り返らない。
前に同じようなことが起きた時は、毛を逆立てて俺の足元へ逃げてきた。
今回は違う。
怯えてはいない。
逃げようともしていない。
ただ、これから何かが起きるのを待っているように見える。
「千代。リゼ。ヴィオラ」
俺が呼ぶと、三人もすぐ庭へ出てきた。
千代は縁と、縁が見ている場所を交互に確認する。
「いつからじゃ」
「今止まったところ」
「直前に変わったことは?」
「何も」
「誰か《淫獄》へ何か求めたか?」
全員が首を横に振る。
俺も《淫獄》の表示を確認した。
通知はない。
新しい機能も出ていない。
「今回は外れ?」
ヴィオラが小声で言う。
「何の予想だよ」
「縁による、次に何か起きる場所の予想」
「まだ予想してると決まってない」
「静かにしろ」
リゼが短く制した。
全員が黙る。
風はない。
庭の葉も動いていない。
縁だけが、何もない場所を見つめている。
数秒。
もっと長かった気もする。
縁の片耳が、ほんの少し動いた。
直後。
庭と家の境目が、揺らいだ。
熱い空気の向こうを見るような、ごく小さな歪み。
瞬きをした時には、もう消えている。
『生活環境を微細調整しました』
見慣れ始めた通知が出た。
「……縁が先だったよな」
「そう見えた」
リゼは断定しなかった。
千代は床へ小石を三つ並べる。
「以前も、縁が反応し、遅れて空間が変化し、通知が出た」
一つずつ指で示す。
「今回も同じ順じゃ」
「二回目、か」
「二度だけなら偶然とも言えよう。されど、同じ順で重なるなら記録する価値はある」
「まだ縁の能力と決めるなよ」
リゼが俺を見る。
「分かってる」
縁が起こしたのか。
起きる変化を感じただけなのか。
そもそも、本当に関係があるのか。
今分かったのは、二度似た順番が続いたことだけだ。
◇
「もう一回起きれば、もっと分かりやすいね」
ヴィオラが言った。
「俺に言われても起こせないぞ」
「ここ、あんたの《淫獄》でしょ?」
「だからって壁を好きな時に揺らす機能はない」
「試してみた?」
言われたので、俺は庭と家の境目へ向き直った。
「微細調整してくれ」
何も起きない。
「生活環境を、こう……いい感じに」
沈黙。
「王命だ」
返事なし。
縁はすでに興味を失い、後ろ脚で耳の辺りを掻いている。
「使えない王だね」
「俺もそう思う」
「認めるでない」
千代に叱られた。
だが実際、俺の意思では再現できない。
《淫獄》内部で強い権限を持つと言っても、何でも自由に命令できるわけではないらしい。
サンドボックスゲームなら、編集画面くらい開かせてほしい。
現実は不親切だ。
◇
一度目の観察が終わると、全員がそれぞれの作業へ戻った。
千代は記録用の小石を残したが、それ以外は普段どおりだ。
夕方。
縁は庭の寝床で丸くなっていた。
リゼが外から戻り、土間で装備を外す。
ファステは夕食の準備。
レイナと千代は物置で種を分け、ヴィオラは共用部屋で一人用の小石遊びを考えていた。
俺が個人空間から出た時、縁が突然顔を上げた。
耳が、共用部屋と土間の境へ向く。
ゆっくり立ち上がり、数歩進む。
そして、段差の少し手前で止まった。
「来た」
ヴィオラが言う。
今度は全員がすぐ気づいた。
「今、誰も何もしてないよな?」
「私は食事の準備をしていました」
「装備を外していただけだ」
「種を数えておった」
「遊んでた」
「お前だけ正直だな」
俺たちは縁から少し距離を取り、待った。
縁の髭が動く。
鼻が空気を嗅ぐ。
耳が一度だけ傾いた。
数秒後。
土間との境にあった小さな隙間が、音もなく塞がった。
段差も、ほんの少し滑らかになっている。
言われなければ気づかない程度の変化だ。
『生活環境を微細調整しました』
「三回目?」
ヴィオラが縁を見る。
「少なくとも、我らが確認した範囲ではな」
千代が答えた。
以前の一度。
今日の昼。
そして今。
いずれも縁が先に反応し、その後で《淫獄》が変化した。
「縁が起こしているとは限らん」
リゼは慎重な姿勢を崩さない。
「起きる前に分かるだけかもしれない」
「私たちには聞こえない音を聞いている可能性もあります」
ファステが言う。
「ですが、音だけなのでしょうか」
レイナは縁の鼻先を見る。
「匂いや、空気の違いかもしれませんわ」
「床の振動ということもあろう」
千代が小石を一つ増やす。
音。
匂い。
振動。
空気。
俺たちには感じられない、《淫獄》特有の何か。
候補はいくらでも出る。
答えは一つもない。
その真剣な話し合いの真ん中で、縁は前脚を舐め始めた。
「本人、全然気にしてないな」
「本人にとっては普通なのかも」
ヴィオラがしゃがみ込む。
「普通?」
「私たちが音を聞くのと同じくらい。聞こえたから見ただけ」
特殊な力を使ったつもりすらない可能性。
それなら、縁へ聞いても答えが返らないのは当然だ。
いや、言葉が通じても説明できないかもしれない。
◇
「これだけ一緒に暮らしていますのに、まだ正式に飼っていないのですの?」
レイナが縁を見ながら言った。
「それとこれとは別じゃ」
千代が即答する。
「名を付け、寝床を作り、餌と水を用意して、毎日世話をしておるだけじゃ」
「それを飼っていると言うのでは?」
「観察じゃ」
苦しくなってきた。
「でも便利だね。変化が分かるなら」
ヴィオラが縁へコインを見せる。
縁の目が動く丸い光を追った。
「便利だから飼うっていうのは違うだろ」
俺が言うと、ヴィオラがこちらを見る。
「じゃあ何なら飼うの?」
「それは……」
すぐには答えられなかった。
役に立つから置く。
役に立たないなら捨てる。
そんな基準で住む相手を決めたくない。
セリナを3,000個の元を取るために引き止めなかったのと同じだ。
「少なくとも、能力がありそうだからって理由だけでは決めない」
「食べるかどうかも?」
「それはとっくに無理じゃない?」
「まだ食用判定は保留じゃ」
千代だけが制度上の建前を守っている。
縁は自分が食用候補として議論されているとも知らず、ヴィオラのコインへ前脚を伸ばした。
「飲み込ませるなよ」
リゼが言う。
「分かってるよ」
ヴィオラは触れる直前にコインを引いた。
縁の前脚が空振りする。
もう一度。
また空振り。
「遊ぶな」
「本人も楽しそうだよ?」
「にゃう」
楽しんでいるのか、苛立っているのかは分からない。
ただ、その光景を囲む五人を見た瞬間。
それぞれ違う役割で動いていた成人女性たちが、一匹の正体不明な小動物を中心に自然と集まっている状況が、妙に刺さった。
『《淫獄石》を95個獲得しました』
『所持《淫獄石》:285』
「今?」
「今だな……」
「性癖クリティカル?」
ヴィオラが嬉しそうに聞く。
「違う。普通のやつ」
「普通とは何じゃ」
千代の指摘は正しい。
俺にも分からない。
◇
夜。
縁は何事もなかったように寝床で丸くなっていた。
俺は昼間、縁が見ていた庭と家の境を眺める。
何もない。
揺れも、音も、妙な感覚もない。
「やっぱり、分かってる?」
縁の耳が俺へ向いた。
「にゃう」
当然、答えにはならない。
縁が何を感じているのかは、まだ分からない。
ただ。
偶然だと言い切るには、少し回数が増えすぎていた。




