第43話 一人いないだけなのに
セリナが旅立った翌朝。
俺は共用部屋へ出て、最初に食卓を見た。
ファステが朝食を並べている。
リゼは土間で装備を確かめ、レイナは乾かしていた香草を小さく分けていた。千代は物置の前で小石を動かし、ヴィオラは壁際に座ってコインを指の間で転がしている。
いつもの朝だ。
ただ、昨日までセリナが座っていた場所だけが空いていた。
「一人いないだけなのに、広く見えるね」
俺の視線に気づいたヴィオラが言った。
「元々狭いけどな」
「そういう話じゃないと思うよ」
「分かってる」
数日しかいなかった。
なのに、もう空いていると分かる程度には、あそこがセリナの座る場所になっていたらしい。
「お食事にしましょう」
ファステの声で、それぞれが食卓へ集まる。
並んだ器は六つ。
昨日までは七つだった。
たった一つ減っただけなのに、妙に目についた。
「どうかしましたか?」
「いや。ちゃんと一人分減ってるなと思って」
「旅立たれましたから」
「それはそうなんだけど」
七人分用意されていたら、それはそれで怖い。
ファステが寂しさのあまり存在しない住民の食事を並べ始めたわけではなくて安心した。
「食べない相手の分まで作れば、備蓄が減る」
千代が言う。
「分かってるよ」
「ならば妙な顔をするでない」
「俺、そんな顔してた?」
「してたね」
ヴィオラが即答した。
「空いた席を見て、何か言いたそうな顔」
「お前は人の顔を賭け事みたいに読むな」
「顔に出す方が悪い」
俺は黙って朝食へ手を伸ばした。
今日の根は、以前より柔らかかった。
苦味も少ない。
「今日は昨日教えていただいた方法で、少し長めに水へさらしました」
ファステが説明する。
「香草も?」
「はい。使いすぎると香りが強くなりますので、少量だけ」
レイナが分けていた香草は、今日使う分と乾燥を続ける分に分けられている。
種は千代が別に保管していた。
全部食べず、試験栽培へ回すためだ。
セリナはいない。
それでも、昨日までと同じ方法が食卓で使われている。
「いないのに、普通に残ってるな」
「何がですか?」
「セリナが教えたこと」
ファステは一度、自分の器を見た。
「はい。教えていただいたことまで、いなくなるわけではありませんから」
「それもそうか」
当たり前の話だった。
それなのに、少し不思議に感じる。
セリナは数日滞在しただけだ。
その数日で、根の食べ方も、香草の使い方も、保存する種の分け方も変わった。
人がいなくなっても、その人が変えた生活までは元に戻らない。
「今日は、この根をもう少し少ない水で処理できないか試してみます」
「水は貴重だからな」
「はい。ただ、短くしすぎると以前と同じになりますので」
「一回で正解を出す必要はないだろ。少しずつ試せばいい」
「そうですね」
ファステが微笑む。
セリナの知識を、そのまま守り続けるわけではない。
ここでの暮らしに合わせて、ファステが使い方を変えていく。
たぶん、それでいい。
◇
朝食後、リゼが外出用の荷物を土間へ並べていた。
水袋。
縄。
採取物を入れる簡易容器。
持ち帰る量は、いつもより少なめに設定されている。
「今日は採取へ行くのか?」
「近い場所だけだ」
リゼは装備を締め直しながら答えた。
「セリナが確認した経路をもう一度歩く。休憩地点と、避ける場所も確かめる」
「セリナがいなくても使える?」
「あいつがいたから安全なんじゃない」
リゼが俺を見る。
「あいつが見つけた安全なやり方を、こっちが覚えたんだ」
「なるほど」
「採取場所も、あるだけ取るなと言われたからな。次に来た時に残る量を考える」
「お前、かなり素直に取り入れてるな」
「役に立つから使う。それだけだ」
「仲よくなったからじゃなくて?」
「違う」
即答だった。
でも、旅立つ直前まで安全確認をしていた相手の意見を、どうでもいいとは思っていないはずだ。
「今日は俺も行く?」
「行かない」
「即答?」
「経路確認だけなら私とヴィオラで足りる。お前が増えると休憩時間が増える」
「王を荷物みたいに計算するな」
「外で自分の足で移動できなくなったら荷物だ」
昨日、セリナにも似たようなことを言われた気がする。
役に立つ知識だけでなく、俺への評価まで残していったらしい。
「呼ばれた?」
ヴィオラがコインを弄びながら来た。
「今日はお前も同行だ」
「いいよ。セリナがいなくなった途端、代わりに使われるのは複雑だけど」
「代わりじゃない。お前には痕跡を見てもらう」
「人の嘘だけじゃなくて、地面の嘘まで読めって?」
「読める範囲でいい」
リゼは昨日までの経路を、床に置いた小石で説明した。
水場。
休憩できる岩。
踏み跡。
不自然に避けられている茂み。
人の活動痕跡が続く方向。
セリナが歩いて説明した道が、今度はリゼの言葉になっている。
「深追いはしない」
「分かってるよ」
「怪しい物へ触るな」
「私は夜斗じゃないから大丈夫」
「そこで俺を基準にする必要ある?」
「分かりやすいからね」
二人は準備を終え、外へ出ていった。
俺は留守番である。
王の仕事は適切な人へ任せること。
決して体力不足で置いていかれたわけではない。
たぶん。
◇
庭へ出ると、縁が地面へ鼻を近づけていた。
そこはセリナが旅袋を置いていた辺りだ。
少し離れた場所には、短期滞在中に使っていた簡易寝床も残っている。
縁は荷物置き場の匂いを嗅ぎ、次に寝床へ近づいた。
「探しているのでしょうか」
ファステが少し離れた場所から見ている。
「匂いが残ってるだけかもしれん」
出発前のリゼが言い残したとおりなら、それ以上は分からない。
「寂しいとか?」
ヴィオラなら、たぶんそう言っただろう。
だが本人は外出中だ。
代わりにレイナが縁を見ながら呟いた。
「セリナを探しているのでしょうか」
「勝手に動物の感情を決めるでない」
千代が止める。
「ですが、昨日まではあの場所にいましたわ」
「匂いを確認しておるだけやもしれぬ」
「どっちだ?」
俺が縁へ尋ねる。
「にゃう」
「分からん」
当然である。
縁はしばらく寝床の周りを嗅いだあと、庭の出入口がある方向を一度見た。
耳が動く。
だが、何かへ反応した様子はない。
すぐに身を翻し、自分の寝床へ戻って丸くなった。
「探しに行こうとはしませんのね」
「外に出られないだろ」
「そういう意味ではありません」
「なら、やっぱり分からないな」
寂しいのかもしれない。
匂いが気になっただけかもしれない。
本人に聞けない以上、俺たちの都合のいい物語をつけるべきではない。
◇
昼前。
俺は《住民管理》を開いた。
昨夜も一度確認している。
でも、朝になれば変わるかもしれないと思った。
表示された中には、変わらずセリナ・ウェルズの名があった。
「やっぱり消えてない」
「何がですか?」
近くで保存用の草を分けていたファステが顔を上げる。
「セリナ。住民のまま」
「もう外へ出られたのに?」
「表示は残ってる」
帰還機能は見つかっていない。
外から入る方法も分からない。
今、セリナはこの家のどこにもいない。
それでも、システム上は《住民》だ。
外出しているリゼとヴィオラの表示も残っている。それだけなら、単に一時的に外へ出ている者の登録を維持する仕組みとも考えられる。
だが、セリナは帰る時期を決めていない。
帰れるかどうかすら分からない。
夕方、リゼとヴィオラが戻ってから、その話をした。
「住んでないのに住民なんだね」
ヴィオラが面白そうに言う。
「俺もそこが分からない」
「旅立ったことをシステムが理解してないだけじゃない?」
「それはそれで困るな」
《淫獄の王》という大層な名前のシステムが、住民の外出と旅立ちを区別できない。
あり得ないとは言い切れない。
何しろ説明不足には定評がある。
「そもそも、《住民》という言葉を我らが狭く考えておるのではないか」
千代が言った。
「狭く?」
「居住と所属は別じゃ」
千代は床に置いた小石を一つ取り、少し離れた場所へ動かした。
「城に暮らす者だけが、同じ領へ属しておったわけではない。城下に住む者もおれば、使者として遠方へ出る者もおる。長く外へ出ておっても、それだけで縁が切れるとは限らぬ」
「毎晩ここで寝てなくても、住民ではいられる?」
「可能性の話じゃ。毎晩同じ屋根の下で眠らねば、同じ者ではないという道理はあるまい」
セリナが城の使者と同じかは怪しい。
本人は誰かの命令で出たわけではないし、戻る義務も負っていない。
それでも、ここにいないことと、ここへ何も属していないことが同じとは限らない。
「つまりセリナは外泊中?」
ヴィオラが言った。
「規模が違うだろ」
「帰宅時間未定の長い外泊」
「家から出て人里を探しに行くのを、その軽さでまとめるな」
「でも、住民表示はそう思ってるかもよ?」
ありそうで嫌だ。
「召喚されたから住民なのか」
俺は表示を見る。
「それとも、一度登録されたら消えないだけなのか。セリナがここを受け入れたからなのか」
本人が住民をやめると言えば消えるのか。
長く外界にいても残り続けるのか。
もし敵対した場合はどうなるのか。
疑問だけならいくらでも増える。
「……分からないこと増えたな」
「いいじゃない」
ヴィオラがコインを弾いた。
「増えたのが石じゃなくて疑問なら、無料だよ」
「嬉しくない」
石なら次の召喚へ近づく。
疑問は増えても答えへ近づいた感じがしない。
しかも、本当に《淫獄石》は増えていなかった。
朝から生活の変化も、セリナが残したものも意識した。
それでも表示は190/10,000のままだ。
意味のある時間なら必ず石になるわけではない。
もう分かっていることだった。
◇
「それで、ここはどうしますの?」
レイナがセリナの使っていた簡易寝床を指した。
旅袋を置いていた一角も空いている。
「片付けてしまいますの?」
「戻られる可能性もあります」
ファステが言う。
「されど、使わぬ場所を永遠に空けておくわけにもいかぬ」
千代は現実的だった。
家は広くない。
六人分の個人空間と共用部屋、小さな物置、調理場所、土間、庭。それだけだ。
今後、物が増えれば空いた場所も必要になる。
「普通に使えばいいんじゃない?」
俺が言うと、全員がこっちを見た。
「何?」
「いえ」
ファステが少し迷う。
「夜斗様は、残しておきたいのかと思いました」
「何も変えずに?」
「はい」
そうすれば、セリナが戻った時に同じ場所を使える。
帰る場所を残すという意味では、正しいようにも思える。
でも、帰る場所とは、使われない寝床を保存することだろうか。
「戻ってきたら、その時また場所を作ればいいだろ」
「新しく?」
「その時の人数とか、荷物とか、家の状態に合わせて。今のまま残しても、いつ戻るか分からないし」
戻った時に、家が今と同じ形とも限らない。
《淫獄》が成長しているかもしれないし、住民が増えているかもしれない。
逆に、何も変わっていないかもしれない。
「セリナの場所を残すんじゃなくて、セリナが戻ってきた時に受け入れられればいい」
ファステは空いた寝床を見た。
それから、ゆっくり頷く。
「はい。その方が、よいと思います」
「戻ってくると決めておるわけではないがな」
千代が付け加える。
「決めてないから、どっちにも対応できるようにするんだよ」
「ならば異論はない」
簡易寝床の布は畳み、共用の予備へ戻した。
荷物置き場には、乾燥中の素材を一時的に置くことになった。
痕跡を消したわけではない。
記念に保存もしない。
この家の暮らしを、今日の人数に合わせただけだ。
◇
夜。
俺は共用部屋から庭を眺めていた。
縁は自分の寝床で丸くなっている。
夕方に一度だけ出口の方向を見たが、今はもう気にしていない。
家の中では、今日もそれぞれが自分の役割を終えようとしていた。
ファステは、根を水へさらす時間を確かめている。
リゼは、セリナが示した危険回避地点を明日の探索にも使うつもりらしい。
レイナは香草を分け、千代は種と保存食の残量を管理している。
ヴィオラは、人里へ近づく場合に相手を観察する遊び――本人は訓練だと言い張っている――を考えていた。
セリナ本人はいない。
それでも、根の処理方法が残った。
香草が残った。
保存食と携行食の作り方が残った。
採取ルートと休憩地点が残った。
人里があるかもしれない方向も分かった。
そして、《住民》とは何なのかという新しい疑問まで残った。
「一人いないだけなのに、昨日までとは少し違うな」
朝と似たことを呟く。
今度は誰にも聞かれなかった。
ここにいることだけが、《淫獄》の住民である条件ではないのかもしれない。
まだ分からない。
システムへ聞いても、たぶん答えは返ってこない。
庭の端で、縁が一度だけ顔を上げた。
出口のある方向を見る。
耳を小さく動かし、すぐに頭を伏せた。
何も起こらない。
セリナはいない。
それでも、《淫獄》からセリナが消えたわけではなかった。




