第41話 街を見るには、街を探さなくていい
「人、通ってるね」
セリナが唐突に言った。
俺には、いつもの森にしか見えなかった。
昨日決めた採取ルートを確認するため、俺とリゼとセリナは再び外へ出ている。
既知の根を少量取り、水場の状態を見て、休憩地点として選んだ岩まで来た。その少し先で、セリナは道ですらない地面へしゃがみ込んでいた。
「どこに?」
「ここ」
指さされたのは、土の浅い窪みだった。
「足跡?」
「違う。たぶん荷車の轍」
言われて見れば、平行した細い跡が残っている。
ただし途中で草に埋もれ、すぐ見えなくなっていた。
「古いな」
リゼが周囲を警戒しながら言う。
「雨を何度か受けてる。でも、道が完全に消えるほど昔でもない」
「じゃあ、この先に街がある?」
「これ一個なら分からない」
セリナは立ち上がった。
「荷車じゃないかもしれないし、今は使われていない道かもしれない。だから他も見る」
轍らしき跡そのものを追うのではなく、少し離れた場所を並行して進む。
リゼが先頭で安全を確認し、セリナが地面と木を見る。
俺は二人の後ろで、見失わないことに全力を注ぐ。
少し歩いただけで息が上がり始めた。
外界に出るたび思う。
《淫獄》では王でも、外では本当に体力がない。
「休む?」
セリナが振り返った。
「まだいける」
「無理して倒れたら荷物が増えるわよ」
「俺を荷物扱いするな」
「自分で歩けない人は荷物でしょ」
反論はできない。
短い休憩を挟み、さらに進む。
次に見つかったのは、枝の切り口だった。
折れたのではない。
鋭い刃物で斜めに切られている。
「薪か?」
「たぶん。でも、一本だけなら旅人が通っただけかもしれない」
その先には、同じ高さで切られた細い枝がいくつもあった。
歩く邪魔になる部分だけが払われている。
少し開けた場所では、太い枝を持ち去った跡も見つかった。
「一個なら偶然」
セリナが指を折る。
「轍。切られた枝。薪を取った跡。それに、ここの土」
地面の一部だけ、草が薄い。
「何度か踏まれてる。獣ならもっと好き勝手に通るけど、これは同じ場所を避けずに歩いてる」
「道があるのか」
「道というより、道になりかけてる場所ね」
セリナは周囲を見渡した。
木々の隙間から空を見て、風の流れを確かめる。
「街を見るには、街を探さなくていいのよ」
「どういう意味だ?」
「人がどこから来て、どこへ戻ってるか見ればいい」
切られた枝の向き。
運びやすい斜面。
荷車が通れそうな幅。
水場との位置関係。
セリナは一つずつ説明した。
「この近くで薪や何かを集めて、あっちへ運んでる。人里か街かは分からない。大きさも距離も分からない。でも、人が戻る場所はあの方向にある可能性が高い」
示された方角を見る。
木しか見えない。
それでも、その向こうに人が暮らしているかもしれない。
「煙は見えないな」
俺が木々の先を見ても、空にそれらしいものはなかった。
「毎日、森より高く煙が上がるとは限らない。風向きもあるし、ここから見えない谷に家があるかもしれない」
「音は?」
「今は鳥と風だけ」
セリナは耳を澄ませた。
リゼも黙り、周囲へ意識を向ける。
俺も真似したが、葉が擦れる音の違いすらよく分からない。
「人がいる方向は分かっても、距離は分からないのか」
「歩いて半日かもしれないし、数日かもしれない。荷車の跡があるから、越えられない地形ではないと思う。でも途中で道が分かれてる可能性もある」
「結局、分からないことが多いな」
「分かったことも多いわよ」
セリナが指を上げる。
「人がこの辺りまで来る。何かを集めて運ぶ。荷車が通れる経路が少なくとも一度はあった。そして戻る方向がある」
分からない部分を残したまま、分かった部分だけ使う。
俺が《淫獄》の機能を調べる時にも必要な姿勢だったが、外では間違いがそのまま命に繋がる。
「この跡、わざと避けてるようにも見える」
リゼが低い茂みの前で止まった。
踏み固められた場所が、そこだけ不自然に曲がっている。
「危険な植物か、地面が悪いか」
セリナは近づかず、迂回の形を眺めた。
「人が何度も同じ避け方をしてるなら、私たちも避けた方がいい」
「理由を調べないのか?」
「今は必要ない。危険かもしれない場所へ近づかないために、危険の正体まで知る必要はないでしょ」
知識を増やすことより、安全に使うことを優先する。
専門の研究者がいれば違う考え方をするのかもしれないが、今ここにいるのは旅人と傭兵と、外では役に立たない王だけだ。
俺たちは素直に迂回した。
「近すぎない?」
「普通は喜ぶところじゃない?」
「人がいるってことは、《淫獄》の近くまで来る可能性もあるってことだろ」
現地の人間が善良とは限らない。
大学の学生たちかもしれないが、彼らが誰と行動しているかも分からない。
俺たちの人数も、能力も、家も、知られたとき何が起きるか予想できない。
「人がいるイコール安全、ではない」
セリナは笑わず頷いた。
「それは正しい。近づくなら、見つかる前に相手を見る。逃げ道も決める。知らない集団へ正面から名乗り出ない」
「お前、もっと気ままに歩く奴だと思ってた」
リゼが言う。
「気ままに旅するために慎重なの。死んだら次の行き先を選べないでしょ」
自由と無計画は違う。
セリナにとっては、選び続けるために生き残ることが必要らしい。
さらに周囲を調べると、比較的新しい足跡が見つかった。
一人ではない。
靴底の形も、歩幅も違うものが重なっている。
「何人くらいだ?」
「断定しない。消えた跡と重なった跡があるから」
「こっちへ来たのか?」
「途中までは。でも、この枝の先で方向を変えてる」
以前聞いた日本語らしい声と、見つけた紙片が頭をよぎる。
同じ講義室にいた学生たちかもしれない。
だが、足跡だけで確かめる方法はない。
足跡の近くには、短く切れた紐のような物も落ちていた。
日本の製品かと思ったが、泥に汚れ、素材も判別できない。
「触るな」
伸ばしかけた俺の手を、リゼが止めた。
「罠かもしれない?」
「可能性は低い。だが誰の物か分からない以上、残しておけ」
セリナも頷く。
「持ち主が戻って探すかもしれない。拾ったことで、こっちの存在を知らせることもある」
何気なく落ちている物一つにも、意味がある。
以前見つけた日本語の紙片とは違い、今回は読むことも、出所を推測することもできない。
俺たちは位置だけ覚え、その場を離れた。
少し先の柔らかい土には、足跡とは別に細い棒を突いた跡が続いていた。
「杖か?」
「旅人かもしれないし、荷物を運ぶための棒かもしれない」
「また分からない、か」
「分からないものを一つの答えに決めると、次に見る物までその答えに合わせ始めるから」
セリナは跡の間隔だけ確認し、それ以上の物語を作らなかった。
俺は少し耳が痛かった。
ガチャの数字を見て、必要だから、上限だから、合理的だからと理由を作ってきた自覚がある。
もっとも、今は反省する場面ではない。たぶん。
「追うか?」
リゼが俺へ聞いた。
少し迷った。
会えるなら、状況を知りたい。
けれど今日は、足跡を追う準備をしていない。
「追わない。場所だけ覚えて戻る」
「妥当ね」
セリナがあっさり言う。
「気にならないのか?」
「気になる。でも、気になるから進むのと、安全に進めるのは別」
俺たちは目印を決め、痕跡を壊さないよう引き返した。
帰り道では、セリナが人里へ向かう場合に使えそうな休憩地点を二つ確認した。
一つは見通しがよいが水から遠い。
もう一つは水に近いが、獣の痕跡も多い。
「泊まるならどっちだ?」
「どっちにも泊まらない」
「候補じゃなかったのか」
「休む候補。眠る場所は別に探す。夜と昼で安全な場所は変わるから」
セリナは立ち止まり、木々の高さを見た。
「明日は早めに出る。足跡を追いすぎず、暗くなる前に寝床を決める」
本当に旅立つのだと、そこで改めて実感した。
◇
《淫獄》へ戻り、全員へ報告した。
千代は人里の可能性より先に、距離と侵入経路を尋ねた。
リゼとセリナが分かる範囲を説明する。
「今すぐこちらへ至る道ではない。されど、人の活動圏が想定より近い可能性はある、か」
「警戒範囲は少し広げた方がいい」
リゼが答えた。
「でも、交易できる相手なら必要な物を得られるかもしれません」
ファステが言う。
「茶葉も?」
俺が聞くと、ファステは少しだけ嬉しそうに頷いた。
「あるかもしれません」
「まず相手を確かめてからですわ」
レイナの言うとおりだ。
人里は希望にも危険にもなる。
まだどちらかを決める段階ではない。
「私はこっちへ行く」
セリナが、床へ置いた簡単な目印の中から一方向を示した。
「街を探すの?」
「人がいるなら、まずそこから。街そのものを目指すかは、途中を見て決める」
目的地が決まったわけではない。
最初に進む方向を決めただけ。
それでも、セリナにとっては十分らしい。
「戻ってくる予定は?」
尋ねると、セリナは壊れた方位磁針を指でなぞった。
「決めてない」
迷っている声ではなかった。
明日の行き先は決めた。
その先まで、今日の自分に決めさせるつもりがないだけだった。
「一人で行くのか?」
リゼが確認する。
「途中までは、今日見た道を使う。そこから先は一人で行く」
「危険だぞ」
「知ってる。でも、人数が増えれば安全になるとは限らない。目立つし、必要な水と食料も増える」
「護衛がいれば戦える」
「戦う必要がある場所へ近づかないのが私のやり方」
二人はしばらく見つめ合った。
どちらも間違ってはいない。
守る相手と一緒に帰ることを考えるリゼと、自分が通れる道を選び続けるセリナでは、安全の作り方が違う。
「危険だと思ったら戻れ」
リゼが言う。
「戻れる距離ならね」
「約束しろとは言っていない。選択肢から外すなと言っている」
「それなら覚えておく」
帰るとは言わない。
戻らないとも言わない。
セリナは自分の未来へ、道を一本だけ残した。
その道が本当に《淫獄》へ繋がるかは、まだ誰にも分からなかった。




