第4話 休んでいいと言われても
目を覚ますと、ファステが何もない床を掃除していた。
いや、正確には掃除しようとしていた。
灰色の床に目立つ汚れはない。そもそも、ほうきすらない。ファステは服の端から出た細い布切れを手にして、床を丁寧に撫でている。
「何も落ちてない床を掃除して、何をきれいにするんだ?」
「おはようございます、夜斗様」
「おはよう。じゃなくて、それ」
俺が指さすと、ファステは手元の布へ目を落とした。
「何もしないままでは、落ち着きませんので」
予想どおりの答えだった。
横を見ると、出口近くの壁際にリゼが座っている。武器を手の届く場所へ置き、こちらを見ていた。
「こいつ、私が起きたときにはもうやってたぞ」
「ファステ。ちゃんと寝たか?」
「はい」
「何時間?」
「それは……」
答えられない時点で、十分に寝ていないことだけは分かった。
「掃除は中止。水も貴重なんだから、意味のないところへ使えない」
「水は使っておりません。こちらの布だけです」
「そういう問題じゃない」
俺はファステの前へしゃがんだ。
「やりたいからやってるのか、やらないと追い出されそうだからやってるのか、どっちだ?」
ファステの手が止まった。
「私は……」
言葉が続かない。
たぶん、本人にも分からないのだ。
働くことが好きなのか。
働かないことが怖いのか。
その二つを考える機会さえ、これまでは与えられなかったのだろう。
「別に、今すぐ答えなくていい」
俺は立ち上がった。
「ただ、何かしてないと置いてもらえないって考えてるなら、それは違うからな」
「……はい」
返事はした。
でも、理解した顔ではなかった。
◇
深刻なのは、ファステの働きすぎだけではない。
「残っている水はこれだけか」
リゼの水袋を持ち上げる。
中から頼りない水音がした。
「三人で飲めば、長くは持ちません」
ファステが答える。
「水はまた汲みに行けばいい。問題は食い物だ」
リゼの言葉に、腹が返事をした。
ぐう、と。
それなりに立派な音だった。
「……今のは俺じゃない」
「三人しかいないのに、誰のせいにするつもりだ」
「《淫獄》の環境音とか」
「食い物を探す前に、そのくだらない言い訳を捨てろ」
ぐうの音も出ない。
いや、腹からは出たけど。
俺たちは必要なものを整理した。
食料、水を運ぶ容器、寝床、着替え、衛生用品。考え始めると、足りないものしかない。
サンドボックス系ゲームなら、まず木を殴れば何かが始まる。
現実で木を殴ったら、始まるのは治療だ。治療道具もないので詰む。
「食べられるものに、心当たりはないか?」
俺が尋ねると、ファステが少し顔を上げた。
「逃げている途中で、いくつか見かけました。食べられる根や木の実でしたら、分かるものがあります」
「本当か?」
「はい。以前、扱ったことがございます」
ファステは、すぐに立ち上がろうとした。
「では、私が取ってまいります」
「待て。一人では行かせない」
「ですが、夜斗様のお手を煩わせるわけには」
「必要かどうかじゃなくて、ファステがどうしたいかを聞いてる」
「どう、したいか……」
ファステが困ったように黙る。
たったそれだけの問いが、彼女には難しいらしい。
「三人で行く」
リゼが武器を取った。
「私が周囲を見る。ファステが食えるものを選べ。夜斗は持て」
「俺だけ役割が雑じゃないか?」
「戦えない、植物も分からない。ほかに何ができる?」
「撤退判断」
「真っ先に逃げる役か」
「安全管理担当と言ってくれ」
◇
《淫獄》を出て、遠くへ行かない範囲を探す。
先頭はリゼ。その後ろにファステ。最後が俺。
リゼは何度も立ち止まり、地面や茂みを確認した。
ファステは植物を一つずつ見ていく。
「こちらは食べられます」
掘り出されたのは、土にまみれた太い根だった。
「そのまま?」
「加熱したほうがよろしいかと」
「火がないな」
「ある」
リゼが腰の荷物を叩いた。
「野営する傭兵が、火も起こせないと思うな」
「装備つき召喚、便利すぎるだろ」
「何の話だ?」
「こっちの話」
少し移動すると、ファステが低い枝に実っていた木の実を見つけた。さらに、癖のある匂いがする野草も少量摘む。
量は多くない。
それでも、昨日まで食料がゼロだったことを考えれば大進歩だ。
ファステは食べられるものを見つけるたび、ほんの少しだけ表情を明るくした。
命じられた仕事をこなしている顔とは違う。
「ファステ」
「はい?」
「これを探すの、嫌じゃないのか?」
「嫌……ではありません」
迷ったあと、彼女は根についた土を払いながら続けた。
「食べられるものを見分けたり、どうすれば食べやすくなるかを考えたりするのは……以前から、嫌いではなかったと思います」
「そっか」
それで十分だった。
少なくとも今は、追い出されないためだけに動いているわけではない。
「今日はこのくらいにしよう」
「もう少し探せます」
「見つけたからこそ帰る。欲張って全部失うのが一番まずい」
「それには同意だ」
リゼが周囲を見たまま言う。
「お前にしてはまともだな」
「俺への評価、いつ上がるんだ?」
「下がらなければ喜べ」
高望みだったらしい。
◇
持ち帰ったものを床へ並べて、俺は限界を迎えた。
水袋。
土のついた食材。
リゼの武器と防具。
俺たちが休む場所。
全部、同じ灰色の床の上だ。
「駄目だ」
「何がですか?」
「食材と武器と寝る場所が同じなのは、拠点設計として許せない」
ファステが瞬きをし、リゼが呆れた顔をする。
「今まで全部ただの床だっただろ」
「だから今から分けるんだ。拠点は最初の動線が重要なんだぞ。物資を取りに行くたび生活区域を横切る設計は、後から絶対に後悔する」
「急に元気になったな」
「夜斗様は、こういったことがお好きなのですね」
「好きというか、こだわりだ」
俺は《淫獄》全体へ意識を広げた。
ここは俺の領域だ。
壁を消し飛ばしたり、豪華な家具を出したりはできない。それでも、俺たちが暮らすために、もう少し広さが欲しい。
荷物を置く側。
休む側。
その二つだけでも分けたい。
灰色の床が、低く震えた。
「動いた?」
壁が遠ざかる。
ほんの少しだ。数歩分あるかどうか。それでも、間違いなく空間が広がっている。
『生活基盤の形成を確認』
『《淫獄》領域を微細拡張しました』
「おお……!」
サンドボックスゲームで最初の部屋を広げたときのような感動があった。
「石を使ったのか?」
「いや。たぶん、俺たちがここで暮らし始めたことに反応した」
正確な条件までは分からない。
ただ、《淫獄石》が増えたから広がったわけではなさそうだ。
「こっちへ水と食材を置く。リゼの装備は出口に近い側。その奥を休む場所にしたい」
俺はファステを見る。
「ファステは、どこがいい?」
「夜斗様のお好きなところで」
「俺の正解を当てなくていい。ファステが休みたい場所を聞いてる」
「私が決めても、よいのですか?」
「そこはファステが使う場所なんだから、ファステが決めていい」
しばらく迷った末、ファステは奥の壁際を指さした。
「あちらでも、よろしいでしょうか」
「もちろん」
たった一か所を選ぶだけなのに、彼女の顔はひどく緊張していた。
それでも、初めて自分で選んだ場所だ。
◇
飲み水を減らしすぎない範囲で、俺たちは顔や手を拭くことにした。
ファステが少量の水を含ませた布を手に、俺を見る。
「あの、夜斗様」
「何だ?」
「少しだけ、向こうを向いていただけますか」
「あ、はい」
俺は即座に壁を向いた。
背後で髪をほどく音がする。
布が肌を撫でる、小さな水音。
服を整える布擦れ。
見ていない。
見ていないが、見ていないからこそ余計に想像してしまう。
同じ空間に、成人女性がいる。
しかも彼女は今、限られた水で身体を拭いている。
『《淫獄石》を3個獲得しました』
「仕事が早いな、おい!」
「夜斗様?」
「何でもない!」
このシステム、本当に遠慮がない。
エロゲなら便利なイベントとして受け入れられるが、現実では本人の事情と羞恥がある。
こちらも節度を持たなければならない。
「仕切りは最優先だな」
「今さら気づいたのか」
「リゼ、聞こえてたなら助け舟を出してくれ」
「面白かったから黙ってた」
強い。
色々な意味で。
◇
身支度を終えたファステは、髪をまとめ直していた。
汚れが少し落ちただけなのに、印象が変わって見える。
俺が一瞬見つめると、ファステが服の胸元を確かめた。
「何か、おかしいでしょうか」
「いや。少し雰囲気が変わったと思って」
「申し訳ありません。十分には整えられず――」
「謝ってない。似合ってるって意味だ」
ファステが黙った。
俺も黙った。
何だ、今の台詞。
自然に女性を褒められるタイプだったら、大学でももう少しましな生活を送っていたはずだ。
『《淫獄石》を3個獲得しました』
合計六個。
顔には出さない。たぶん出ている。
続いて、食事の準備だ。
リゼが簡易的な火起こし道具を扱うと、やがて小さな火が生まれた。
「おお、本当に点いた」
「野営する傭兵が火も起こせないと思うな」
問題は、煙だった。
煙突も換気口もない場所で火を使って大丈夫なのか。そう思った矢先、上へ昇った煙が少しずつ薄くなり、天井へ届く前に消えた。
「……煙、どこ行った?」
「知らん。煙くないなら助かるだろ」
「いや、酸素とか換気とか気になるんだけど」
「分からないものを悩んでも腹は膨れない」
それもそうだ。
いや、よくはないが、今は食事が先だ。
ファステは根の土を落とし、食べにくい部分を取り除いた。野草も慎重に選り分ける。
「ファステ」
「はい」
「やらなくても、ここにはいられる。それは変わらないからな」
彼女の手が止まる。
「それでも……これは、私がやってみたいです」
小さな声だった。
でも、今度は自分で答えた。
「食べられるものを見つけたら、どうすれば少しでもよくなるか、考えてみたくなりました」
「なら、頼む。ファステがやりたい範囲で」
「はい」
火の前に座り、食材を扱う彼女の顔は穏やかだった。
元家主に命じられて働いていた頃のことを、俺は知らない。
けれど今のファステは、俺に強制されて動いているのではない。
そう思うと、まとめた髪や、袖からのぞく細い腕まで、妙に目に入った。
『《淫獄石》を5個獲得しました』
合計十一個。
さっきより多い。
露出なら、身体を拭いていたときのほうが多かったはずなのに。
何でだ?
考えかけたところで、香ばしいような、青臭いような匂いが漂ってきた。
◇
「味は……すごく自然だな」
「不味いなら不味いと言え」
リゼが焼いた根をかじりながら言った。
「素材本来の味を尊重した表現だ」
「つまり不味いんだな」
「申し訳ありません。道具や調味料があれば、もう少し――」
「謝るところじゃない」
俺は慌てて遮った。
「昨日まで水すらなかったんだ。食べられるものを見つけて、ここまでしてくれた。十分前進してる」
「そうだな」
リゼも木の実を一つ口へ放り込む。
「私はここの植物を知らない。食えるものを見分けられるだけでも助かる」
ファステは驚いたようにリゼを見た。
「ありがとうございます」
「事実を言っただけだ」
素っ気ない。
でも、ファステの表情は少し明るくなった。
「次は、もう少し美味しくできる方法を考えてみたいです」
「それは仕事として?」
俺が尋ねる。
ファステは少し迷ったあと、首を横へ振った。
「私が、そうしたいです」
「そっか」
それ以上、言う必要はなかった。
「紅茶も、いつか」
「茶葉も道具も見つけないとな」
「はい。ですが、考えているだけでも……少し楽しみです」
ファステが《淫獄》で紅茶を淹れる姿を想像する。
清潔な服。
穏やかな笑顔。
俺たちのためではなく、本人が好きだから淹れる紅茶。
『《淫獄石》を1個獲得しました』
想像だけでも出るのかよ。
◇
夜になった。
ファステは自分で選んだ壁際へ座り、外套代わりの布を身体へ掛ける。
リゼは出口に近い側。
俺はその中間だ。
三人の距離は、まだ近い。
特にファステが身じろぎするたび、気にしないほうが難しい。
合計十三個。
俺は《住民召喚》の表示を開く。
『所持《淫獄石》:13』
『次回必要《淫獄石》:100』
「あと八十七個か」
口にしてから固まった。
なぜ俺は、迷わず残りを計算した?
「別に、次を回すつもりじゃない」
リゼが片目だけを開けた。
「誰も何も言ってないぞ」
「必要数を確認しただけだ」
「そうか」
「本当だからな」
「分かったから寝ろ」
俺は表示を消した。
ファステは今日、自分で休む場所を選んだ。
自分で食材を扱いたいと言った。
小さな変化だ。
問題が解決したわけではない。それでも、この灰色の箱は少しだけ広くなり、初めて食事をする場所になった。
だから今は、それで十分だ。
あと八十七個という数字が、なぜか頭から離れなかったけれど。




