第35話 家らしくなってきた
朝、目を覚ます。
灰色の天井ではない。
低いが、きちんと部屋として区切られた天井。
横を向いても、他の五人の寝姿は見えない。
俺一人のために作られた、狭い個人空間だ。
「……最高」
小さくつぶやく。
誰にも聞かれない。
起きた直後に他人と顔を合わせなくていい。
寝癖を見られることもない。
完全に一人になれる。
これこそ、俺が異世界へ来る前から求めていた生活である。
そのまま、もう一度横になる。
共用部屋の方から、器を置く小さな音が聞こえた。
続いて、ファステと千代の話し声。
庭では縁が動いたのか、囲いの枝がかすかに鳴る。
俺は目を閉じたまま、しばらく音を聞いていた。
五分くらいで起き上がった。
別に寂しくなったわけではない。
朝食の時間を確認するためだ。
◇
「おはようございます、夜斗様」
共用部屋へ出ると、ファステが振り返った。
簡易調理場所には、すでに六人分の器が並んでいる。
食料は豪華ではない。
外で採った根と葉を加熱し、食べられると確認できた物を少しずつ分けただけだ。
それでも以前より、準備の流れが滑らかになっていた。
水を使う場所。
食材を分ける場所。
加熱する場所。
使用済みの器を置く場所。
狭い中でも作業がぶつからないよう、ファステが配置を変え続けた結果だ。
「これ、運べばいい?」
「お願いいたします。熱くはありませんが、傾けないようお気をつけください」
「俺の運搬能力への信用が低い」
「昨日、水を少しこぼされましたので」
「昨日の失敗を今日まで持ち越さないでほしい」
「改善されるまで持ち越します」
ファステが微笑む。
以前のように、全部を一人で終わらせようとはしない。
俺へ器を渡し、レイナには水を頼み、ヴィオラには全員を呼んでくるよう頼んでいる。
「私も何かするか?」
リゼが土間から顔を出した。
「装備を整えていてください。外へ出る際に必要ですから」
「それでいいのか?」
「はい。皆様が同じ作業をする必要はありません」
ファステ自身が、役割を分けるようになった。
働かなくなったわけではない。
誰かへ任せても、自分の価値がなくならないと少しずつ分かってきたのだと思う。
◇
朝食後、リゼは土間へ戻った。
武器を布で拭き、防具の留め具を一つずつ確認する。
以前は共用の床の端で行っていた作業だ。
今は土間の一角が、ほとんどリゼの装備置きになっている。
外から戻った装備を家の奥へ持ち込まずに済む。
次に使う順番で並べられる。
「ここ、完全にリゼの場所になったな」
「共用だ」
「でも他の誰も武器を置かない」
「必要なら使え」
「使える武器がない」
「枝があるだろ」
「俺の主武装を枝に固定するな」
リゼは笑いながら、武器を壁際へ戻した。
戦場から来たときと同じ装備。
だが今は、戦い続けるためではなく、帰ってきた後に手入れする場所がある。
その姿が、少しだけ穏やかに見えた。
◇
レイナの個人空間へは、入らない。
声をかけ、返事を待つ。
第28話で決めたルールだ。
「レイナ、いる?」
「おりますわ」
「入っていい?」
「少々お待ちください」
布の向こうで、小物を動かす音がする。
「どうぞ」
許可を得てから入口を開けた。
狭い空間だ。
寝床と、小さな私物置き。
それでもレイナの選んだ物が並んでいる。
俺が選んだ髪飾り。
第29話で持ち帰った白い花は、乾き始めても捨てずに置かれている。
衣服も、誰かに決められた順番ではなく、本人が使いたいように整えられていた。
「何か御用ですの?」
「ヴィオラが全員を呼んでる」
「また勝負ではありませんでしょうね」
「たぶん遊び」
「ヴィオラさんの場合、その二つに違いがありますの?」
「ないかもしれない」
レイナはため息をつきながら、髪飾りを自分で選んで身につけた。
個人空間は狭い。
だが、ここでは彼女の物を彼女自身が選べる。
◇
千代は物置にいた。
食料。
水を運ぶための道具。
火起こし用の素材。
予備の布と縄。
縁へ与える餌。
小石を使い、前日から何が減ったか確認している。
「餌の減りは予定どおり?」
「今のところはな」
千代は一つの小石を動かした。
「されど、この量を毎日使い続ければ、採取できぬ日が重なった際に困る」
「縁の分だけ別に探す必要があるか」
「我らと同じ物だけを食わせ続けてよいかも分からぬ。候補を増やすべきじゃろう」
管理対象と言いながら、縁の健康まで考えている。
「何じゃ」
「別に」
「言いたいことがあるなら言え」
「縁のこと、かなり気にしてるなと思って」
「管理しておるだけじゃ」
「寝床の風向きも?」
「必要な管理じゃ」
「餌の種類も?」
「当然じゃ」
千代は俺を物置から追い出した。
女城主は、小動物への愛着を認める予定がないらしい。
◇
共用部屋では、ヴィオラが小石を円形に並べていた。
「今度は何?」
「六人でできる遊び」
「性癖クリティカル選手権はしばらく禁止」
「今日は石を増やす遊びじゃないよ」
「結果的に増える可能性は?」
「高いんじゃない?」
否定しなかった。
ルールは単純だった。
円の中央へ目印の石を置き、それぞれが一つずつ小石を投げる。
中央へ最も近い者が勝ち。
「これなら道具もいらない。誰でも参加できる」
「千代が距離を測り始めそう」
「測るのは禁止にしよう」
「レイナが負けると何度も続けそう」
「回数を先に決める」
「リゼが力加減を間違えて壁を壊すかも」
「壊さない程度と決める」
「俺が一度も勝てない可能性は?」
「それはルールでは解決できないね」
ヴィオラは、六人それぞれがどう動くかを考えて遊びを作っていた。
退屈を嫌う賭け師が、今はこの家で全員が退屈しない方法を考えている。
それも、彼女なりの役割になり始めていた。
◇
午前の作業が一段落したあと、俺は個人空間へ戻った。
誰にも話しかけられない。
好きな姿勢で横になれる。
目を閉じれば、一人だ。
以前なら、そのまま何時間でも過ごせた。
今も一人の時間は好きだ。
嫌いになる理由はない。
それなのに、共用部屋から小石のぶつかる音が聞こえると、少し気になった。
「今のはわたくしの方が近いですわ!」
「線を越えておる。やり直しじゃ」
「投げた後に言うなよ!」
「リゼ、声が大きいです」
「夜斗は?」
ヴィオラの声まで聞こえた。
別に呼ばれたわけではない。
参加する義務もない。
俺は静かな個人空間を楽しむ権利を持っている。
三分後、共用部屋へ戻った。
「遅いよ」
「ルールを確認しに来ただけ」
「参加するんだね」
「確認した結果による」
ヴィオラが笑う。
結局、俺は最下位だった。
◇
午後、縁を試験飼育区画から出してみることになった。
正式に飼うと決めたわけではない。
ずっと囲いへ入れたままでは、動き方も、どこへ行きたがるかも分からないためだ。
「庭の外へ出る道は塞ぐ」
リゼが家と庭の境目を確認する。
「時間は短くする。様子が変ならすぐ戻すぞ」
千代が小石を一つ置き、開始の印にした。
「土間へ入った場合、足の汚れを確認します」
ファステは布を用意している。
「追いかけてはいけませんのね」
レイナが残念そうに尋ねる。
「追えば逃げる」
「触ろうとするのもなしだよ」
ヴィオラが付け加えた。
全員で距離を取り、囲いの小さな出入口を開ける。
縁はすぐには出なかった。
匂いを嗅ぐ。
前脚を一本出す。
引っ込める。
また出す。
「誰かに似て慎重だな」
「夜斗だね」
「俺はもっと合理的に引きこもる」
やがて縁は庭へ出た。
身体を低くし、いつでも戻れるよう囲いの近くを歩く。
試験栽培区の手前で匂いを嗅ぐが、中には入らない。
ヴィオラが置いたコインを見つけ、前脚で触れようとする。
「置くな」
「来るかと思って」
「飲み込んだらどうする」
リゼが即座に回収した。
縁は庭を半周すると、土間の入口へ近づいた。
一歩だけ家へ入る。
外へ戻る。
また入る。
俺たち六人が毎日行き来している境目を、何度も確かめているようだった。
「家の中へ来ましたわ」
レイナは嬉しそうだが、約束どおり動かない。
縁は共用部屋までは入らず、土間の匂いだけを嗅いだ。
その後、自分から庭へ戻り、試験飼育区画の寝床へ入った。
「戻りましたね」
ファステが安堵する。
「あそこを自分の場所とは認識しておるようじゃ」
千代が時間を記録した。
「家から逃げたいわけではないのかもね」
ヴィオラが言う。
まだ何も決まってはいない。
それでも縁は、囲いを閉じ込められる場所ではなく、戻る場所として使い始めていた。
◇
夜。
ファステは簡易調理場所を片付け、袖を下ろしている。
リゼは装備を土間へ置き、軽い服装で共用部屋の壁へ背を預けている。
レイナは自分で選んだ髪飾りを外し、個人空間へ戻す前に布で拭いていた。
千代は髪を下ろし、物置の記録を最後に確認している。
ヴィオラは床へ寝転がり、新しい小石遊びの規則を考えている。
庭では、縁が寝床で丸くなっていた。
朝から夜まで、大きな事件は何もなかった。
食料問題は解決していない。
水用の恒久容器もない。
縁の正体も分からない。
それでも全員に使う場所があり、戻る場所があり、自分だけの物がある。
外では見せない姿で過ごし、誰かが個人空間へ入れば、やがて共用部屋へ戻ってくる。
この家でしか見られない成人女性五人の生活が、もう特別なイベントではなくなり始めている。
日常になったから弱くなるどころか。
積み上がった関係や、それぞれがここを自分の場所として使っている意味まで重なり、以前より強く刺さった。
『《淫獄石》を370個獲得しました』
『所持《淫獄石》:1,650』
「三百七十」
ヴィオラが表示を覗き込む。
「何もしてない一日なのに、ずいぶん増えたね」
「何もしてなくはないだろ。全員それぞれ働いてた」
「そういう意味じゃないよ。昨日みたいな異変も、選手権もなかった」
ヴィオラは共用部屋を見回した。
「家って、あんたの性癖に強いんだね」
「そんな分類されたくない」
「外見や衣装より、ここで暮らしてる関係が積み重なる方が強くなる。重要な検証結果じゃない?」
「日常生活を検証結果として見るな」
否定はした。
だが、表示された370個が反論を難しくしていた。
◇
眠る時間になり、一人ずつ個人空間へ戻る。
ファステが明日の朝食について考えながら立つ。
リゼは最後に土間の装備を確認する。
レイナは髪飾りを持ち、千代は記録用の小石を片付けた。
「ねえ」
ヴィオラが言う。
「今日はみんな共用部屋に集まったし、次は誰かの部屋へ遊びに行かない?」
「狭いぞ」
「だから面白いんじゃないか」
「本人の許可が必要です」
ファステがすぐ指摘する。
「分かってる。声をかけて、返事を待つ」
第28話の規則を、ヴィオラは一応覚えていた。
「それで、誰の部屋に行く?」
全員の視線が動く。
家らしくなったと思った直後。
今度は、その家の中にある誰かの場所へ入る話が始まった。




