第34話 こいつ、何か変じゃない?
「縁」
呼んでも、返事はない。
試験飼育区画の中で、灰色がかった小動物は前脚を舐め続けている。
「縁」
もう一度呼ぶ。
大きな耳が、ほんの少しだけ俺の方へ動いた。
「反応しましたわ!」
レイナが嬉しそうに言う。
「声に反応しただけだろ」
リゼは冷静だった。
「名前を理解したとは限らない」
「でも、非常食一号と呼んだときより反応がいい気がする」
俺が言うと、ヴィオラが囲いの前へしゃがんだ。
「非常食一号」
縁の耳が反対側へ向く。
「縁」
今度はヴィオラを見る。
「ほら」
「声の調子を変えただろ」
「ばれた?」
「検証で条件を変えるな」
昨日の選手権を仕切った奴とは思えない雑さだった。
「まだ数日見なければ分からぬ」
千代は餌と水の記録に、新しく名前への反応という項目を増やしている。
正式に飼うと決めたわけではない。
それでも名前が付いただけで、記録の対象から家にいる一匹へ近づいた気がした。
◇
最初に変だと思ったのは、その日の昼だった。
縁が、共用部屋の壁を見ていた。
ただ見るだけなら珍しくない。
小さな物音でもしたのかもしれないし、俺たちには見えない虫でもいたのかもしれない。
だが縁は座ったまま、同じ場所から動かなかった。
大きな耳が前へ向く。
背中の毛が、少しだけ逆立っている。
「何かいる?」
俺も壁を見る。
灰色の壁。
隙間はない。
汚れも、動く影もない。
耳を近づけても、音は聞こえなかった。
「夜斗様、あまり顔を近づけては危ないのでは」
ファステが後ろから声をかける。
「壁だぞ?」
「壁の中に何かいるかもしれないのでしょう?」
「何もいないと思う」
「でしたら、なぜ調べているのですか?」
確かに。
「縁が見てるから」
俺が答えると、ファステも壁を見た。
二人で何もない場所を眺める。
縁は俺たちを気にせず、さらに数秒見つめ続けた。
やがて何事もなかったように身体を丸める。
「……何だったんだ?」
「動物には、私たちに聞こえない音が聞こえることもあるのではないでしょうか」
「日本の動物なら、たぶん」
「ニホン?」
「俺がいたところ」
この世界の生き物へ、日本の常識が通じる保証はない。
そもそも縁が何なのかも分かっていない。
◇
午後、今度は庭だった。
レイナが縁へ手を差し出している。
ここ数日、毎日繰り返していることだ。
縁はまだ触らせない。
だが、以前より近くまで寄るようになった。
「あと少しですわ」
レイナは息を潜める。
縁の鼻先が、指へ近づく。
触れるかと思った瞬間。
縁が勢いよく顔を上げた。
レイナではなく、その後ろを見る。
家と庭の境目。
何もない空間だ。
耳がぴんと立つ。
長い尾が膨らみ、身体を低くする。
「どうしましたの?」
レイナが振り返った。
俺も同じ場所を見る。
一瞬だけ、空気が揺れたように見えた。
熱い日の地面の上にできる、景色の歪みに近い。
だが《淫獄》の中に日差しの熱気はない。
「今、何か見えた?」
「何か、とは?」
「空間が少し揺れたような」
レイナは首を横へ振った。
縁はまだ境目を見ている。
俺は《淫獄》の表示を開いた。
『固有スキル:《淫獄の王》Lv.2』
『居住形態:小さな家+小さな庭』
新しい表示はない。
機能が解放された様子も、レベルが上がった様子もなかった。
「何か起きましたの?」
「分からない。表示は変わってない」
しばらくすると、縁の尾が元へ戻った。
だがレイナの手へ近づくことはなく、寝床へ戻ってしまった。
「せっかく、もう少しでしたのに」
残念そうにする部分はそこらしい。
◇
リゼへ話すと、すぐ現場を確認した。
家と庭の境目。
共用部屋の壁。
床や周辺の隙間。
「何もないな」
「だから動物の勘じゃない?」
ヴィオラがコインを転がしながら言う。
「縁だけに聞こえる音があるとか」
「あり得る。だが、決めつけるのは早い」
リゼは縁を見る。
「具合が悪くて落ち着かない可能性もある。周りの危険に反応したとも限らない」
「食事は残しておりません」
ファステが報告する。
「水も飲んでおる。排泄にも大きな変化はない」
千代が小石の記録を確認した。
「なら、次に同じことが起きた時刻と場所を残す」
「次も起きる方に一枚」
ヴィオラがコインを上げる。
「賭けるな」
リゼと俺の声が重なった。
「冗談だよ」
「お前が言うと冗談に聞こえない」
結論は出なかった。
動物なら普通にすることなのかもしれない。
見慣れない場所で、ただ警戒しているだけかもしれない。
俺たちの方が、名前を付けた途端に縁の行動を気にしすぎている可能性もある。
◇
その夜。
六人で共用部屋へ集まり、明日の採取について話していた。
縁は庭の囲いにいる。
静かな時間だった。
「次は、あの根と同じ物をもう少し探したいです」
ファステが言う。
「食用と決まったわけではありませんが、変色の仕方を見るには数が必要です」
「花も残していただきたいですわ」
「食料候補より優先はせぬぞ」
「分かっています」
レイナと千代が、いつものやり取りをする。
そのとき、庭から枝の鳴る音がした。
縁が囲いの中を走っている。
一方へ行き、戻る。
寝床へ入らず、何もない壁を見上げる。
「どうした?」
リゼが最初に立った。
俺たちも庭へ出る。
縁は囲いの端へ身体を押しつけ、大きな耳を伏せていた。
逃げようとしているというより、何かから離れようとしている。
「縁」
ファステが呼ぶ。
反応しない。
毛が逆立っている。
次の瞬間。
庭の灰色の壁が、水面のようにわずかに波打った。
「今のは見た」
リゼが低く言う。
「わたくしもです」
レイナが俺の近くへ寄る。
ヴィオラは笑っていない。
千代は壁と縁を交互に見る。
ファステが囲いの出入口を開くより早く、縁が隙間から飛び出した。
「あっ」
こちらへ走る。
俺の足元で止まり、迷った末に脚の後ろへ隠れた。
「何で俺?」
「今は気にしてる場合か」
リゼが壁の前へ立つ。
武器へ手を添えるが、相手は何もない空間だ。
そして、表示が現れた。
『生活環境を微細調整しました』
それだけだった。
◇
「どこを?」
俺は周囲を見る。
家の形は変わっていない。
庭も広くなっていない。
囲いも、試験栽培区も、物置もそのまま。
「変化した場所が分かる者は?」
千代が尋ねる。
誰も手を上げない。
「表示が出る前に、縁は反応しておった」
「二回目だね」
ヴィオラが言う。
「昼の揺れも同じものだったなら、だけど」
「偶然とは決めつけない方がいい」
リゼは壁から離れずに答えた。
「次も同じなら、そのとき考える」
俺の脚の後ろでは、縁がまだ身体を低くしている。
ファステがゆっくりしゃがんだ。
「もう大丈夫ですよ」
手は伸ばさない。
逃げ道を塞がない位置で、静かに声だけをかける。
レイナも反対側へ膝をつき、縁の様子を見る。
千代は起きた時刻と場所を記録するため、小石を持ってきた。
ヴィオラはコインをしまい、真面目な顔で壁面の揺れ方を思い返している。
リゼは全員の前に立ち、何もない壁を警戒していた。
俺の周囲へ、五人が集まっている。
寝間着代わりの軽い服装でしゃがむファステとレイナ。
武器へ手をかけ、夜の庭を警戒するリゼ。
髪を下ろしたまま記録を取る千代。
いつもの笑みを消し、俺と同じものを観察するヴィオラ。
その中心で、縁が俺の脚へわずかに身体を触れさせた。
異常事態のはずなのに。
五人の普段と違う姿と、それぞれが役割を選んで俺の近くへ集まる関係性を強く意識してしまった。
『《淫獄石》を135個獲得しました』
『所持《淫獄石》:1,280』
「今なの?」
ヴィオラが呆れたように言う。
「俺だって好きで増やしてるわけじゃない」
「性癖クリティカルではないようじゃな」
千代まで俗称を使い始めていた。
「その言葉、もう定着したの?」
◇
しばらくして、縁は落ち着いた。
ファステが用意した布の上へ座り、毛づくろいを始める。
壁はもう揺れていない。
表示にも追加情報はなかった。
結局、何が調整されたのか分からない。
縁が何へ反応したのかも分からない。
「動物は、人間より先に地面の揺れへ気づくことがある」
俺は日本で聞いた知識を思い出した。
「なら、《淫獄》の変化にも先に気づいただけかもしれない」
「それなら、次も同じ反応をするはずだ」
リゼが言う。
「観察を続けるしかないね」
ヴィオラは賭けを持ち出さなかった。
千代も記録用の小石を残す。
その日は、それ以上何も起きなかった。
◇
眠る前、俺は共用部屋から庭を見た。
縁は試験飼育区画へ戻っている。
寝床で丸くなったと思った直後、また顔を上げた。
見る先は、昼と同じ壁。
耳がゆっくり動く。
毛は逆立っていない。
怯えているようにも見えない。
ただ、俺には何も感じられない場所を、縁だけが見つめている。
「こいつ、何か変じゃない?」
問いに答える者はいなかった。
縁もこちらを見ず、何もない《淫獄》の壁を見つめ続けていた。




