第31話 少しずつ、慣れてきた
非常食一号は、水を飲む。
これは分かった。
問題は、何を食べるかだった。
「まず、私たちが食べて問題のなかった物から試しましょう」
ファステが、小さくちぎった食料を浅い器へ置く。
「一度に何種類も与えてはならぬ」
千代は器の横へ小石を一つ並べた。
「何を食べて、後からどうなったか分からなくなるからの」
「一個食べさせるたびに一日待つの?」
ヴィオラが尋ねる。
「少なくとも、すぐ次を与えるよりはよかろう」
「ずいぶん慎重だね」
「腹を壊してからでは遅い」
千代の正論に、誰も反論しなかった。
俺たちは試験飼育区画から少し離れた。
六人で囲めば、非常食一号は布の奥から出てこない。
待つこと、しばらく。
大きな耳が動いた。
灰色がかった鼻先が布から現れ、器の方へ向く。
一歩。
止まる。
また一歩。
「来ましたわ」
レイナが小声で言った。
「声を出すな」
リゼも小声だった。
「リゼも出してるけど」
「お前は黙ってろ」
俺だけ扱いが厳しい。
非常食一号は器の匂いを嗅ぎ、食料を一度だけ舐めた。
顔を上げる。
こちらを見る。
そして何事もなかったように、食料をくわえて布の中へ戻った。
「食べました!」
ファステの表情が明るくなる。
「まだ飲み込んだとは限らん」
千代は冷静だ。
「口から出す可能性もある。体調も見ねばならぬ」
「お前、動物を飼ったことあるのか?」
リゼが聞く。
「ない」
「ないのかよ」
「分からぬ物を分かったつもりで扱わぬだけじゃ」
それは俺たち全員に必要な態度だった。
◇
二日目。
非常食一号は、昨日と同じ食料を少量だけ食べた。
体調が悪くなった様子はない。
だからといって、それだけを与え続けていいかは分からない。
好物なのか。
空腹だから仕方なく食べただけなのか。
必要な栄養が足りるのか。
そもそも、この世界の小動物へ栄養という日本の常識をどこまで当てはめていいのか。
不明点は増える一方だった。
「こちらの隅ですね」
ファステが囲いの端を示した。
排泄物が、昨日と同じ場所に残っている。
「寝床から一番遠いところですわ」
レイナが少し感心したように言う。
「偶然かもしれぬ。数日は見る」
千代が小石を一つ動かした。
餌。
水。
排泄。
囲いの外には、項目ごとに小石が並び始めている。
「掃除しやすいよう、下へ敷く物を変えましょうか」
ファステはすでに作業へ入ろうとしていた。
「今日は俺の担当」
「ですが――」
「当番を決めただろ」
昨日、全員で決めた。
餌と水は朝夕に確認する。
汚れを見つけたら知らせる。
掃除は日ごとに交代する。
毎日必要な仕事を、ファステ一人へ積まないためだ。
「夜斗様に、そのようなことをさせるわけには」
「王の仕事に排泄物の掃除が含まれないと、誰が決めた?」
「含まれる方が珍しかろう」
千代の指摘は無視した。
俺が小さな道具を持って囲いへ入ると、非常食一号はすぐ寝床へ逃げ込んだ。
大きな耳だけが布から出ている。
「やっぱり俺だけ嫌われてない?」
「身体の大きな者が縄張りへ入れば警戒するだろ」
リゼが言う。
「リゼが入っても逃げる?」
「試すか?」
「俺の担当を奪わないでくれる?」
地味な掃除へ、妙な対抗心が湧いてきた。
◇
掃除を終えて囲いから出る。
しばらくすると、非常食一号が布の奥から顔を出した。
俺たちがいなくなった隙に逃げようとしたこともある。
囲いの隙間へ鼻先を押し込み、前脚で枝を引っかいた。
だが、外で何かが倒れて音を立てると、すぐ布の寝床へ戻る。
「逃げたいのか、ここにいたいのか、どちらですの?」
レイナが首を傾げる。
「外へ出たいのと、安全な場所が欲しいのは両立するだろ」
俺が答えると、千代がわずかにこちらを見た。
「何?」
「いや。そなたが言うと、妙に実感があると思うてな」
俺だって外へ出られる。
ただ、出たくないだけだ。
非常食一号と同類扱いされるのは不本意だが、反論は難しかった。
「慣れたから寝床へ戻る、というだけかもしれん」
リゼは囲いの留め具を確認する。
「慣れたことと、安全だと分かったことは違う。噛むかもしれないし、急に暴れるかもしれない」
「リゼは慎重ですのね」
「生き物は、慣れた頃が一番油断する」
その言葉には、動物だけではない何かが含まれている気がした。
だが、リゼはそれ以上話さなかった。
◇
三日目になると、六人への反応に違いが出始めた。
ファステが水の器を置くと、非常食一号は布の外へ出たまま待つ。
まだ足元へ寄るほどではない。
それでも、手が囲いへ入っただけで寝床へ逃げることは減った。
「私が食事を持ってくると覚えたのでしょうか」
ファステは嬉しそうだった。
「餌をくれる人間だとは覚えたかもな」
「それだけでも十分です」
レイナは囲いの外から、掌を上へ向けて差し出した。
「触りませんから。こちらへ来てもよろしいのよ」
非常食一号は動かなかった。
大きな目で手を見つめる。
一歩だけ近づき、匂いを嗅ぐ。
レイナの指先がわずかに動いた瞬間、すぐ二歩下がった。
「惜しかったですわ」
「触らないと言った直後に指を動かすからだ」
「無意識です」
「相手には関係ない」
リゼは厳しい。
だがレイナは落ち込まず、もう一度同じ姿勢で待った。
◇
ヴィオラは、囲いの前へ座ってコインを転がした。
右へ。
左へ。
指の間で消し、反対の手から出す。
非常食一号の目が、銀色の動きを追っている。
「食べさせるなよ」
「そんなことしないよ」
「飲み込んだら大変です」
ファステも心配そうに見守る。
「囲いの中へは入れない。見せるだけ」
ヴィオラはコインを指の上へ立てた。
「降りたければ降りられる遊びじゃないとね」
遊んでいるのがヴィオラなのか、非常食一号なのかは分からない。
コインが止まると、小動物はしばらくその指を見つめ、それから興味を失ったように毛づくろいを始めた。
「飽きられたね」
「退き際を分かってる。見込みがあるよ」
「賭け師に育てるな」
◇
千代は、相変わらずかわいがるより管理を優先していた。
「餌は今の量より増やさぬ。水は朝夕に替える。布は汚れた場合のみ洗う」
「撫でないの?」
俺が聞く。
「必要がない」
「かわいいとは思う?」
「管理対象としては、手がかからぬ方じゃ」
答えになっていない。
その日の夕方、千代が囲いの前で一人、小動物の寝床が風を受けない位置にあるか確かめているのを俺は見た。
指摘はしなかった。
本人が必要な管理だと言うなら、そういうことにしておこう。
◇
リゼは毎朝、囲いの強度を確認した。
枝が緩んでいないか。
縄が噛み切られていないか。
地面を掘った跡がないか。
「そこまで毎日見る必要ある?」
「昨日大丈夫だったから、今日も大丈夫とは限らない」
ファステと同じことを言われた。
「この家で俺への信用だけ育ってなくない?」
「信用してるから役割を渡してるんだろ」
リゼは囲いを揺らしながら答えた。
「確認しなくていい理由にはならない」
少しだけ嬉しくなったのを、顔には出さないようにした。
たぶん出ていた。
離れた場所で、ヴィオラが笑っていたから。
◇
俺への反応は、よく分からなかった。
近づけば警戒する。
手を伸ばせば距離を取る。
餌を持っていなければ、自分から寄ってくることもない。
つまり、懐かれてはいない。
だが庭の端で容器の形を考えていると、非常食一号は寝床へ戻らず、囲いの中で丸くなった。
触れられない距離。
俺が急に立てば、すぐ逃げられる位置。
それでも目を閉じ、長い尾を身体へ巻きつける。
「警戒されながら眠られてる」
俺が小声で言うと、隣へ来たファステが微笑んだ。
「少し安心しているのではないでしょうか」
「どっち?」
「どちらも、だと思います」
ファステには餌を持ってくる者として寄る。
レイナには触らせるか迷う。
ヴィオラのコインを目で追う。
千代は餌と水の量を管理する。
リゼは、慣れても警戒を忘れない。
そして俺の近くでは、逃げられる距離を残して眠る。
五人が囲いの周りへ集まる。
誰も同じ接し方をしていない。
袖をまくって器を替えるファステ。
膝をつき、手を差し出したまま待つレイナ。
しゃがんだ姿勢で留め具を確かめるリゼ。
餌の残量を数える千代。
指先でコインを遊ばせるヴィオラ。
それぞれの距離が違うまま、一匹を中心に同じ時間を過ごしている。
生活感と役割と関係性が重なった光景。
こういうものに弱いと、自分でもだんだん分かってきた。
『《淫獄石》を80個獲得しました』
『所持《淫獄石》:580』
「増えたね」
ヴィオラが言う。
「お前、本当に毎回気づくな」
「あんたも毎回、分かりやすいから」
「非常食一号を見て増えたわけじゃないぞ」
「誰もそんな心配してないよ」
全員の視線が少し冷たくなった。
余計な弁明だったらしい。
◇
「慣れてきただけで、飼うと決まったわけじゃないからな」
その日の終わり、俺は改めて言った。
「分かっております」
ファステが答える。
「まだ何を食べるかも、どれだけ育つかも分かりませんもの」
レイナも頷く。
「外へ戻すなら、元の場所と周辺をもう一度調べる必要がある」
リゼは現実的だ。
「飼う場合も、食料と水に余裕があるか確認せねばならぬ」
千代も結論を急がない。
「だから今は、非常食一号だね」
ヴィオラだけは仮称を定着させようとしていた。
囲いの中では、非常食一号が布の上で身体を丸めている。
俺が少し動くと、大きな耳がこちらを向いた。
それでも起き上がらない。
触れれば逃げるだろう。
囲いを開けば、外へ出ようとするかもしれない。
懐いたとは言えない。
ただ、数日前より少しだけ、この場所の音や匂いを知っている。
俺たちも、こいつがいる生活に少しずつ慣れてきた。
誰も「いつ外へ戻すか」とは言わなかった。




