第22話 ここで暮らすなら
『所持《淫獄石》:720』
『所持上限:1,000』
『次回必要《淫獄石》:1,000』
あと二百八十個。
ずいぶん近くなった。
百個をどうやって集めるんだと悩んでいた頃を思えば、もう手を伸ばせば届きそうな距離だ。
実際に手を伸ばして届くものではないが。
「あと二百八十なら、普通に暮らしててもそのうち届くだろ」
俺は表示を閉じた。
昨日考えたように、誰と誰を隣へ座らせるか、誰の前で何を話すかまで決めれば、効率よく《淫獄石》を増やせる可能性はある。
だが、それはやらない。
少なくとも今は。
検証のためという理由で女性同士の感情を動かそうとするのは、合理的というより普通に最低な気がする。
ガチャは急がない。
必要数へ到達したら、そのとき考えればいい。
俺は極めて冷静だった。
残り二百八十という数字を朝一番で確認したことについては、考えないものとする。
◇
改めて《淫獄》を見回す。
灰色の床。
灰色の壁。
五人分の簡素な寝床。
床から少し区切っただけの小さな私物置き。
乾燥した食材と小物を分ける仮の容器。
消費と補充を示すために並べた小石。
最初に来たときと比べれば、物は増えた。
生活の形もできている。
それでも、客観的に見れば家というより、誰かが倉庫の中で無理やり暮らし始めた状態に近い。
「帰る場所って言ったけど、見た目だけならまだ倉庫以下だな」
「倉庫には、もう少し立派な棚がありますわ」
レイナが容赦なく訂正した。
「比較対象の倉庫が上流階級なんだよ」
「普通の倉庫でも、物を床へ直置きはせぬぞ」
千代まで加わる。
「じゃあ洞窟以上、倉庫未満」
「ずいぶん狭い範囲で誇ったな」
装備を確かめていたリゼが呆れる。
「最初は本当に何もなかったんだから、進歩はしてる」
「はい。皆様の寝床も、物を置く場所もできました」
ファステだけは素直に頷いてくれた。
優しい。
ただ、優しさで棚は生えてこない。
◇
「もし、ここがもう少しまともな家になったら、何が欲しい?」
何となく尋ねると、四人の動きが止まった。
「家?」
千代が聞き返す。
「今すぐ作れるかは別。欲しい物の話」
具体的な建築計画ではない。
そもそも木材をまともに加工する道具もなければ、水を長く保管する容器さえ完成していない。
だから、これはただの雑談だ。
できるかどうかを考えず、あったらいいものを挙げるだけ。
「ファステは?」
「私ですか?」
「前にも聞いたけど、今なら何か増えてるかもしれない」
ファステは少し考えたあと、いつもの答えを口にしかけた。
「皆様がお困りにならないよう、まずは――」
「皆に必要な物じゃなくて、ファステ自身が欲しいもの」
彼女の言葉を遮る。
ファステは困ったように眉を下げた。
自分の希望を聞かれることには、まだ慣れていない。
それでも以前と違い、答えを諦めはしなかった。
「でしたら……紅茶を、きちんと淹れられる場所が欲しいです」
「きちんと?」
「湯を沸かす場所があり、茶葉を湿気から守れる容器があり、できればカップと、小さな机も」
話すうちに、ファステの声が少し弾む。
「豪華なものでなくて構いません。皆様へお出しできる場所があれば、それで」
「また皆のためになってる」
「私が淹れたいのです」
今度の答えは早かった。
命令されたからでも、ここへ置いてもらうためでもない。
自分がやりたいから。
ファステは少しだけ俺を見て、続けた。
「最初の一杯のお約束もございますから」
「覚えてる。茶葉とまともなカップも必要だな」
「はい」
彼女は嬉しそうに笑った。
◇
「リゼは?」
「寝られて食えれば十分だ」
「回答が生存基準から一歩も進んでない」
「困ってないなら、それでいいだろ」
リゼは手元の防具を持ち上げた。
以前直した留め具はまだ使えているが、全体には細かな傷が増えている。
「それ、いつも寝床の近くで直してるよな」
「他に場所がないからな」
「じゃあ、装備を手入れする場所は?」
リゼが黙った。
「武器を安全に置けて、防具を乾かせて、補修用の素材をまとめられる場所」
「……あれば使う」
「欲しい?」
「専用じゃなくてもいい」
「欲しいかどうかを聞いてる」
さっきのファステと同じようなやり取りになった。
リゼは面倒そうに頭をかく。
「欲しい。これで満足か?」
「かなり」
「何でお前が嬉しそうなんだよ」
「拠点に整備区画ができる可能性が生まれたから」
「結局、拠点作りの話になると食いつくんだな」
そこは否定しない。
◇
「レイナは?」
「小さな棚が欲しいですわ」
レイナはほとんど迷わなかった。
「現在の置き場所も悪くはありませんけれど、選んだ物を並べるには少々狭すぎます」
彼女の私物置きには、俺が選んだ柔らかな色の繊維が収められている。
髪飾りとして使っていないときも、雑に置かれることはない。
「棚に何を置く?」
「衣服や髪飾り。本や紙が手に入れば、それも。鏡も欲しいですわね」
「結構あるな」
「欲しい物の話をしろとおっしゃったのは夜斗さんです」
「正しい」
「豪華である必要はありません。私が自分で選んだ物を、自分で置く場所が欲しいのです」
以前のレイナは、豪華な物に囲まれていた。
だが、その多くは自分で選んだものではなかった。
今欲しがっているのは、豪華な部屋ではない。
自分で選んだ物によって、自分の場所を作るための棚だ。
「じゃあ、棚ができたら置く物を増やさないとな」
「その際は、また選んでいただいてもよろしくてよ」
「自分で選ぶんじゃないの?」
「あなたに選んでもらうかどうかは、私が選びます」
理屈は通っている。
少しだけ、胸に刺さる言い方だった。
◇
「千代は、やっぱり備蓄?」
「当然じゃ」
千代は床の小石を示した。
「食料、水、火を起こす物、道具、緊急時の物資。今は置き場が近すぎる。一か所が使えなくなれば、すべてを失う」
「分散して保管できる場所か」
「ただ分ければよいのではない。何がどこにあり、どれだけ使えるか把握できねば意味がない」
「千代らしいな」
「何がじゃ」
「家の話をしても、最初に出てくるのが備蓄なのが」
「備えのない城は、敵が来る前に内から滅びる」
「城じゃなくて家の話だけど」
「暮らす者が増えれば、必要な考えは同じじゃ」
自然に出た言葉だった。
暮らす者が増えれば。
千代は、その中へ自分を含めているのだろうか。
「千代自身が欲しいものは?」
「今、申したであろう」
「備蓄場所は全員のためでもある。千代個人の希望」
千代は答えに詰まった。
ファステとは違う。
自分の願いを押し殺しているというより、自分のためだけに欲しいものを考える習慣がないように見えた。
「……私自身の望みは、まだ考えたことがない」
「じゃあ、思いついたら教えて」
「なぜ、そなたへ申す必要がある」
「家を作るなら、住む人の希望を知りたいから」
千代は何か言い返そうとした。
だが結局、腕を組んで顔をそらす。
「覚えておればな」
完全な拒否ではなかった。
◇
「それで、夜斗様は何が欲しいのですか?」
ファステに聞かれ、俺は止まった。
「俺?」
「そなたが始めた話であろう」
確かにそうだ。
欲しいもの。
まず風呂。
柔らかいベッド。
電気。
冷蔵庫。
ゲーム機とネット環境。
可能なら防音された自室と、際限なく遊べる娯楽。
考え始めると、現代日本がどれだけ引きこもりへ優しい環境だったのか分かる。
「外へ出なくても困らない家」
俺が答えると、リゼがため息をついた。
「結局それか」
「引きこもる気しかないではないか」
千代も呆れる。
「随分と夜斗さんらしいですわね」
レイナは笑い、ファステも口元へ手を添えた。
「重要だぞ。食料も水も中で確保できて、安全で、寝床があって、退屈もしない。完成された拠点だ」
「完成したら、本当に出なくなりそうだな」
「必要がなければ出ない」
「言い切ったぞ、こいつ」
だが、そこで気づいた。
俺が想像した家には、最初から四人がいた。
◇
ファステが湯を沸かしている。
茶葉を容器から取り出し、カップへ紅茶を注ぐ。
最初の一杯を俺と一緒に飲んだあと、皆の分も小さな机へ並べる。
リゼは外から戻り、装備を外している。
戦うときの鋭さを緩め、無防備な姿で腰を下ろし、壁際の整備場所で武器と防具を確かめる。
レイナは棚の前に立ち、自分で集めた物を並べる。
俺が選んだ髪飾りも、その中にある。鏡を見ながら次に何を身につけるか選び、ときどき俺へ意見を求める。
千代は備蓄場所を行き来し、今日使った量と残りを確認する。
女城主の威厳を保ったまま、食料の置き方へ細かく文句を言い、皆の明日の分まで気にしている。
その外には、小さな庭がある。
何を育てられるかは分からない。
それでも、外へ命懸けで採りに行かなくても、少しくらい食べ物が手に入る。
俺は家の中心で、その光景を眺めている。
「……俺、本当に何もしてないな」
「今さら気づいたか」
想像へ千代の声が割り込んだ。
「いや、全体確認という重要な仕事をしてる」
「座って眺めておるだけであろう」
「何もしなくても回る拠点を作るのが最終目標だから」
「言い訳だけは次々と出るな」
言い訳ではない。
たぶん。
しかし、以前とは違う。
最初に《淫獄》へ入ったとき、ここは俺一人が誰にも邪魔されず閉じこもるための場所だった。
今想像したのは、俺一人の家ではない。
「……俺一人の家じゃなくなってるな」
「何かおっしゃいましたか?」
「いや。五人分作るなら大変そうだと思って」
ファステにはそう答えた。
◇
紅茶を淹れるファステ。
家では装備を外し、俺へ背中を預けるリゼ。
自分で選んだ物を並べ、俺にも選ばせるレイナ。
女城主のまま生活へ降り、備蓄を管理する千代。
四人とも成人女性で、それぞれ違う魅力と、自分の世界で生きてきた背景がある。
その四人全員と、俺が同じ家で暮らしている。
同じ場所へ帰り、同じ机を囲み、それぞれの場所を持つ。
家が欲しいという願いだけなら、《淫獄石》は生まれない。
安全になりたい、楽に暮らしたい、外へ出たくない。
それらは性的欲望ではないからだ。
だが、その家の中にいる四人を具体的に想像した瞬間、話が変わった。
ファステとの近しい約束。
リゼの強さと無防備さの落差。
レイナが俺の選択を自分から求める関係。
千代の威厳と家庭的な生活感。
さらに四人が互いの距離を意識しながら、全員で俺と暮らしている状況。
個別の属性と関係性が、一つの家という舞台へ全部並ぶ。
「……これ、かなりまずいやつだ」
「何がですの?」
レイナが尋ねた。
「俺の想像力」
答えた瞬間、身体の奥から何かを根こそぎ持っていかれるような感覚が走った。
これまでとは勢いが違う。
目の前に開いた表示が、一度強く明滅する。
『《淫獄石》を獲得しました』
『所持上限へ到達しました』
『所持《淫獄石》:1,000』
『上限を超過した《淫獄石》は保持されません』
「……今、何個出た?」
表示は答えない。
必要だったのは二百八十個。
最低でも、それ以上は生成された。
だが、本来何個だったのかは分からない。
分からないまま、上限を超えた分は消えた。
「待て。もしかして、かなり溢れた?」
「先ほどから何を一人で慌てておる」
「見えない資源が大量に消えたかもしれない」
「元から見えておらぬではないか」
「表示は見えるんだよ。そういう問題じゃない」
千個へ到達した。
本来なら喜ぶところだ。
なのに最初に出てきた感情は、もったいない、だった。
◇
表示が切り替わる。
『所持《淫獄石》:1,000』
『所持上限:1,000』
『次回必要《淫獄石》:1,000』
『《住民召喚》を実行できます』
回せる。
四回目の通常《住民召喚》。必要な千個は揃っている。
新しい住民が来れば、生活に新しい役割が増えるかもしれない。
今話していた家へ近づく可能性だってある。
だが、今日は未来の話をしただけだ。
その勢いで人を一人増やすのは、さすがに軽すぎる。
「……明日でいいだろ」
俺は表示を閉じた。
ファステたちは、まだ存在しない家について話を続けている。
紅茶を淹れる場所は火からどれくらい離すか。
装備の整備場所は入口に近い方がいいか。
棚を作るなら何を材料にするか。
備蓄は何か所へ分けるべきか。
実現できるかも分からない話なのに、全員が少し楽しそうだった。
俺も、その家をもっと想像したくなる。
そこで、ふと気づいた。
今の所持数は千。
上限も千。
このまま誰かを見て、また俺の性的欲望が動いたらどうなる?
答えは、さっき表示されたばかりだ。
上限を超えた《淫獄石》は保持されない。
つまり、使わない限り、次に増えた分は全部消える。
「待て」
思わず声が出た。
「今度は何だ?」
リゼが聞く。
「これ、使わない限り次に出た分全部捨てることになる?」
「何の話か分からないが、さっき明日でいいと言ってなかったか」
「言った。言ったけど、状況が変わった」
ガチャを回したいわけではない。
ここは重要だ。
俺はガチャを回したくて理由を探しているのではない。
資源を無駄にしないため、合理的な使い道を考えているだけだ。
俺はガチャを回したいわけじゃない。
ただ、使わなければ次に増えた分が無駄になる。
――それなら、使った方が合理的じゃないか?




