第21話 帰る場所があるから
『所持《淫獄石》:450』
『所持上限:1,000』
『次回必要《淫獄石》:1,000』
あと五百五十個。
「半分近い……」
正確には、まだ半分にも届いていない。
だが、昨日まで三百個だったものが、一度に百五十個も増えたのだ。
理由は、おそらくファステたちとの関係が同時に見えたこと。
なら、似た状況を意図的に作れば、もっと効率よく増やせるかもしれない。
例えば座る位置を指定して、誰かとの約束を別の誰かの前で話して――。
「やめよう」
自分で考え始めておいて、自分で止めた。
検証は好きだ。
効率化も好きだ。
だが、人間関係を素材配置みたいに扱い始めたら、たぶん越えてはいけない線を越える。
俺にはまだ理性がある。
少なくとも、そういうことにしておきたい。
「夜斗様、少しよろしいでしょうか」
ファステに呼ばれ、俺は表示を閉じた。
◇
床には、小石と素材片が並べられていた。
少し前に始めた簡易的な物資管理だ。
食料、水、火起こし用品、容器、道具。
使った分だけ小石を動かし、補充すれば戻す。帳簿と呼べるほど正確ではないが、感覚だけで管理するよりは分かりやすい。
そして、分かりやすくなったせいで、分かりたくなかった現実も見えた。
「予備、増えてないな」
「はい」
ファステが申し訳なさそうに答える。
「今日明日に困るわけではありません。ただ、このままでは余裕が増えません」
「採った分を食えば、備えにはならぬ」
千代が食料を示す小石を動かした。
五人で採りに行く必要はない。
だが、五人で食べる以上、以前と同じ採取量では予備が残らない。
保存設備がないせいで、長く置けない物も多い。
現地で手に入るのは、以前から安全を確認している固い実や食べられる根など、原始的な食べ物ばかりだ。それでも、今は立派な生命線である。
「つまり、外へ出るしかない」
「嫌そうだな」
リゼが言う。
「嫌だから」
「即答か」
「危険が好きな一般大学生はいない」
「一般大学生が何かは知らないが、お前が弱いのは知ってる」
「そこは否定してくれてもいいんだぞ」
「事実を曲げると判断を誤る」
正論が痛い。
「ならば、今日は私も出よう」
千代が立ち上がった。
「千代も?」
「報告だけでは、土地の癖までは分からぬ。備えを考えるなら、実際に見る必要がある」
リゼは少し考え、千代の装備と足元を見た。
「知っている範囲だけだ。勝手に前へ出るな」
「誰に申しておる」
「お前」
「私は一城を預かった身ぞ」
「ここでは初めて外に出る新人だ」
二人の視線がぶつかる。
数秒後、千代が小さく息を吐いた。
「……承知した」
言えるんだ、承知したって。
◇
外へ出るのは、俺とリゼと千代。
ファステとレイナには《淫獄》へ残ってもらう。
「お気をつけて」
ファステが俺の服元を確かめる。
何かを直す必要はなかったらしい。それでも彼女の指先は、ほんの一瞬、胸元へ触れてから離れた。
「危険だと思ったら、すぐにお戻りくださいませ」
「そこは任せて。俺の一番得意なやつだから」
「逃げることが、ですの?」
レイナが聞く。
「戦略的撤退」
「呼び方を変えても、逃げることに違いはありませんわね」
「生還率が上がるなら呼び方は重要なんだよ」
リゼが先に外へ出る。
安全を確認した合図を受け、俺と千代も続いた。
《淫獄》の灰色の床から、草と土のある外界へ。
空気が変わっただけで、肩に力が入る。
外は今日も、俺へ優しくなる予定がないらしい。
◇
リゼが先頭。
千代が中央。
俺が最後尾。
もちろん、背後まで自分で警戒できるから最後を任されたわけではない。危険が来たとき、前の二人を押しのけず《淫獄》へ逃げやすい位置というだけだ。
「足場が悪いな」
千代が低く言った。
「根が出てる場所は特に気をつけろ。右側は土が緩い」
リゼが振り返らず答える。
千代は周囲を見ながら歩いた。
水場までの距離。
木々に遮られる視界。
採取場所から《淫獄》の入口へ戻る経路。
入口付近へ他人を近づけないため、どこまで先を確認すべきか。
「聞くのと見るのとでは違うものじゃな」
「だから俺は外に出たくない」
「なぜ最後はそこへ戻る」
「現場を見た感想」
「見ぬままでは決められぬこともあろう」
「だから嫌でも来てる」
口にしてから、以前ならそこで終わっていたと思う。
嫌だから出ない。
危険だから隠れる。
それで済むなら、今でもそうしたい。
だが、今は俺一人の空腹だけを我慢すればいいわけではなかった。
◇
いつもの採取地点で、固い実と食べられる根を集める。
量は多くない。
同じ場所から採りすぎないよう、使える物だけを選ぶ。
「ここだけに頼るのは危うい」
千代が言った。
「採れなくなったら終わるから?」
「それもある。何者かに先を越されることも、獣の縄張りが変わることもあろう。同じ物が別の場所にもあるなら、今のうちに知っておくべきじゃ」
「どこまで探す?」
俺はリゼを見る。
「東側の斜面手前までだ。それ以上は今日は行かない」
「じゃあ、そこを限界にする」
リゼの判断を確認し、俺が方針を決める。
千代は何も言わなかったが、反対もしなかった。
少し方向を変えて探すと、低い木々の陰に、見覚えのある実がまとまって生っていた。
根の方も、少し離れた湿った地面に生えている。
「同じ物で間違いない?」
俺は念のため尋ねた。
リゼが形と匂いを確かめる。
「同じだ。ただし、ここも量は多くない」
「十分じゃ。二つに分かれておれば、一方が使えぬときにも残る」
第二採取地点、確保。
言葉にすると立派だが、実態は数日分の食料を少し増やせる場所だ。
食料問題が解決したわけではない。
それでも、昨日よりはましになった。
◇
「止まれ」
帰路へ入ろうとしたとき、リゼが低く命じた。
俺と千代が同時に足を止める。
リゼは地面へしゃがみ、折れた枝へ触れた。
「獣か?」
「違う。切ってる」
断面は荒いが、自然に折れた形ではない。
少し先には、土の上へ浅い足跡が残っていた。
一人分ではない。
さらに進んだ場所には、黒くなった土と灰がある。焚き火を消した跡らしかった。
以前見つけた紙片より、ずっと新しい。
「大学の連中か?」
「まだ決めつけるな」
リゼがすぐに返す。
「分かってる。可能性があるだけ」
以前なら、期待か不安のどちらかで先走っていたかもしれない。
だが、この世界で人間らしい痕跡があることと、それが安全であることは別だ。
同じ大学の学生だったとしても、今どんな状態なのか分からない。
そもそも、別の誰かかもしれない。
「跡は新しいのか?」
千代が尋ねる。
「古くはない。追うなら、まだ辿れる」
リゼの答えを聞き、千代が俺を見た。
「王としてはどうする」
「その聞き方、毎回プレッシャーなんだけど」
「決めるのはそなたであろう」
否定できない。
俺はリゼへ聞いた。
「危険度は?」
「追うだけなら行ける。ただし、誰がいるかまでは分からない」
「逃げ道は?」
「今なら確保できてる。深追いすれば保証しない」
会いたい気持ちはある。
日本から一緒に飛ばされた人間がどうなったのか、知りたくないわけがない。
同時に、知らない方が安全かもしれないとも思う。
「少しだけ追う。人影が見えそうなら、接触する前に一度止まる」
「了解」
リゼが先へ進んだ。
◇
足跡は木々の間を抜け、緩い下りへ続いていた。
俺たちは声を抑え、足音を立てないように歩く。
しばらくして、リゼが片手を上げた。
止まれの合図。
耳を澄ます。
最初は、風が葉を揺らす音しか聞こえなかった。
やがて、その向こうから何かが届く。
「――水……」
遠い。
途切れている。
だが、今のは。
「……日本語だ」
もう一つ、別の声が重なった。
「――戻る……待て――」
姿は見えない。
声の主が何人なのかも分からない。
それでも、紙に残った文字とは違う。
今、この近くに日本語を話す誰かがいる。
胸が速くなる。
「もう少し行けば見えるか?」
「可能性はある」
リゼが答えた直後、横手の茂みが大きく揺れた。
人の動きではない。
低く、重い息遣いのような音が混じる。
リゼの表情が変わった。
「追うなら危険が上がる」
声は近い。
あと少し進めば、誰かの姿を見られるかもしれない。
だが、そのあと少しが安全だという保証はない。
「会いたいのであろう?」
千代が静かに言った。
「会いたいから死んだら意味ない」
俺は茂みと、声がした方角を交互に見た。
「今日は戻る。帰る場所もあるし」
言ってから、自分の言葉に引っかかった。
帰る場所。
《淫獄》を、俺は今そう呼んだ。
逃げ場所でも、隠れ場所でも、便利な拠点でもない。
「撤退するぞ」
リゼの声で我に返る。
「分かってる。戦略的撤退な」
「今は好きに呼べ」
俺たちは来た道を引き返した。
◇
《淫獄》へ戻った瞬間、張り詰めていた肩から力が抜けた。
灰色の床。
灰色の壁。
家具らしい家具もなく、完成した設備もほとんどない。
それでも、外の森よりずっと息がしやすい。
「お帰りなさいませ」
ファステが迎えてくれた。
「随分遅かったですわね」
レイナもこちらへ歩いてくる。
責める口調ではない。俺たち三人の姿を確かめ、怪我がないと分かると、彼女の表情が少し緩んだ。
「ただいま」
その一言が、思っていたより自然に出た。
リゼは装備を外し、持ち帰った食料を床へ置く。
ファステが俺たちへ水を渡す。
レイナは採取物を見て、傷んでいる物がないか確認し始めた。
千代は周囲を見回したあと、戦装束の襟元をわずかに緩める。
外では一度も見せなかった動きだった。
「そなた、外では随分と周囲を見るのだな」
水を飲みながら、千代が言った。
「怖いから」
「戻った途端に気が抜けた」
「ここなら、何かあってもリゼがいるし、ファステもレイナもいるし、千代もいる」
言い終えてから、全員の名前を挙げたことに気づく。
《淫獄》が安全だからだけではない。
ここに戻れば、皆がいる。
その光景へ安堵した俺の目は、外から戻って装備を緩めたリゼや千代、水を差し出すファステ、髪飾りを揺らして採取物を調べるレイナを、必要以上に意識してしまった。
安全な場所で、それぞれが自分の役割へ戻っていく。
外で張り詰めていた分だけ、その差が妙に刺さる。
『《淫獄石》を170個獲得しました』
『所持《淫獄石》:620』
「……また大きいな」
「何のお話ですか?」
ファステが首を傾げる。
「帰ってきたら、俺の面倒な欲望が元気になった話」
「外では静かだったのか?」
リゼが呆れた顔をする。
「生存本能が勝ってた」
「ずっと外に置いておくか」
「やめて。帰る場所の大切さを理解した直後に追放しないで」
◇
夜になり、今日分かったことを五人で共有した。
第二採取地点。
新しい人工的な痕跡。
遠くから聞こえた、日本語らしい声。
接触できなかったこと。
大型の何かが近くにいたため、撤退したこと。
「同じ大学の方々なのでしょうか」
ファステが尋ねる。
「まだ分からない。日本語を話してたのは、ほぼ間違いないと思う」
「次はどうなさいますの?」
レイナが言う。
「痕跡が残ってるうちに確認はしたい。ただ、人数も正体も分からない。入口へ繋がる道も見られたくないから、すぐ接触はしない」
「まずは周囲を見るべきじゃな」
千代が頷いた。
「今日の撤退判断は間違ってない」
リゼが短く言う。
その言葉だけで、少し安心した。
話し合いが終わっても、誰もすぐには寝床へ移らなかった。
ファステは残った水を確かめる。
レイナは髪飾りを外し、自分の私物置きへ丁寧に収める。
リゼは装備の汚れを落としながら、俺の近くに座っている。
千代は小石を動かし、今日持ち帰った食料を管理へ加えた。
ついさっきまで、見知らぬ誰かと大型生物の危険について話していた。
それなのに、話が終われば普通の日常へ戻る。
明日食べる物を数え、道具を片づけ、同じ場所で眠る準備をする。
危険な話のあとだからこそ、その何でもなさが心地よかった。
そして、四人がそれぞれ違う距離で俺のそばにいる光景を意識した瞬間、再び表示が開く。
『《淫獄石》を100個獲得しました』
『所持《淫獄石》:720』
『所持上限:1,000』
『次回必要《淫獄石》:1,000』
あと二百八十個。
一気に近づいた。
だが、数字より先に考えたのは、今日は全員が無事にここへ戻れたということだった。
外へ出るのが好きになったわけじゃない。
危険は嫌いだし、できるなら明日も引きこもっていたい。
ただ、帰る場所があるなら、少しくらい外へ出てもいいと思えるようにはなっていた。




