第2話 安全なだけじゃ暮らせない
評価してもらえるとやる気が上がります
『《淫獄の王》Lv.1――機能の一部を解放します』
目の前に浮かんだ文字は、それ以上の説明をしてくれなかった。
「今度は何だよ……」
俺が半透明の表示をにらんでいると、隣でファステが小さく身じろぎした。
そこで、ようやく我に返る。
新機能。
ものすごく気になる。
ゲームなら、条件達成で解放された項目など真っ先に確認するところだ。
だが今は、好奇心に任せて画面をいじっている場合ではない。
ファステは追っ手から逃げ続けていた。服は泥で汚れ、呼吸もまだ整っていない。立っているだけでもつらそうだった。
「とりあえず座ったほうがいい」
「ですが……」
「立ったまま休む趣味でもあるのか?」
「いえ、そういうわけでは……」
ファステは灰色の床を見下ろした。
汚れているのを気にしているのかと思ったが、どうも違う。
ちらりと俺の顔を見る。
座っても怒られないか、確かめているようだった。
「床しかないのは悪いけど、ここには椅子もないんだ。俺も座るから」
先に腰を下ろしてみせる。
ファステはまだ迷っていたが、やがて俺から少し離れた場所へ、遠慮がちに座った。
両膝をそろえ、背筋を伸ばしている。
休めと言われた人間の姿勢ではない。
「追ってきた人たちは、ここには入ってこられない」
「本当に?」
「ああ。ここが外から切り離された場所なのは分かる。少なくとも、俺が受け入れていない人間が勝手に入ってくることはないはずだ」
ファステの肩から、ほんの少し力が抜けた。
それでも完全には安心できないらしい。扉も窓もない壁を何度も見回している。
「外へ出たくなったら言ってくれ。出口はある」
「私も出られるのですか?」
「出られると思う。ただ、今戻ったら追っ手がいるかもしれない。しばらくは勧めないけどな」
「……そうですか」
出口があると知って安心したのか。
それとも、外のことを思い出して怖くなったのか。
ファステは自分の手首を押さえながら、短く答えただけだった。
沈黙が落ちる。
何か気の利いた言葉をかけるべきだろうか。
こういうとき、会話の得意な人間なら自然に相手を安心させられるのかもしれない。
残念ながら、俺には無理だった。
初対面の女性と二人きり。
しかも相手は、ひどい環境から命懸けで逃げてきたばかりだ。
会話難易度が高すぎる。
仕方なく、俺は《淫獄》を見回した。
灰色の床。
灰色の壁。
家具なし。
水なし。
食料なし。
寝床なし。
安全性だけなら文句はない。
だが、二人で生活する場所として見ると、評価は一気に最低近くまで落ちる。
「安全なだけじゃ、拠点とは呼べないな……」
「きょてん?」
「ああ。ここを暮らせる場所にしたい。少なくとも、水と食料と寝床は必要だ」
頭の中で必要なものを並べていく。
飲み水。
食料。
寝床。
着替え。
身体や服を清潔にするための道具。
さらに、俺一人なら考えなくてもよかった問題がある。
プライバシーだ。
部屋は一つ。
壁も仕切りもない。
寝る場所まで同じになる。
「まず間取りから考えるべきか。でも、広げ方が分からない。水場の位置が決まらないと生活動線も……いや、そもそも水をどうやって確保する?」
考え始めると止まらない。
ゲームの拠点なら、住人を同じ部屋へ詰め込んでも文句は出ない。
だが、ここで暮らすのは生身の人間だ。
腹も減る。
身体も汚れる。
硬い床で眠れば背中も痛くなる。
俺一人なら、床へ寝転がって「まあ死ななければいい」で済ませていたかもしれない。
しかし、人が一人増えた途端、それでは駄目だと思えてきた。
「水をためる容器もいるな。食料の保存場所も必要だ。清潔なものと汚れたものは分けたいし――」
「あの」
ファステの声で顔を上げる。
「どうした?」
「私は、何をすればいいですか?」
「え?」
「掃除でしょうか。それとも、お食事の用意を?」
ファステは立ち上がろうとしていた。
「待て待て。掃除も何も、道具がない。食事も材料がない」
「では、ほかの仕事を」
「ほかの仕事?」
「何でもいたします」
返事が早すぎた。
俺が何を頼むか聞く前に、何でもすると言い切った。
「料理も、洗濯もできます。道具があれば衣服の手入れもできます。ですから……」
言葉が途切れる。
ファステは自分の指を強く握っていた。
「ですから?」
「ここへ置いていただけるのであれば、きちんと働きます」
何かがおかしい。
俺は彼女を雇ったわけではない。
働かせるために助けたわけでもない。
そもそも俺は、追っ手と戦ってすらいない。ただ自分の逃げ場所へ一緒に逃げただけだ。
「別に、働かなくてもここにいていいぞ」
ファステが動きを止めた。
「……え?」
「ここに住むことと、働くことは別だろ」
俺としては、当たり前のことを言っただけだった。
しかしファステは、知らない言葉を聞いたような顔で俺を見ている。
「何もしない者を置いておく理由がありません」
「理由ならある。外へ戻したら危ない」
「それだけで?」
「それだけじゃ駄目なのか?」
ファステがわずかに肩をすくめた。
俺が怒っていると思ったらしい。
「いや、怒ってないからな」
「はい」
「本当に怒ってない」
「……はい」
まったく信じていない。
視線を伏せ、俺の機嫌をうかがっている。
そうすることが身体へ染みついているようだった。
「俺は雇い主じゃない。ファステを家政婦としてここへ連れてきたわけでもない」
「では、私はここで何を?」
「それは、自分で決めればいい」
「自分で……」
ファステは困ったように繰り返した。
「今は疲れてるんだから、休めばいい。腹も減ってるだろ?」
「平気です」
言い終わるのとほぼ同時に、ファステの腹が小さく鳴った。
「…………」
「…………」
ファステの顔が赤くなる。
俺は聞こえなかったふりをするべきか迷い、ポケットから小さな菓子を取り出した。
元の世界から持ってきた、唯一の食料だ。
「これしかないけど、食べるか?」
「いけません。それはあなたの食料でしょう?」
「半分にすればいい」
「私は大丈夫です」
「今ので大丈夫は無理があるだろ」
菓子を二つに割り、片方を先に口へ入れる。
「毒はない。ほら」
残りを差し出すと、ファステは迷った末に受け取った。
「……ありがとうございます」
一口で食べられるほどの量だ。
空腹が満たされるはずもない。
それでも彼女は、大切なものを受け取ったようにゆっくり口へ運んだ。
「甘い……」
「口に合ったならよかった」
「こういうものを食べたのは、久しぶりです」
何と返せばいいか分からず、俺は黙った。
やはり、水と食料が必要だ。
俺一人なら空腹を我慢し、危なくなったら《淫獄》へ戻るという雑な計画でもよかった。
今は違う。
ファステを受け入れた以上、せめて安心して眠れる場所くらいは作りたい。
俺の拠点建築欲が、急に現実味を帯びてきた。
「外に、水がある場所は分かるか?」
「逃げる途中で、小さな流れを見ました。ただ、追ってきた者たちがどこにいるかは……」
「今すぐ出るのは危険か」
「私が見てきます」
ファステが即座に立ち上がろうとする。
「だから待てって」
「でも、水が必要なのでしょう?」
「必要だけど、疲れてるファステを一人で行かせる選択肢はない」
「でしたら、あなたはここで待っていてください」
「俺を置いていく方向で解決しようとするな」
俺より彼女のほうが弱っている。
今の状態で外へ出せば、追っ手以前に途中で倒れかねない。
「しばらく休んで、外の様子が落ち着いてから二人で行く。それでいい」
「ですが、あなたは戦えないと……」
「うっ」
自分で言ったことだが、改めて指摘されると刺さる。
「戦えないけど、危なくなったらここへ逃げられる。場所を知っているファステと、《淫獄》へ戻れる俺が一緒に動いたほうが合理的だ」
我ながら完璧な理屈だ。
戦力を足し算しても、ほとんど増えていないことを除けば。
「合理的……」
「そう。俺は合理的に考えてる」
ファステは少し首をかしげたが、今度は反論しなかった。
俺たちは再び床へ座る。
静かになると、ファステの汚れた服が目についた。
逃げる途中で枝に引っかけたのだろう。肩の辺りが裂け、肌が少しのぞいている。腕や裾にも泥がこびりついていた。
さっきまでは逃げることに必死で、そんなことを気にする余裕がなかった。
安全な場所で二人きりになった途端、急に意識してしまう。
俺は慌てて灰色の壁へ視線を向けた。
「どうしました?」
「いや、別に」
「私の服が、何か?」
「何もない。何も見てない」
答えとして最悪だった。
ファステが自分の肩を見て、裂け目を手で隠す。
「申し訳ありません。見苦しい格好で」
「ファステが謝ることじゃない。それより、着替えも必要だな」
「この程度なら、まだ着られます」
「着られるかどうかと、着続けたいかどうかは別だろ」
「私は気にしません」
「俺が気にする」
口にしてから、別の意味に聞こえた気がした。
「違うぞ。破れた服でいると困るって意味で、俺が見たいとか見たくないとか、そういう話じゃなくて」
エロゲなら、成人女性と密室で二人きりというだけでイベントが始まりそうなものだ。
だが現実で始まるのは、気まずい沈黙である。
しかもファステは疲れ切っている。
喜ぶ場面ではない。
着替えと休める場所を用意する場面だ。
「とにかく、今はこっちを見ないから、服の状態を確認してくれ」
「……はい」
俺は壁を向いた。
背後から、布がかすかに擦れる音が聞こえる。
見るつもりはない。
絶対にない。
そう決めたことで、かえって背後を意識してしまう。
成人女性がすぐ後ろで服を直している。
その姿を、一瞬だけ想像してしまった。
『《淫獄石》を1個獲得しました』
「は?」
突然現れた文字に、思わず振り返りそうになる。
「まだです!」
「ご、ごめん!」
慌てて壁へ向き直る。
今のは何だ。
《淫獄石》?
何かを倒したわけでも、拾ったわけでもない。
ただ俺は、ファステの姿を少し想像して――。
「もう大丈夫です」
恐る恐る振り返る。
ファステは服の裂けた部分を折り込み、外から肌が見えにくいよう整えていた。
「針と糸があれば直せます」
「それも必要品に追加だな」
できるだけ平静を装いながら答える。
俺は《淫獄石》という言葉へ意識を向けた。
『《淫獄石》』
『《淫獄の王》専用消費資源』
『黒瀬夜斗本人の性的欲望によって生成されます』
「俺自身の性的欲望で増えるのかよ……」
「何が増えたのですか?」
「何でもない」
「ですが、今――」
「本当に何でもない。できれば忘れてくれ」
よりによって、初めて発生した原因がこれである。
金が欲しい。
水が欲しい。
安全な家が欲しい。
そういう真面目な欲求では一つも増えず、成人女性の着替えかけを想像した瞬間に一個。
名前だけでなく、資源の獲得方法まで人に説明しづらい。
この能力を作った誰かがいるなら、一度きちんと話し合いたい。
抗議ではない。
あくまで仕様確認である。
幸い、《淫獄石》は一個増えただけだった。
これ以上変なことを考えないよう、俺は無理やり話題を変える。
「服を直すなら裁縫道具。それと着替え。身体を拭く布も必要だな」
「寝床も作れます。簡単なものでよければ」
「作り方を知ってるのか?」
「はい。料理や掃除、洗濯もできます。道具さえあれば、紅茶もお淹れできます」
「紅茶?」
その言葉を口にしたとき、ファステの表情が少しだけ柔らかくなった。
「茶葉と水、それに道具が必要ですけれど。香りや色を見ながら、その日の気候や相手の体調に合わせて淹れ方を変えるんです」
仕事を並べていたときとは、声が違う。
「それ、好きなのか?」
「好き……?」
「紅茶の話をしてるとき、少し楽しそうだった」
ファステは戸惑ったように自分の指先を見た。
「仕事でしたから」
「仕事でも、好きな部分があっていいだろ」
「昔は……香りを確かめる時間が、楽しかった気がします」
「じゃあ、いつかここで淹れてくれ」
「仕事として、でしょうか」
「違う。ファステが淹れたいなら」
彼女はすぐには答えなかった。
仕事だからするのか。
自分がしたいからするのか。
ファステにとって、その違いは簡単なものではないらしい。
「今は水すらないけどな」
俺が付け足すと、ファステの口元がわずかに緩んだ。
「そうですね」
「まず飲み水を確保して、食料を探して、寝床を作る。そのあとだ」
「……いつか、淹れてみたいです」
頼りない声だった。
それでも、初めて彼女自身の希望を聞けた気がした。
「決まりだな」
俺は灰色の床を見回す。
「まずは必要なものを整理しよう。最優先は水と食料。次に寝床と、身体を清潔にするもの」
「食事を作るなら、火と鍋が必要です。刃物もあったほうが」
「なるほど」
「食料を保存する場所も必要です。汚れたものと清潔なものは、分けたほうがよいと思います」
「やっぱり区画分けはいるな。生活動線を考えるなら――」
頭の中に、少しずつ拠点の形が浮かんでくる。
こちらを休む場所。
向こうを荷物置き場。
将来的には水場と調理場所も分けたい。
仕切りを作れるなら、互いの寝る場所も見えないようにする。
「ここはまだ狭いし、何ができるかも分からない。でも、必要なものから順番にそろえる」
「私も、お手伝いしてよろしいですか?」
ファステはおそるおそる尋ねた。
「手伝えって命令されたからじゃなくて?」
「……はい」
「働かないと追い出されると思ってるからでもなく?」
返事が遅れた。
図星だったらしい。
「それも、少しはあります」
ファステは正直に認めた。
「ですが、ここを暮らせる場所にしたいとも思います」
灰色の空間を見回し、小さく続ける。
「もう少しだけ、ここにいたいので」
その声には、深い安堵が混じっていた。
外には追っ手がいる。
ここには何もない。
それでも、何もないことより、怒鳴る者がいないことのほうが大切なのだろう。
「分かった。じゃあ、一緒に考えよう」
「はい」
俺一人なら、床で寝て終わりだった空間。
そこへファステが一人増えたことで、水場や寝床や仕切りについて考え始めた。
誰かと暮らすのは、思っていたより面倒だ。
だが、不思議と嫌ではない。
何もない場所へ必要なものを一つずつ加えていく。
それは、俺が一番好きな遊びに似ていた。
違うのは、ここで暮らすのが画面の中の住人ではないことだ。
ファステが眠り、食べ、いつか紅茶を淹れる。
そのための場所を作る。
「よし。まずは拠点計画だ」
「楽しそうですね」
「そりゃあ、拠点を作るのは好きだからな」
俺は胸を張った。
「こういうことなら、いくらでも考えられる」
「外へ出るのは嫌なのに?」
「それとこれとは別だ」
素材まで自動で手に入れば完璧なのだが、さすがにそこまで都合よくはないらしい。
そこで俺は、忘れかけていたことを思い出した。
「そういえば、解放された機能」
第1話の最後――正確には、ついさっき表示された文字だ。
俺は《淫獄の王》へ意識を向ける。
新しい項目が浮かび上がった。
『《住民管理》』
開くと、最初にファステの名前が表示された。
『ファステ・フェルン』
『第一住民』
「ファステ。ちゃんと第一住民として登録されてる」
「第一、住民……」
「ああ。少なくとも、この場所にとってファステは部外者じゃない」
ファステは何も言わなかった。
ただ、「第一住民」という言葉を胸の中で確かめるように、静かにうつむいた。
俺はさらに別の項目を確認する。
『《住民召喚》』
「住民を、召喚する?」
表示を開く。
『《淫獄石》を消費し、成人女性を《淫獄》の住民として生成・召喚します』
「生成って……どういう意味だ?」
それ以上の説明はない。
少なくとも、成人女性を《淫獄》の住民として呼び出す機能らしい。
「それに、成人女性限定なのかよ」
スキル名から薄々感じていたが、ずいぶん方向性のはっきりした能力である。
さらに表示を進める。
『通常単召喚』
『召喚対象:成人女性』
『初回必要《淫獄石》:無料』
「無料……?」
思わず画面へ顔を近づけた。
無料。
何とも魅力的な言葉だ。
いや、待て。
これはどう見てもガチャではないか。
誰が現れるか分からない仕組みに資源を使う。
合理的とは言い難い。
俺はガチャなんかにハマるつもりはない。
欲しいものが確実に出るとも限らないものへ、延々と資源をつぎ込むなど論外だ。
ただし、初回は無料である。
資源を使わない。
つまり損はしない。
損をしないなら、一度だけ機能を確認するのは合理的な行動ではないだろうか。
「何を見ているのですか?」
「新しく使えるようになった機能」
「危険なものですか?」
「分からない。でも、最初の一回は無料らしい」
「無料?」
「ああ。無料なら何も失わない」
口にしてから、妙に言い訳じみて聞こえた。
俺は咳払いをする。
「今日は使わないぞ」
誰に求められたわけでもないのに宣言した。
「まずは水と食料だ。生活基盤を整えるほうが先だからな」
「はい」
「別に我慢してるわけじゃない。優先順位を守っているだけだ」
「はい」
「本当に分かってるか?」
「何をでしょう?」
ファステは不思議そうに首をかしげた。
俺自身にも、何を分かってほしいのかよく分からない。
もう一度、召喚画面を見る。
『初回無料』
その四文字だけが、やけに強く目に焼きつく。
無料の一回だけなら、ガチャにハマったことにはならない。
使える機能か確かめるだけだ。
これから《淫獄》を暮らせる場所にするため、必要な確認なのかもしれない。
俺は画面を閉じた。
少なくとも、今日は。
何もなかった《淫獄》には、最初の住民がいる。
これから二人で水と食料を探し、寝床を作り、少しずつ暮らせる場所へ変えていく。
そして、その生活のすぐ隣には、初回無料の《住民召喚》が静かに待っていた。
俺はまだ、ガチャなんかにハマっていない。
まだ一度も、回してすらいないのだから。




