第184話 食べないまま、終わらせる
焼いた肉は、翌朝になっても焼けたままだった。
当たり前のことなのに、少しだけ期待していたらしい。
一晩置けば、何か分かりやすい変化が起きるかもしれない。
色が変わる。
変な液が出る。
危険だと知らせる何かが、目に見える形で現れる。
あるいは逆に、見慣れた肉と変わらないまま残って、安全そうに見える。
でも、隔離した容器の中にあったのは、昨日焼いた小さな肉だった。
冷えている。
表面は、焼いた直後より硬そうに見える。
生のまま残した比較用の試料は、端が少し乾いているようにも見えた。
それだけだった。
「蓋にずれはありません」
ファステが容器へ触れず、外側から確認する。
「札も昨日の位置です。床や台にも、漏れた跡は見当たりません」
加熱前。
加熱後。
二つの容器は離れたまま置かれている。
危険部位候補や濁った液体を入れた容器は、さらに別の場所だ。
「色は?」
ヴィオラが昨日の記録を開いた。
「生の方は、端が少し暗くなったように見える」
アヤメは観察口から中を見る。
「加熱した方は、表面の水分が減っています」
「腐った?」
「決められません」
すぐに答えが返ってきた。
「乾燥しただけかもしれません。容器の中で変質した可能性もあります。昨日からの時間によるものか、元から個体にあったものかも分けられません」
「臭いはどうじゃ」
ナーヴァが、床へ引いた境界の外から身を乗り出す。
「開けません」
「昨日は焼いた臭いがしたぞ」
「昨日は加熱中の臭いが排気に混ざりました。今日は、確認するために容器を開ければ、試料と周囲の状態を変えます」
「では、食わねば中が分からぬではないか」
「食べません」
アヤメは、今日も迷わなかった。
レイナが、俺たちを一人ずつ見た。
「目や喉に、昨日から変わったことはありませんか?」
ない。
息苦しさも、吐き気もない。
手足が痺れた者もいない。
千代も、ファステも、昨日の作業後から体調に変化はなかった。
「誰も具合が悪くなっておらぬなら、食えるのではないか?」
「誰も食べていないからです」
レイナが、静かに返した。
「試料へ直接触れた方もいません。今確認できるのは、決めた距離から観察した私たちに、今のところ異常が出ていないということだけですわ」
「焼いた煙も嗅いだぞ」
「排気されたものの一部が、薄く届いただけです。それで一口分を食べた時の安全まで分かるとは限りません」
誰も具合が悪くなっていない。
それは、良かった。
でも、肉が安全だったからではない。
危ないかもしれないものへ、近づかなかったからかもしれなかった。
◇
ヴィオラが、記録の上を指で追った。
「倒した日。運び込んだ時間。分け始めた時間。液が出た時間。焼いた時間」
一つずつ読み上げる。
「今日で、これだけ経ってる」
「まだ新しい方じゃろう?」
「持ち帰った時よりは古いよ」
「焼けば保つのではないか?」
「この肉が、普段の肉と同じように保つかも分かりません」
アヤメが言った。
「それに、時間が経つほど、最初からあった危険と、保存している間に増えた危険を分けにくくなります」
「増えた危険?」
「腐敗。変質。容器や空気からの混入。可能性の話です」
どれかが起きていると決めたわけではない。
起きていないとも確認できない。
「もう少し置いたら、分かりやすく腐るかもしれないよ」
俺が言うと、アヤメは俺を見た。
「それで分かるのは、置き続けた試料が変化したことです」
「最初から食べられなかったかは分からない?」
「はい」
待てば、情報が増えると思っていた。
でも、増えるのは時間だけではない。
原因の候補も増える。
「もう一度、焼く?」
「何を確認するために?」
「もっと長く焼いたら、安全になるか」
「安全になったことを、どう確認しますか」
答えられなかった。
細かく切る。
もっと焼く。
水で洗う。
どれも、肉へ何かをする方法だった。
食べて安全かを確かめる方法ではない。
「では、少し舐めれば――」
「駄目です」
ナーヴァの提案は、最後まで言わせてもらえなかった。
「少しなら危険も少ないのではないか?」
「量が少なければ影響が小さくなるものもあります。少量でも影響するものもあります。口へ入れた時点で吐き出せない形で作用するものもあります」
「そういう毒なのか?」
「分かりません」
「分からぬばかりじゃな」
「分からないものを、分かったことにしないために調べています」
調べる時間を増やせば、答えへ近づくとは限らない。
今回は、時間が増えるほど別の分からないことも増えていた。
◇
それでも、諦めにくかった。
魔物を一体、ほかの死骸と混ぜずに持ち帰った。
作業する人と、外から見る人を分けた。
器も、刃物も、布も分けた。
危なそうな場所を潰さず取り出した。
作業着を汚した。
専用の加熱室まで作った。
一度失敗して、煙の道を作り直した。
薪も使った。
時間も使った。
皆に手伝ってもらった。
そこまでして、最後に肉を食べない。
それでは、途中までやったことが全部無駄になるような気がした。
「ここまでやったのじゃぞ」
ナーヴァが、俺の考えていたことをそのまま口にした。
「最後に食わねば、何のために焼いたのじゃ」
「変化を見るためです」
「食えるか調べておったのであろう?」
「調べていました」
「ならば食えば分かる」
「食べた者が倒れてからでは遅いです」
アヤメとナーヴァの言葉がぶつかる。
俺は、容器の中の肉を見た。
小さい。
これくらいなら。
ナーヴァなら。
アヤメなら。
昨日まで何度も止めた考えが、また出てくる。
今度は、耐えられそうな人だけではない。
ここまで使ったものを、無駄にしたくないという理由までついていた。
「俺も、答えを出したくなってる」
全員の前で言った。
「せっかく分けて、焼く場所まで作ったから。少しくらいなら、誰かに試してもらってもいいんじゃないかって」
「夜斗様」
「頼まないよ」
アヤメが続ける前に言った。
「でも、思った」
正しいことだけ考えていたふりはしない。
食べてみたい。
答えが欲しい。
やったことを、成功にしたい。
「手間をかけても、安全を証明できたわけではありません」
アヤメが言った。
「うん」
「それに、今の私たちには答えを確かめる方法がありません」
「うん」
「こういう時は、あれじゃろう」
ナーヴァが腕を組んだ。
「何?」
「ミネットなら、こう言うぞ。答えが欲しいことと、答えを出せることは――別です」
最後だけ、ここにいないミネットの口調を真似る。
「……はい。意味は合っています」
千代が、閉じた容器へ目を向けた。
「止める条件を決めて始めたのであろう」
「決めた」
「分からぬまま進まぬことも、その一つじゃ」
誰か一人でも中止を求めたら止める。
予想していないことが起きたら、手を動かさない。
安全に続けられる根拠がなければ、その日の作業を終える。
始める前に決めた。
食べたいと思った後で、決めたわけではない。
「手間を惜しんで今だけ条件を変えれば、次も同じことをするぞ」
「次も、ここまでやったからって?」
「その次は、前にも平気だったからと言うかもしれぬ」
今回は、まだ誰も食べていない。
平気だった実績さえない。
あるのは、分けて焼けたという結果だけだった。
「終わろう」
俺は言った。
ナーヴァの顔が、はっきり曇った。
「食べるのを?」
「今回の肉を食べるための調査を」
「まだ食べておらぬぞ」
「だから、食べないまま終わる」
アヤメだけで決めない。
俺だけでも決めない。
全員へ聞いた。
続ける根拠がある者はいなかった。
ナーヴァも、食べたいとは言った。
安全に食べられるとは言わなかった。
◇
終わると決めても、容器が消えるわけではない。
「外へ捨てる?」
ヴィオラが尋ねた。
「捨てません」
ファステが答える。
「何が起きるか分からない物を、《万物迷宮》側へ出すわけにはまいりません」
「菜園へ埋めるのも駄目だな」
リゼが言った。
「土や水へ何が移るか分からない」
「焼き尽くせばよい」
「昨日試したのは、小さな肉と小さな火だけです」
千代が、ナーヴァを見る。
「全部を強い火で焼いた時、煙や灰がどうなるかは試しておらぬ」
「では、どうするのじゃ」
「今は、開けない」
安全な捨て方まで、まだ決まっていない。
生の試料と加熱後の試料は、食材候補ではなくなった。
処分方法を決めていない隔離物として、密閉したまま置く。
危険部位候補も、濁った液体も、汚れた布も同じだ。
食べる調査を終えたからといって、普通のごみへ混ぜない。
一方で、牙、爪、針、皮は別だった。
「これは残す?」
ヴィオラが、札のついた容器を指す。
「食べられなくても、使い道があるかもしれない」
牙は牙。
爪は爪。
針状器官は、危険部位候補と混ぜずに取った分だけ。
皮も、どこから剥いだか分かる札を残す。
硬さや加工法を、俺たちだけで詳しく調べることはしない。
今後、扱いを知る人に見せられる状態だけ保つ。
「記録は?」
「残す」
採取した場所。
分けた順番。
液体が出た時刻。
加熱した火の大きさと時間。
色、形、弾力、臭いの変化。
分からなかったこと。
どれも、肉を食べられなかったから消えるものではない。
試験区画も残す。
吸気と排気。
観察口と作業口。
試した火量の印。
逃げる道。
未知のものを、生活へ混ぜずに試す場所として使える。
「何も分からなかったのか?」
ナーヴァが、まだ肉の容器を見ていた。
「食べていいとは分からなかった」
俺は答えた。
「でも、分からないまま食べない方法は分かった」
「腹は膨れぬぞ」
「うん」
「次は食えるものを捕るのじゃ」
「捕っただけで食べないでね」
「……持ち帰る」
少し考えてから、ナーヴァは言い直した。
勝手に容器を開けなかった。
肉を諦めきれないまま、それでも境界の外にいた。
◇
数日後。
約束していた時刻に、俺は第二接続地点へ通常入口を開いた。
向こう側に、ミネットが立っていた。
学校で使う鞄を肩から下げている。
その足元には縁がいる。
「ただいま戻りました」
「おかえり」
ミネットは自分の足で境界を越えた。
縁も少し周囲を見た後、自分で前足を出す。
魔物の肉を見てもらうために呼んだわけではない。
前から、授業のない日に戻ると決めていた。
学校の生活を続けながら、ここへも帰ってくる。
そのいつもの帰還だった。
ファステが食事を用意し、ナーヴァが学校に食える魔物の話はなかったかと尋ね、ミネットが困った顔をした。
すぐに隔離区画へ連れていかなかった。
学校で何を学んだか。
縁とどう過ごしているか。
こちらで城がどう変わったか。
先に、互いの生活の話をした。
食事の後、ミネットは城壁側に増えた小さな石室に気づいた。
「あちらは、何に使っているんですか?」
「分からないものを焼く場所」
「料理ではなく?」
「料理にしていいか分からないもの」
俺の答えだけでは足りなかったらしい。
ミネットはヴィオラがまとめた記録を読むことになった。
俺も隣で、起きたことを説明する。
袋状器官候補を、毒袋とは呼ばない。
加熱後試料を、焼いた食べ物とも呼ばない。
食べられなかったから失敗した、とも言わなかった。
ミネットは何度か頁を戻った。
「ここで、全員が手を止めたんですね」
「知らない液が出たから」
「その後、続けるか全員へ確認した」
「うん」
「煙は、肉を入れる前に試した」
「最初は戻ってきたけど」
「だから作り直したんですね」
結果だけではなく、止まった場所を読んでいる。
最後まで読み終えると、ミネットは閉じた記録の上へ手を置いた。
「食べなかったんですね」
「食べられるか分からなかったから」
「はい」
残念そうでも、安心したようでもなかった。
確認した事実を、そのまま受け取った顔だった。
「学校にはないの?」
「何がですか?」
「食べられるか調べる魔法」
俺が聞くと、ミネットは少し考えた。
「一つの魔法がある、とは言えません」
「ない?」
「調べた人たちはいます」
鞄から、自分の書いた紙を一枚出す。
授業のまとめらしい。
「毒や薬草との反応を比べる人もいます。試料の魔力がどう変化するかを見る人もいます。人の身体へどう作用するかを、条件を限って調べる人もいます」
「それ、全部別の魔法?」
「別の名前で呼ぶ人もいます。同じような名前で呼ぶ人もいます」
「同じ名前なのに違うの?」
「《ファイヤーボール》も、火の玉を作って前へ飛ばすところは同じです」
「大きいのとか、小さいのとか?」
「速さも、届く距離も違います。真っすぐ飛ばす人もいれば、動く相手へ曲げる人もいます」
「追いかけるのもあるんだ」
「同じ名前で呼ばれていても、同じ術式とは限りません」
火の玉を前へ撃つ。
そこだけ見れば同じだ。
でも、大きさも速さも、どこまで追うかも違う。
食べられるかを調べる魔法も、最後に知りたいことが似ているだけなのかもしれない。
「じゃあ、ミネットはどれを使える?」
「まだ、どれも使えません」
答えは早かった。
◇
「知らなかったわけではないよね?」
「理論と、使った人の記録を知っています」
ミネットは自分の紙を見た。
「でも、その人たちと私は違います」
魔力の量。
制御の仕方。
何を知っているか。
何を感じ取れるか。
使う補助も違う。
「形だけ真似しても、同じものが見えるとは限りません」
「縁がいれば?」
「縁と一緒なら、私だけでは見られないものを見られるかもしれません」
ミネットは、そばに座る縁を見る。
「ですが、何を縁に見てもらうのかも、まだ決めていません。縁ができることを、私が勝手に決めることもできません」
縁は紙の端へ鼻を近づけた。
少し嗅いでから、ミネットの足元へ戻る。
「今のは?」
「紙を確認しただけだと思います」
ミネットは、それ以上の意味をつけなかった。
「この肉で試すのは?」
「しません」
アヤメと同じくらい、迷わない返事だった。
「まだ使えません。それに、使えるようになったとしても、この試料には時間が経っています」
「腐ったかもしれないから?」
「腐敗だけではありません。切り分けています。焼いています。容器へ入れています。その間に何が変わったのか、全部を分けて調べられません」
後から魔法を使えたとしても。
今の肉について何かが分かるだけだ。
倒した直後の肉が安全だった証明にはならない。
「じゃあ、次に同じ魔物が来た時なら?」
「その時までに、できるようになっていれば」
できるとは言わなかった。
何でも分かるとも言わない。
「何から始めるの?」
「食べられると分かっている物です」
「安全な物を調べるの?」
「安全だと分かっている条件で、どう見えるかを知らなければ、知らない物との違いを比べられません」
生のもの。
焼いたもの。
量を変えたもの。
学校で安全に扱える比較用の試料。
最初から毒や未知の魔物を使うわけではない。
「人間が食べる場合を基準にします」
「ナーヴァは?」
「人間への判定結果を、そのまま竜へ使うことはできません」
「縁は?」
「縁にも使えません」
同じ物を食べても、同じように身体が動くとは限らない。
人間でも、年齢や体調、体質で違う。
「最初は、健康な成人が、決めた量を、一度食べる場合。調理した状態も決めます」
「かなり狭いんだな」
「狭くしなければ、何について調べたのか分からなくなります」
ミネットらしかった。
大きな答えを先に求めない。
分けられる条件を、一つずつ分ける。
「それ、覚えてほしいって――」
言いかけて、止めた。
今の俺たちには、欲しい魔法だった。
知らない魔物。
知らない植物。
食料になるかもしれないもの。
今後も《万物迷宮》から来るかもしれない。
ミネットが調べられるようになれば、助かる。
だから覚えてほしい。
そう言えば、ミネットはどう受け取るだろう。
《住民》だから。
ここへ帰ってきたから。
俺たちが必要としているから。
学校で何を学ぶかまで、こちらの都合で決める理由にはならない。
「何ですか?」
「……いや」
ミネットは、俺の顔を見た。
それから、開いた記録へもう一度視線を落とした。
「もっと調べます」
「学校で?」
「はい。先生にも聞きます。記録にある術をそのまま使うのではなく、何を見ていたのかを調べます」
「俺たちが必要だから?」
「それも、使い道の一つです」
否定はしなかった。
「ですが、それだけではありません」
ミネットは、縁の前へ手を置いた。
触れさせようとはしない。
「私は、分からないものについて、どこまでなら分かるのかを知りたいです」
縁が、ミネットの手へ鼻先を寄せた。
そのまま手の横へ座る。
「縁にも聞きます」
「今ので決まったんじゃないの?」
「隣へ座っても、危険な試料を一緒に調べるとは決めません」
「そうだな」
「まず、安全な物で何ができるかを確かめます。その時も、一緒にするか聞きます」
ミネットは、縁の頭を撫でなかった。
ただ、隣にいる縁と同じ紙を見ていた。
◇
今回の肉を食べるための調査は、食べないまま終わった。
後でミネットが魔法を使えるようになっても、この肉が新鮮だった時の安全まで戻って確かめられるわけではない。
今日の決定は変わらない。
生の肉も。
焼いた肉も。
食卓へは運ばなかった。
それでも、次に同じものを前にした時。
また何も分からないままとは、限らなかった。
ミネットは、まだ存在しない二人の魔法を。
縁と一緒に作れるか、これから学校で確かめようとしていた。




