第183話 焼く場所は、厨房じゃない
分けた肉を、次は焼く。
言葉にすると、急に食事へ近づいたように聞こえた。
「では、厨房へ運ぶのじゃな」
ナーヴァも、そう受け取ったらしい。
隔離してある肉試料の容器を見ながら、もう食べる前の顔をしている。
「運びません」
ファステが、すぐに止めた。
「なぜじゃ。焼くのであろう?」
「焼きますが、まだ食事ではありません」
アヤメも答える。
「加熱前と加熱後で、何が変わるかを見ます」
「焼いた後に食えば、同じであろう」
「食べません」
「なぜじゃ」
「食べてよいと分かっていないからです」
昨日、危険部位候補を分けた。
顎の後ろにあった袋状の器官。
そこへ続いているように見えた細い管と、針状の部分。
濁った液体を受けた布。
そこから離れた場所から切り分けた、肉の試料。
別々の器へ入れ、別々の札をつけた。
だからといって、肉が安全になったわけではない。
「厨房で焼くと、何がまずい?」
俺が聞くと、ファステは指を折り始めた。
「煙と臭いが残る可能性があります。脂や液が飛ぶかもしれません。鍋、皿、刃物、布、水場にも触れます」
「灰もです」
アヤメが足す。
「加熱によって、今とは異なるものが出る可能性もあります」
「毒が煙になるとか?」
「なるとは言っていません。ならないとも確認していません」
まだ分からない。
分からない肉を焼くために、普段の食事を作る場所と道具を使う。
それでは、昨日わざわざ分けたものを、今度は厨房全体へ混ぜることになるかもしれない。
「作業着は?」
ヴィオラが尋ねた。
昨日使ったのは、ファステと千代の二着だ。
千代の手袋には濃い汚れがつき、ファステの袖口にも灰色の跡が残った。
どちらも容器へ入れ、安全に洗えると分かるまで出さないことにしている。
「使いません」
ファステが答えた。
「まだ洗い方が決まっておりません」
「では、別の者の物を――」
「使わぬ」
千代が言った。
「昨日、それで近づけると思えば、本来止めるべきところまで進むかもしれぬと決めたばかりじゃ」
作業着がない。
厨房も使わない。
それでも、加熱前後を比べる方法は必要だった。
「人が中へ入らなくていい場所を作ればいい?」
俺が言うと、皆の視線が集まった。
城になった時に増えた空間は、まだ全部を使っているわけではない。
《領域構築》なら、その形を変えられる。
肉を安全にすることはできない。
でも、肉を扱う場所を、生活から離すことならできるかもしれない。
◇
選んだのは、城壁に近い空区画だった。
厨房から遠い。
菜園、浴室、倉庫、通常入口からも離れている。
城壁との間には、まだ何にも使っていない外周の空地があった。
「ここなら、煙をあっちへ流せるかな」
俺は、城壁に沿って広がる空地を指した。
城壁の向こうではない。
《万物迷宮》側へ穴を開けるわけでもない。
今の《淫獄》の領域内にある、生活場所から離れた空間へ流すだけだ。
「風がこちらへ向けば、戻ります」
アヤメが言った。
「離れた場所へ出すだけでは足りません」
「じゃあ、煙が流れるか先に試す」
「試料を使わずに?」
「うん。普段使ってる薪だけで」
肉を焼いてから、煙が戻ると分かっても遅い。
まず、知っている薪の煙だけで確かめる。
リゼは、区画から邸宅側へ戻る道を歩いた。
右手はまだ使わない。
左手で壁へ触れながら、曲がり角と扉の位置を見る。
「観察する者をここへ固めると、煙が出た時に一つの道へ集まる」
「二方向へ下がれるようにする?」
「その方がいい。扉を閉める者と、逃げる者も同じ場所へ置かない方がいい」
千代は、火を置く予定の場所と観察位置の距離を確かめた。
ファステは、薪、水、砂、布、容器をどこへ置くかを見る。
「厨房から持ち出す道具はありませんね?」
「ないよ。試験用に分けた物だけ」
「長い挟み具も、使用後は戻さない方がよろしいかと」
「この区画に残す」
使った後の置場まで決める。
それから、人も物も区画の外へ出した。
俺は《領域構築》を開く。
城を上から見たような形が浮かぶ。
選んだ空区画へ、小さな石造りの部屋を思い描いた。
火を置く窪み。
肉を置く石台。
二つは少し離す。
外から中を見られる、細い観察口。
長い挟み具だけを差し入れられる作業口。
低い位置には、空気が入るための穴。
上には、煙を外周の空地へ流すための石の道。
使い終わった道具と試料を、生活側へ持ち出さず分けて置ける場所も作る。
思い描いた形が、構造図へ重なった。
火は出ない。
薪も増えない。
水も、砂も、布も、長い道具もない。
作れるのは、石の形だけだ。
「この形で、試す場所にする」
そう決めると、重なっていた形が図へ沈んだ。
区画の境界が曖昧になる。
すぐには入れない。
俺たちは、形が定まるまで離れて待った。
◇
完成した部屋へ、最初に肉は入れなかった。
乾いた薪を、決めた量だけ置く。
火を扱う千代も、中へは入らない。
外から長い道具を差し込み、火をつける。
「小さくじゃぞ」
「分かっておる」
ナーヴァが答えた。
「ナーヴァは火をつけないよ」
「なぜ我に言ったのじゃ」
「近づいてたから」
「見ておっただけじゃ」
境界を越えてはいない。
それでも、火の近くにいるだけで手伝いたくなるらしい。
千代が普通の火打ち道具を使い、薪へ火を移した。
小さな炎が上がる。
煙が、石室の上へ流れた。
排気路へ入る。
「出てる」
ヴィオラが外周空地側を見る。
薄い煙が、生活場所から離れた位置へ流れていた。
そのまま全部、向こうへ出るように見えた。
でも、しばらくすると、観察口の前でアヤメが手を上げた。
「止めてください」
千代が薪を動かさない。
「作業口側へ戻っています」
目を凝らす。
細い煙が、長い道具を差し入れる穴からこちらへ漏れていた。
観察口の周りにも、薄く漂い始める。
「煙を出す道は作ったのに」
「出ていく道があることと、こちらへ戻らないことは別です」
ファステが布を取ろうとした。
「近づかないで」
レイナが止める。
千代は火へ新しい薪を足さず、外から扱える範囲で燃えている薪を離した。
石室の扉を閉める。
全員が、決めた道から下がった。
火が消える。
煙がなくなる。
石が冷える。
それまで近づかなかった。
「目に痛みはありませんか?」
レイナが一人ずつ尋ねる。
「ない」
「喉は?」
「何も感じぬ」
「息苦しさ、吐き気、眩暈は?」
誰にも症状はなかった。
だから安全だった、とはしない。
肉を入れていなかったから、ただの薪の煙で済んだ。
「先に試してよかったな」
「はい」
アヤメは、閉じた部屋を見る。
「肉を入れた後であれば、戻った煙に何が含まれていたか分かりませんでした」
◇
区画が冷え、煙が抜けた後で、中を確かめた。
薪は燃え切っている。
壁と天井に、目立った割れはない。
煙は排気路からも出た。
全部が出なかっただけだ。
「空気の入り口が足りなかったかもしれぬ」
千代が低い穴を見る。
「作業口からも空気を吸った?」
「可能性はあります」
アヤメは断定しない。
「排気路が低いのかもしれません。曲がり方か、作業口の広さか、火の大きさかもしれません」
原因は一つとは限らない。
中の薪と灰を、長い道具で決めた置場へ移す。
もう一度、人も物も区画から出す。
俺は《領域構築》で、低い吸気口を少し広げた。
排気路の入口を上げる。
曲がりを減らし、外周空地へ向かう道を短くする。
作業口も、長い道具を動かせる範囲を残して少し狭めた。
変更が終わるまで待つ。
二度目も、同じ種類の薪。
同じくらいの量。
それ以上の火は使わない。
千代が火をつける。
煙が上がった。
今度は、排気路へ引かれるように流れていく。
外周空地へ出る。
観察口から見続ける。
作業口の周りにも目を向ける。
目に見える逆流はなかった。
「成功?」
ヴィオラが聞く。
「今の火ではね」
俺は答えた。
もっと大きな火。
別の風向き。
長い時間。
肉から大量の液体や煙が出た時。
同じように使えるとは確かめていない。
「使う薪は、今の量を越えぬよう印をつけるぞ」
千代が言った。
試した範囲より火を大きくしない。
できることを増やす前に、できた範囲を残した。
◇
肉を出す前に、止める条件を決めた。
肉が自分で動いた時。
糸や虫のような物が出た時。
知らない組織が急に伸びた時。
煙の色や量が大きく変わった時。
火花、破裂、液体の噴出が起きた時。
強い刺激臭が出た時。
誰かの目や喉が痛む。
手足が痺れる。
吐き気、眩暈、息苦しさが出る。
煙が観察側へ戻る。
扉、観察口、作業口、長い道具に異常が起きる。
「どれかが起きれば、道具を動かさず退く」
俺が読み上げる。
「火を消さなくていいの?」
ヴィオラが尋ねた。
「外から安全に小さくできる時だけじゃ」
千代が答える。
「分からぬ液が出ておる時に、慌てて水をかければ広がるかもしれぬ」
普通の火へ使う水と砂は、区画の外に用意した。
でも、何が起きても水をかけるとは決めない。
火から離れ、扉を閉め、燃える物を増やさず、収まるのを待つ方がいい場合もある。
「誰か一人でも中止を求めたら、その日は終わりです」
アヤメが言う。
「理由を説明できなくても?」
「はい。説明を考えている間に、退く時間を失う可能性があります」
始める時は、全員へ聞く。
止める時は、一人で止められる。
昨日と同じだった。
アヤメは清潔側から、肉と加熱中の変化を見る。
ヴィオラは時刻と量を記録する。
生の試料と加熱後の試料の札も管理する。
レイナは、肉より人を見る。
ファステは、試験用品へ厨房の物が混ざらないよう置場を確かめる。
千代は、試した大きさを越えない火を扱う。
リゼは右腕を使わず、皆の位置と二本の退路、扉を見る。
俺は能力表示と区画全体を確認する。
一人で開始も継続も決めない。
「我は?」
「境界の外で待つ」
「炎は?」
「使わない」
「味を見る役は?」
「いない」
「我がおるぞ」
「いない」
ナーヴァは納得していない顔をした。
それでも、床へ引いた境界の外で座った。
◇
昨日分けた肉を、全部は使わない。
生のまま残す試料。
加熱する試料。
二つの容器を離して置く。
札も別だ。
使う挟み具も、置く場所を分ける。
「色は、前と大きく変わっていません」
ヴィオラが記録を読む。
「表面に、新しい変色は見えない」
アヤメが観察する。
「臭いは?」
「直接嗅ぎ込みません。離れた位置で、大きな変化を感じないところまでです」
弾力。
表面。
液体の有無。
見える範囲を記録する。
昨日と大きく変わっていないように見える。
腐っていない証明にはならない。
変質していない証明にもならない。
「続けられると思います」
アヤメが言った。
「私は異常を感じておりません」
レイナも答える。
「置場と札は分かれています」
ファステが確認する。
千代、リゼ、ヴィオラにも聞く。
誰も中止を求めなかった。
長い挟み具で、ごく小さな肉を石台へ置く。
誰も加熱室へ入らない。
千代が、外から火をつけた。
◇
最初は、何も起きなかった。
小さな炎が薪を燃やす。
煙は排気路へ流れる。
肉は石台の上にある。
動かない。
糸も出ない。
虫のような物も見えない。
「時間」
アヤメが言う。
「加熱開始から一分」
ヴィオラが紙へ書く。
表面の色が、少しずつ変わった。
赤みが薄れ、外側が茶色へ近づく。
肉の端が縮む。
「液が出ています」
石台の上に、小さな滴がにじんでいた。
「脂?」
「脂か、水分か、それ以外かは分かりません」
アヤメが答える。
長い挟み具で、片面を返す。
直接手は入れない。
裏側も同じように色が変わっていく。
破裂はない。
異常な色の煙も出ない。
動き出すこともなかった。
しばらくして、臭いが届いた。
ごく薄い。
それでも、知っている。
肉を焼いた時の臭いに近かった。
腹が減るような臭いだった。
「食える臭いじゃ」
ナーヴァが立ち上がる。
「境界を越えないで」
「越えておらぬ」
つま先は、ぎりぎり線の手前にある。
「食べ物に似た臭いだけでは、食べてよいとは判断できません」
アヤメは、肉から目を離さずに言った。
「見た目も肉で、焼いた臭いも肉じゃぞ」
「見た目と臭いを確認したところです」
「それで十分ではないのか」
「十分ではありません」
レイナが、俺たちの方を見る。
「目や喉に痛みはありませんか?」
ない。
息苦しさも、吐き気も、痺れも感じない。
短い時間で症状が出ていない。
確認できるのは、それだけだった。
「止める」
千代が火を小さくした。
試していない時間まで焼き続けない。
火が消える。
でも、すぐには近づかなかった。
石が冷える。
煙が抜ける。
排気側と二本の退路に異常がない。
それを確認してから、長い挟み具を動かした。
焼いた肉を、専用の器へ入れる。
生の比較試料とは離して置く。
札には、加熱後試料と書いた。
食用とは書かなかった。
◇
確認できたことを並べる。
試した火の強さと時間で、肉の色が変わった。
端が縮み、弾力も変わった。
表面から、脂か水分らしい液が出た。
目に見える範囲で、自分からは動かなかった。
糸や虫のような物も出なかった。
異常な煙、破裂、液体の噴出も確認されなかった。
焼いた肉に似た臭いがした。
確認できていないことも並べる。
毒があるか。
加熱で毒が弱くなったか。
逆に、強くなったか。
病気の原因になるものや、寄生するものがいるか。
魔力による影響があるか。
人間が消化できるか。
竜なら食べられるか。
少量なら安全なのか。
一度は平気でも、後から影響が出ないか。
「まだ、食えぬのか」
ナーヴァが、加熱後試料の器を見る。
「食べない」
「我なら――」
「ナーヴァにも食べさせない」
「では、アヤメは」
「食べません」
アヤメ自身が答えた。
「私に耐えられる可能性があっても、ほかの者の安全は分かりません。今ここで食べる必要もありません」
誰にも食べさせない。
試験台、灰、燃え残った薪、長い挟み具は、試験区画の中で分けて置く。
厨房へ戻さない。
普段の火へ混ぜない。
使用済みの物を隔離して、扉を閉める。
「この部屋は、使えそう?」
ヴィオラが尋ねた。
「今回と同じくらいの火で、煙を流しながら加熱できた」
「安全な部屋ではありません」
アヤメが加える。
「危険が起きても、生活区域へ広げにくい形にできただけです」
《領域構築》で作れたのは、食べられる肉ではない。
安全な調理場でもない。
分からないものを、普段の暮らしへすぐ混ぜずに試すための場所だった。
肉は焼けた。
色も変わった。
臭いも、知っている食べ物へ近づいた。
けれど、焼く場所を厨房から分けられたことと。
焼けた肉は、まだ食卓へ運べない。




