第181話 今の主
守れた後にも、仕事は残った。
外門には、魔物が爪を立てた跡がある。
狭間には黒い血がつき、ナーヴァの炎を通した石の道には煤が残っていた。
ヴィオラが落とした障害物は、外門前へ倒れたまま。警報用の縄と木片は、もう一度使える位置へ戻さなければならない。
応急処置区画の水と布も、数を確かめて補充する必要がある。
小型ゴーレムは、自分に任された仕掛けだけを元へ戻していた。
清掃も、物資の補充も、重い障害物を持ち上げることもしない。
「動かなかった方は?」
ヴィオラが、内門の脇に立つ黒い人型ゴーレムを見る。
「傷は増えてない」
リゼが、左手で表面を確かめた。
「仕事がなかったからな」
「じゃあ、ここにいなくてもよかった?」
「内門まで来なかったから、そう言えるだけだ」
内門へ何かが触れていれば、黒いゴーレムが最後に止めるはずだった。
動かなかったことと、必要なかったことは別だ。
「リゼは、それ以上持たないで」
レイナが声をかける。
「これくらいなら左手で――」
「左手で持てることと、今リゼ様が重い物を持つ必要があることは別ですわ」
右腕の痺れは、まだ残っている。
悪くはなっていない。
でも、治ったわけでもなかった。
リゼは少しだけ黙り、点検用の紙へ視線を落とした。
「なら、私は記録をする」
「お願いしますわ」
戦わなかったから、役に立たなかったわけではない。
重い物を持たないから、何もできないわけでもない。
一度守れたことだけを理由に、全部完成したことにはしない。
点検する。
洗う。
補充する。
使った物を元へ戻す。
次に誰が何を見るのかを決める。
そこまで終わって、ようやく次も使える防衛になる。
◇
門の内側へ持ち帰った魔物は、生活場所から離れた区画に隔離していた。
厨房からも、食堂からも、通常入口からも遠い。
専用の布へ載せたまま、床へ直接触れさせていない。
灰色の身体には、千代の刀が入った傷がある。
焦げてはいない。
ほかの死骸と重ねてもいない。
前に調べた肉より新しく、一体の形が残っている。
だからこそ、扱いを間違えれば、分けて持ち帰った意味がなくなる。
「刃物は二つでは足りません」
アヤメが、用意した道具を見る。
「肉を切る物と、危なそうなところを切る物?」
「それだけではありません」
アヤメは死骸へ触れず、少し離れた位置から指し示した。
「牙と爪。口や傷から出る体液。内臓。筋肉と脂肪。皮と硬い部位。分けられる物は、先に置場を分けます」
「毒がありそうなのは?」
「まだ分かりません」
リゼを傷つけた個体と、同じ種類に見える。
けれど、まったく同じかは確かめていない。
「膨らんだ器官があれば、危険部位の候補として扱います。毒腺だと決めるのは、調べた後です」
「毒袋かもしれない?」
「違うかもしれません」
アヤメは空の器を並べる位置まで指定した。
危険部位候補。
肉。
皮。
牙と爪。
体液がついた布。
使い終わった刃物。
一つずつ混ざらないように離す。
「洗えば同じ刃物を使える?」
「洗い方が十分だと分かってからです。最初から分けられるなら、分けます」
調べる前に、調べた後の置場まで決めていく。
ナーヴァは、布の上の魔物を見つめていた。
「それで、いつ食えるのじゃ?」
「まだ食べ物ではありません」
「焦げておらぬぞ」
「毒が見つからなくても、腐敗や寄生、魔力の影響は残ります。私が耐えられても、皆が食べられる証明にはなりません」
「少しならよいのではないか?」
「よくありません」
「我なら平気かもしれぬぞ」
「平気かもしれない、では試せません」
「別ばかりじゃな」
「混ぜると危険なものを、分けているところですから」
ナーヴァは不満そうに死骸を見た。
それでも、勝手に切ろうとはしない。
焼こうともしなかった。
俺も、アヤメを見る。
「アヤメが一番耐えられそうでも、最初に食べてもらう理由にはしないから」
「前にも聞きました」
「新しい個体が手に入っても、同じだから」
前より状態がいい。
調べられる部分も多い。
だから、耐毒がある人へ少量だけ試してもらえばいい。
そんな考え方が、前より簡単に浮かぶ状況だった。
アヤメに頼むのが、一番合理的に見える。
それでも、頼まない。
「必要なら、私から提案することはあります」
「その時も、アヤメが言ったからって、すぐやることにはしないよ。必要か、安全にできるか、皆で考える」
アヤメは返事をしなかった。
ただ、俺をしばらく見た後、並べた器へ視線を戻した。
「今日は、解体を始めません」
「いいのか?」
ナーヴァが聞く。
「道具と保管場所が足りません。始めてから足りないと分かれば、途中で混ざります」
「では、今日は食えぬのか」
「最初からそう言っています」
まずは、調べられる状態を作る。
食べられるか考えるのは、その後だった。
◇
隔離区画を出た後、俺とアヤメは城門側へ戻った。
実戦で使った第一退避路を、もう一度確かめるためだ。
アヤメが観察位置から入る。
俺は少し後ろを歩いた。
外から退避路の入口は見えにくい。
扉も問題なく閉まる。
ただ、曲がり角の壁に薄い擦れ跡が残っていた。
「ここ、袖が当たった?」
「急いで曲がった時に」
アヤメが同じ動きをする。
走らず、実戦の時よりゆっくりと。
それでも、外套の袖が壁へ触れそうになった。
「少し広げる?」
「広げすぎれば、外から見た時に不自然になります」
「じゃあ、角だけ変える」
「床もです」
アヤメが足元を見る。
石の継ぎ目に、足を置きにくい場所がある。
歩く時には困らない。
急いで戻る時には、わずかな引っかかりになる。
《領域構築》ですぐに変えず、候補として覚えておく。
人も物も退避路から出した後で、小さく直せばいい。
内門側へ抜ける少し前で、アヤメが足を止めた。
「夜斗」
振り返らないまま、俺を呼ぶ。
「何?」
「なぜ、戻れと命じたのですか」
狭い通路に、アヤメの声だけが残った。
「昨日のこと?」
「それだけではありません」
毒を持つ魔物を調べようとした時にも、俺はアヤメを呼び戻した。
昨日は、外門の向こうを確認したアヤメへ、最初から帰還まで命じた。
「私が残れば、もう少し情報を得られた可能性があります」
「死んだ可能性もある」
「情報収集には危険が伴います」
「だからって、危険なら全部やめてほしいとは言わないよ」
アヤメは街へ行った。
外でセリナを探した。
城門の外を観察した。
危険を全部なくせないことは分かっている。
「アヤメの情報収集は、今も必要だよ」
俺は、そのまま続けた。
「毒の知識も必要だし、街や《万物迷宮》のことを調べてもらえなくなったら困る。頼んで断られたら、たぶんがっかりもする」
「それなら、なぜ」
「能力が必要なのは本当だよ」
欲しくないふりはしない。
必要としていないふりもしない。
「でも、役に立つなら死んでもいいとは思ってない」
アヤメが、ようやく振り返った。
「私の能力を、失いたくなかっただけでは?」
「それもある」
否定すれば、嘘になる。
アヤメがいなくなれば、できなくなることは多い。
街の情報も得にくくなる。
毒を調べられる者も減る。
俺たちが気づかない危険を見つける人もいなくなる。
「でも、能力を失うのも困るから、死ぬまで情報を取ってきてほしいとは思わない」
「……」
「情報より、能力より、アヤメに戻ってきてほしかった」
アヤメの顔は、ほとんど変わらない。
何を考えたのかも分からない。
ただ、すぐには次の質問が来なかった。
「俺の命令を聞いたことより、戻ってきたことの方が大事だった」
「私は、あなたの命令に従いました」
「うん」
「それでも?」
「命令を聞かせたかったんじゃなくて、帰ってきてほしかったから」
また沈黙する。
遠くで、何かを動かす音がした。
住民たちが、外門前へ落とした障害物を元へ戻している。
この通路には、俺とアヤメしかいない。
「私には、すでに主がいます」
「知ってる」
「以前の主への忠義を、捨てるつもりはありません」
「うん」
「元の場所へ戻る方法も、探し続けます」
「それも、やめなくていい」
アヤメの目が、わずかに細くなる。
「前の主を忘れなくていい。戻る方法も探していい」
「私が戻れば、あなたへ従い続けるとは限りません」
「その時は、またアヤメが決めて」
「命令が衝突した場合も?」
まだ起きていないことだった。
以前の主が、どんな命令を出すのか。
俺がその時、何を望むのか。
どちらも分からない。
「今ここで、ずっと俺を選ぶって約束はさせたくない。その時の事情を話して、アヤメが選べばいいと思う」
「主は、従う相手へ選択を委ねるものですか」
「普通は違うかもしれない」
「あなたは?」
「俺は、そうしたい」
正しい主の形なんて、俺は知らない。
そもそも、主になりたいと思ってアヤメを選んだわけでもなかった。
情報が欲しかった。
街へ行ける人が必要だった。
苦しんでいるように見えた人を、そのままにしたくなかった。
理由は一つではない。
今も、アヤメの能力を必要としている。
それでも、必要だからアヤメの帰る先まで奪いたいとは思わなかった。
「あなたは、私の能力が必要だと言いました」
「うん」
「ですが、使い潰そうとはしなかった」
アヤメが、壁の擦れ跡へ一度目を向ける。
「戻る道も、残した」
第一退避路。
途中を使えない場合に備えた、第二退避路。
俺だけで決めた道ではない。
アヤメ自身が必要な形を話し、千代と皆で作った道だ。
アヤメは俺へ向き直った。
そのまま、片膝をつく。
「アヤメ?」
立たせるべきか迷った。
でも、今は止めない方がいいと思った。
アヤメが、自分から何かを決めようとしている。
俺は黙って、続きを待った。
「以前の主への忠義を、捨てるつもりはありません」
同じ言葉を、今度は姿勢ごと俺へ向ける。
「元の場所へ戻る道も、探し続けます」
「うん」
「それでも、今この場所で従う主を、私は自分で選びます」
アヤメが顔を上げた。
「夜斗様。あなたを、私の主と認めます」
光は出なかった。
音も鳴らない。
目の前に能力表示も開かない。
誰かに認められた証明は、何もなかった。
必要なかった。
「分かった」
それだけでは足りない気がして、もう一度言う。
「アヤメがそう決めたこと、受け取る」
「はい」
「でも、帰る道が見つかったら、その時はまた自分で決めて」
「今、主と認めた直後に言うことですか」
「言わない方がいい?」
「いいえ」
アヤメは、ほんの少しだけ目を伏せた。
「選び直すことを許す方だから、今はあなたを選びます」
「そっか」
「はい」
俺は、片膝をついたままのアヤメを見る。
「立ってもらっていい?」
「命令ですか」
「話を続けたいから」
「承知しました」
アヤメは差し出す手を待たず、自分で立ち上がった。
それでよかった。
アヤメは以前の主も帰還の意思も捨てず、今この場所で従う相手を決めた。
その決定に、能力は何も加えなかった。
◇
隔離区画へ戻ると、ナーヴァはまだ死骸を見ていた。
「遅いぞ」
「退避路を見てたから」
「肉は待っておる」
「待たせておいて」
「いつまでじゃ」
アヤメが、並べた器と道具を見直す。
「調べるなら、毒と食べられるかどうかを分けて調べます」
「どう分ける?」
俺が尋ねると、アヤメがこちらを見た。
「まず、牙と体液を肉から分けます。危険部位候補も別にします。毒性が疑われる物と、食材になり得る部分を同じ刃物で扱いません」
「その後は?」
「加熱前と加熱後も別です。毒が弱まる可能性も、変質する可能性もあります。どちらも、今は確定しません」
「食べるのは?」
「まだ先です」
ナーヴァが肩を落とす。
「夜斗が食えと言えばよいのではないか?」
「命令しないよ」
「命じられても、危険だと考える限りは反対します」
「ほら」
「何が、ほら、なのじゃ」
アヤメは、必要な道具を書き出していく。
俺は、その横で皆に確かめた。
どの区画なら安全に分けられるか。
洗浄用の水をどれだけ用意できるか。
使った道具をどこへ隔離するか。
誰も口へ入れないまま、何を見て、何を記録できるか。
アヤメは命令を待たなかった。
自分の知識で案を出し、足りないところを指摘し、分からないことは分からないまま残した。
俺を主と認める前と同じように。
そのまま考え、自分の言葉で話していた。
◇
城門側では、障害物を元へ戻す作業が続いていた。
警報を確かめる。
血と煤を落とす。
水と布を補充する。
次に備えて、誰が点検するかを決める。
城になっただけでは、守り続けられない。
使う者がいる。
確かめる者がいる。
直す者がいる。
その時ここにいる者が、自分で判断して動く。
誰か一人を、門や設備の代わりに置き続けなくてもいい形を作ってきた。
外へ出る者を閉じ込めるためではない。
戻りたいと思った時まで、帰る場所を残すために。
契約の光も、能力表示も、石の音もない。
月野アヤメは、帰る道を残したまま、自分で今の主を選んだ。




