第177話 邸宅が、城になる
振動は、急に止まった。
少しずつ弱くなったのではない。
床の下で動いていた何かが、そこで役目を終えたように静かになった。
棚の器も鳴らなくなる。
天井から落ちていた埃も止まった。
誰もすぐには動かなかった。
振動が止まっても、まだ動かなかった。
リゼが言ったことを思い出す。
「もう終わったか?」
ナーヴァが尋ねる。
「分からない」
答えた直後、視界に文字が浮かんだ。
『領域を再固定しました』
それだけだった。
「再固定?」
「何が出た?」
リゼが尋ねる。
「領域を再固定しました、って」
「ほかには?」
「ない」
待ってみる。
続きは出ない。
「何を再固定したのじゃ?」
千代が聞く。
「領域って書いてあるだけ」
「どこまでが領域かは?」
「書いてない」
「なぜ再固定した?」
「それもない」
「役に立たぬな」
「いつもより一文多いだけ、親切なのかもしれない」
「一文しかないのに?」
ヴィオラが言った。
俺にも、親切になった感じはしなかった。
侵食を押し返したのか。
領域が広がったのか。
別の場所へ固定されたのか。
何も分からない。
分かったのは、何かが終わったらしいことだけだった。
◇
「外へ出る前に、邸宅の中を見ます」
ファステが言った。
「部屋へ勝手に入るのはなしで」
俺が付け加える。
「本人がいる部屋は本人が確認する。いない人の部屋は、外から分かる範囲だけ」
ミネットは学校にいる。
本人のいない間に、残していった本や衣服を動かしたくない。
扉が開かなくなっているなど、緊急の理由があれば別だ。
今は、そこまでの異常は見えない。
廊下を歩く。
壁に亀裂はない。
扉の位置も変わっていない。
俺の部屋も、そのままだった。
寝台は動いていない。
脱いだ靴も、急いで持ち出した外套も、勝手に整理されてはいなかった。
「食堂は変わっていません」
ファステの声がする。
「厨房もです。棚の中身も、見える範囲では同じです」
「風呂を見るぞ」
ナーヴァが廊下の先へ向かう。
「先に風呂なの?」
「我が守りたいと言ったものが残っているか確かめるだけじゃ」
「入らないよね?」
「今は入らぬ」
今は、と付いた。
浴室も壊れていなかった。
水が勝手に増えたり、浴槽が豪華になったりもしていない。
ナーヴァは浴槽の縁を一度触り、満足そうに頷いた。
「残っておる」
「厨房も残っていました」
ファステが言う。
「ならば、ひとまず暮らせるな」
部屋より先に厨房と風呂を確かめた二人が言うなら、たぶんそうなのだろう。
レイナがリゼの腕を確認するために使っていた場所も残っている。
清潔な布や水が元へ戻ったわけではない。
使った分は、使ったままだ。
内部が変わらなかったというより、昨日まで俺たちが使っていた邸宅が、そのまま残されているように見えた。
◇
邸宅玄関の前へ集まる。
リゼの右腕には、まだ布が巻かれている。
「私も行く」
「刃は持たないで」
レイナが言う。
「分かっている。走らない。前にも出ない」
「痺れが強くなったら、すぐ戻ってくださいまし」
「分かった」
戦いに行くのではない。
それでも、何が変わったかを見るのは防衛にも関わる。
リゼを部屋へ閉じ込める理由にはならなかった。
千代が玄関の脇へ立つ。
ナーヴァはすぐ前へ出られる位置。
アヤメは後ろから、俺たちとは別に天井と足元を見ている。
俺は扉へ手をかけた。
「少しだけ開ける」
隙間を作る。
冷たい空気が入ってきた。
魔物の臭いはしない。
灰色の床も見えない。
代わりに、見覚えのない石畳があった。
「……こんなの、なかったよね」
ヴィオラが俺の後ろから言う。
「なかった」
扉をもう少し開く。
邸宅の前には、広い中庭ができていた。
以前の通路よりずっと広い。
石畳が左右へ伸び、その先には高い壁がある。
天井も高くなっている。
遠くには、壁の上へ上がる階段が見えた。
「外壁か?」
リゼが言う。
「たぶん」
「邸宅の周りに?」
「そう見える」
「城のようじゃな」
千代が短く言った。
◇
全員で固まったまま歩かない。
邸宅へ残る者と、最初に中庭を見る者を分けた。
ファステとレイナは邸宅側へ残る。
ヴィオラも最初は玄関近くで待つ。
俺、千代、ナーヴァ、アヤメが中庭へ出る。
リゼは前へ出ず、玄関から見える範囲を確認する。
石畳を踏む。
揺れない。
熱くも冷たくもない。
灰色の床とは色も手触りも違う。
中庭の端には、いくつかの小さな建物が並んでいた。
一つ目は、外壁へ近い詰所のような部屋。
中には何もない。
机も椅子も、武器もない。
「門番を置けそうじゃな」
千代が言う。
「置くかどうかは別だけどね」
「我は置かれぬぞ」
ナーヴァが先に言った。
「分かってる」
門番詰所のように見えても、そこへ誰かを常に置くと決まったわけではない。
隣には棚を置けそうな広い部屋があった。
でも、棚はない。
水も布も、食料も入っていない。
「倉庫はできた。でも、中身は自分たちで入れろってことかな」
「何も勝手に移されていないなら、その方がいいです」
アヤメが答える。
勝手に物を整理されれば、どこへ何が行ったか分からなくなる。
危険物と生活用品を一緒にされる可能性もある。
空の部屋だけなら、使うかどうかも俺たちで決められる。
もう一つの区画には、広めの床と水を流せそうな溝があった。
「負傷者を運び込める」
千代が入口の幅を見る。
「担架も曲がらず入れそうだ」
「治療場所かもしれない」
「そう使えるだけで、そう決まってはいません」
アヤメが言った。
それもそうだ。
何に使うためにできたのか、説明はない。
俺たちが、そう使えそうだと思っているだけだった。
◇
菜園は外壁の内側に残っていた。
作物も消えていない。
畝の位置も、昨日と同じに見える。
工房として使っている場所も、既存の倉庫も残っている。
置いてあった工具や箱は動いていない。
新しい壁と通路が、それらを避けるように増えていた。
「全部囲われてる」
ヴィオラも中庭へ出てきて、菜園側を見た。
「畑も、倉庫も、邸宅も」
「外へ出た者が帰ってきた時に使う場所もな」
千代が通常入口のある方角を見る。
邸宅玄関近くの、通常入口を開くために使ってきた位置も残っている。
ただし、城門側からは見えない。
新しくできた壁と曲がった通路が間に入り、外門から邸宅玄関まで真っすぐ見通せなくなっていた。
「昨日の魔物が入ってきても、すぐ帰り道までは見つからない」
「入口を開けば、光や音で気づかれる可能性はあります」
アヤメが言う。
「完全に隠れたと決めないでください」
「うん」
見えにくくなっただけで、完全に隠れたわけではない。
能力表示の接続先を確認する。
登録していた外部接続地点は消えていない。
ただ、今は入口を開かない。
領域の変化を調べ終わる前に、外との接続を増やす必要はなかった。
◇
外壁は厚かった。
階段を上がると、壁の上を歩ける。
人がすれ違える幅があり、一定の間隔で外側を見下ろせる場所がある。
さらに高い位置には、見張り台らしい小塔が立っていた。
千代とアヤメが先に上がる。
俺はその後ろ。
ナーヴァは階段の幅を見て、不満そうに上がった。
「狭い」
「人の姿なら通れてるよ」
「急げば詰まる」
昨日も聞いた気がする。
「あとで直せるなら、広くしたいな」
「直せるの?」
ヴィオラが下から聞く。
「まだ分からない」
見張り台からは、城壁内の生活区域が見えた。
ただし、外門から中へ入る通路の途中からは、邸宅の全体が直接見えないようになっている。
外壁の内側にも、いくつか壁が増えている。
誰かの生活を見せるための高台ではない。
外側と門前を確認するための高さだった。
「天上城とは違うな」
俺が言う。
「どこがじゃ?」
「見せるための場所がない」
玉座もない。
広い謁見の間もない。
王の部屋だけが大きくなってもいない。
俺の部屋は、昨日までと同じだった。
「そなたを立派に見せる必要がなかったのではないか?」
ナーヴァが言う。
「もう少し言い方なかった?」
「必要なものが先に作られたという意味じゃ」
必要だったもの。
壁。
門。
見張る場所。
物を分けて置ける場所。
負傷者を運び込めそうな場所。
それらが、邸宅と生活区域の周りへ増えている。
王の権威を示す城ではない。
暮らしを外から守るための囲いだった。
◇
外壁の上から、門の方を見る。
昨日までの壁門は残っていた。
ただし、今は新しい外壁の一部へ組み込まれている。
爪痕がある。
蝶番側の歪みも消えていない。
領域が変わったからといって、昨日の損傷がなかったことにはなっていなかった。
その内側に、もう一つ門がある。
「二つになった」
ヴィオラが言う。
「外の門を破られても、次がある」
「やはり城じゃな」
千代が、外壁と二つの門を見渡した。
外門と内門の間には、石造りの通路が続いていた。
真っすぐではない。
何度か曲がり、壁に遮られ、内門へ着くまで生活区域を見通せない。
上と側面には、人が立てそうな場所がある。
「昨日、この形であれば」
千代が通路を見下ろす。
「入った魔物を、すぐ邸宅側へ走らせずに済んだな」
「ここから攻撃できる?」
「できそうには見える。実際に武器を振る空間があるか、味方と重ならぬかは試さねば分からぬ」
城の形になっても、増えた場所が実際に使えるかは試していない。
それでも昨日までより、敵が生活区域へ届くまでの距離は長くなっていた。
◇
ナーヴァが門内通路の側面へ立った。
外門側へ身体を向ける。
「ここなら、昨日より広く焼ける」
「本当に味方を巻き込まない?」
「まだ試しておらぬ」
「今は吐かないでね」
「分かっておる」
壁は石に見える。
でも、炎へ耐えるかは分からない。
煙がどこへ抜けるかも分からない。
ナーヴァのための場所として作られたとも表示されていない。
「使えそうな場所がある、までだな」
「ならば、使えるようにせよ」
「できるならね」
その少し上では、アヤメが門前を観察できそうな隙間を確認していた。
「見える?」
「外門の正面と、通路の一部は」
「隠れて見張れる?」
「相手の目と感覚が分からない以上、見つからないとは言えません」
アヤメは観察位置から内門までの道を戻る。
途中で一度止まった。
「どうした?」
「外門側に敵が入った場合、この道だけでは戻る者と迎えに向かう者が重なります」
「広くなっても?」
「広さだけの問題ではありません。内門が閉じた後、外側へ残った者がどこから戻るかも決まっていません」
見張る場所はできたが、そこから生きて戻る道はまだ決まっていない。
「形は増えました」
アヤメが言う。
「良くなった?」
「使えることを確認するまでは、増えただけです」
城になっても、試すことは減らないらしい。
◇
一通り歩き、邸宅前へ戻った。
全体を見ただけでも時間がかかった。
見ていない部屋もある。
外壁の向こうも確認していない。
外門も開けていない。
分からないことは多い。
それでも、以前より領域が広がっていることだけは間違いなかった。
「結局、何でこうなったの?」
ヴィオラが尋ねる。
「分からない」
「皆で守りたいって言ったから?」
「そう見えるけど、表示には出てない」
「昨日の魔物を倒したからかもしれぬ」
千代が言う。
「侵食を押し返した結果かもしれない」
リゼも続ける。
「全部かもしれないし、どれも違うかもしれない」
分かったことにしない方がいい。
俺は、改めて能力表示を開いた。
通知の続きが出るわけではない。
自分から、現在の状態を確認する。
見慣れた項目の上で、目が止まった。
《淫獄の王》 Lv.4
「上がってる」
「何が?」
ヴィオラが尋ねる。
「《淫獄の王》が、Lv.4になってる」
「いつ?」
「分からない」
昨日まではLv.3だった。
魔物を退けた時か。
守りたいものを話した時か。
振動が始まった時か。
再固定された時か。
正確な時刻は表示されていない。
何がどれだけ影響したのかも分からない。
レベルの下に、見覚えのない項目が増えていた。
「新しいのが出た」
「何?」
「《領域構築》」
「それ、何ができるの?」
「待って。今見てる」
項目を選ぶ。
視界の中に、今までなかった図が広がった。
邸宅。
外壁。
二つの門。
通路。
階段。
塔。
部屋。
さっき歩いた場所が、上から見たような形で示されている。
「何が見える?」
リゼが尋ねた。
「今の《淫獄》の形。たぶん、全体」
「私たちにも見えるようにできる?」
「今は、俺にしか見えてないと思う」
ヴィオラが俺の顔の前へ手を振る。
「何もない」
「うん。俺が説明する」
図には、場所ごとに小さな区切りがある。
選べそうな部分もあった。
でも、触らない。
何が起きるか分からない状態で、誰かの部屋や壁を動かしたくなかった。
「で、何ができそうなの?」
もう一度ヴィオラが聞く。
表示された名前と、選べそうな区画を見る。
「……たぶん、作り直せる」
邸宅は、なくなっていなかった。
皆の部屋も、菜園も、風呂も残っていた。
その全部を囲うように、壁と門が増えていた。
俺が逃げ込むための邸宅は。
帰ってくる生活を守るための城になっていた。




