第176話 守りたいものは、一つじゃない
リゼの指先には、朝になっても痺れが残っていた。
「握ってください」
レイナに言われ、リゼが右手を閉じる。
昨日よりは動いている。
それでも、左手と同じ強さでは握れていない。
「熱は?」
「傷の周りだけだ。広がってはいない」
「痛みはございますか?」
「触れば少し」
レイナは傷の周りを確認し、昨日使ったものとは別の布を巻き直した。
治ったとは言わない。
悪くなっていないことだけを確かめる。
「今日は刃を持たないでくださいまし」
「分かっている」
リゼは素直に答えた。
少しだけ不満そうだったが、昨日のように戦えるとは言わなかった。
俺たちはリゼの腕を守れた。
たぶん。
まだ結果が出ていない以上、それ以上のことは言えなかった。
◇
壁門側には、昨日の跡が残っている。
蝶番に近い部分は歪み、端の隙間は前より広い。
仮設柵の一本は折れていた。
もう一つも縄が緩み、以前と同じ位置には立たない。
水桶の一つは半分以下になった。
清潔な布も減っている。
体液が付いた布と道具は、生活用品から離して置いた。
人型ゴーレムの腕には、灰色の爪でつけられた傷が残っている。
「動きはする」
千代が、ゴーレムの腕が上がるのを見て言った。
「動くことと、使い続けてよいことは別です」
アヤメが答える。
「エウリオへ見せるまでは、重い仕事をさせない方がいいでしょう」
俺たちの物ではない。
それ以前に、傷んだ物を、まだ動くという理由だけで使い続ければ壊れるかもしれない。
「あとで俺が持っていく」
「今すぐ?」
ヴィオラが尋ねる。
壁門を見る。
もう一度警報が鳴った場合、人型ゴーレムがいないのは困る。
でも、壊れるまでここへ立たせることもできない。
「先に、エウリオへ持っていっていいか確認する。持っていくなら、その間のことも決めてから」
「昨日より、守るもの減ってない?」
「減ってる」
柵。
水。
布。
門。
ゴーレム。
リゼの右腕。
一度守っただけで、次に使えるものは少なくなっていた。
◇
魔物の死骸は、昨夜決めた場所から動かしていない。
毒を持っていると思われる個体は、ほかの死骸からさらに離してある。
アヤメは布で口元を覆い、離れた位置から一体ずつ見た。
牙。
短い針。
顎の後ろの膨らみ。
濁った液体が乾いた跡。
どこへ何が付いていたかを、新しい紙へ書いていく。
ナーヴァが、毒を持っていないように見える小型の死骸を示した。
「こやつなら食えるか?」
「毒の有無も、加熱で安全になるかも未確認です。今は食べません」
アヤメの返事は早かった。
ナーヴァが死骸から目を離す。
まだ諦めてはいないと思う。
ただ、勝手に持っていこうとはしなかった。
「どうすれば分かる?」
俺が尋ねる。
「肉、内臓、体液を分けます。変色や臭い、時間による変化も見ます。既知の毒に似た反応があるかも調べます」
「最後は食べるの?」
「食べられる可能性まで調べるなら、いずれは摂取による確認が必要になるかもしれません」
アヤメは自分の手を見る。
「私には耐毒があります」
言われる前から、何を考えているのか分かった。
アヤメなら、ほかの者より耐えられるかもしれない。
召喚された時に飲んでいた量でも、数日寝込んで回復した。
毒の知識もある。
少量を試すなら、一番向いている。
そう考えた。
考えてしまった。
「アヤメには頼まない」
俺が言うと、アヤメが顔を上げた。
「調査をしないのですか?」
「食べるのは頼まない」
「耐えられる可能性は、私が一番高いです」
「だからって、最初に食べてもらう理由にはならない」
「私の能力は必要なのでしょう?」
「必要だよ」
そこは誤魔化さない。
俺はアヤメの能力を欲しいと思って選んだ。
今も毒の知識は必要だった。
「必要だから、使い潰していいことにはならない」
アヤメは何も言わなかった。
「調べた結果、アヤメが自分で必要だと思って提案するなら、その時にもう一度考える。でも、耐毒があるから先に食べてくれとは言わない」
「私が提案しても、止める可能性は?」
「ある」
「私が提案しても、危険なら止めるのですね」
「たぶん」
アヤメはしばらく俺を見た。
「……そうですか」
それだけ言って、記録へ戻る。
何を考えたのかは分からない。
ただ、その後もアヤメは試料へ口をつけなかった。
◇
食べられるかどうかの確認は、今日中に終わらない。
死骸を種類ごとに離し、近づける者を決め、観察だけを続ける。
俺たちは壁門側へ戻った。
「直す順番を決めよう」
千代が言う。
「門が先じゃ」
ナーヴァが即答する。
「風呂ではないんだな」
「門が破られれば、風呂へ入りながら敵を待つことになる」
「そこまでして入るの?」
ヴィオラが聞く。
「入らぬ」
ナーヴァは少し考える。
「ゆえに、風呂へ入れる状態を守るには門が要る」
ナーヴァが門を守りたいわけではない。
門の向こうにある生活を失いたくないから、門が必要だった。
「私は、水と布を先に戻したいですわ」
レイナが言う。
「次に負傷者が出ても、洗う物が足りなければ治療を始められませんもの」
「食料も分け直します」
ファステが続ける。
「昨日、治療用品を取り出すために物資箱を動かしました。食料と衣類まで同じ場所へ寄せれば、火や体液で一度に使えなくなります」
「柵も直さないと」
ヴィオラが、折れた木を見る。
「あれがなかったら、最初の一体がもっと奥まで来てた」
「でも、同じ物を直すだけでは次も折れる」
リゼは右手を使わず、左手で傷んだ門を示した。
「門の前で迎え撃つ者と、後ろへ運ぶ者が同じ道を使っている。昨日は詰まらなかったが、敵がもう一体多ければ分からなかった」
「全部必要だな」
俺が言う。
「だから困っておる」
千代が答えた。
門だけ直せばいいわけではない。
水と布だけでもない。
柵だけでもない。
命さえ助かれば、ほかは全部失ってもいいとも思えなかった。
ヴィオラが選んだ私物。
ミネットが置いていった本と衣服。
セリナが帰ってきた時に休める寝床。
ファステが使う台所と、セリナからもらった茶葉。
レイナが負傷者を寝かせられる場所。
ナーヴァが気に入っている風呂。
畑の作物。
武器と工具。
誰かが一人で静かに眠れる部屋。
一つだけ残っても、今の生活には戻れない。
「前は、安全ならそれでいいと思ってた」
俺は言った。
外に出なくていい。
誰にも見つからない。
危険なものが入ってこない。
最初に欲しかったのは、それだけだった。
「でも、俺が閉じこもるためだけの場所じゃ、もう足りない」
ミネットは学校へ行く。
セリナは旅をする。
アヤメも、自分の目的と仕事のために外へ出る。
エウリオのように、必要な時だけ来る者もいる。
「外へ行かなければ安全なのかもしれない。でも、外へ行かないように守りたいわけじゃない」
「では、何を守るのじゃ?」
「外へ行っても、帰れるようにしたい」
門を閉じたまま、全員を内側へ置けばいいわけではない。
帰る義務はなくていい。
いつ帰るかも、自分で決めればいい。
それでも帰ろうとした時、ここが残っていてほしい。
「守りたいものは、一つじゃないんだと思う」
人。
道。
物。
暮らし。
それを自分で選べること。
全部を無傷で残せるとは思わない。
でも、どれか一つだけ守ればいいとも思えなかった。
◇
「前に、退路を守りたいと言ったね」
俺が尋ねると、アヤメが頷いた。
「今も変わりません」
「アヤメだけが使える道でいい?」
少し前なら、すぐに肯定したかもしれない。
アヤメは傷んだ壁門を見る。
次に、リゼの巻かれた腕。
壊れた柵と、減った水桶を見る。
「自分の退路だけではありません」
ゆっくりと言った。
「ここにいる者が逃げられる道も必要です」
「皆を先に逃がす?」
「そこまでは言っていません」
すぐに否定された。
「私の退路を塞がない形で、ほかの者も使える道が必要です」
「うん」
「なぜ笑うのですか」
「笑ってた?」
「少し」
アヤメが俺を見る目は、まだ疑う時のものだった。
でも、最初にここを牢ではないかと疑っていた時より、少しだけ違って見えた。
気のせいかもしれない。
今は確かめなくていい。
◇
その日の修理は、できるところまでで終わった。
折れた柵は、完全には戻らない。
水は別の桶から移し、治療用として使う分を分けた。
壁門には近づきすぎず、隙間の前へ仮の板を置いた。
人型ゴーレムは重い作業から外し、従来の位置で待機させた。
夜になり、全員が邸宅へ戻る。
警報は鳴らなかった。
壁門を叩く音もしない。
それでも、寝台へ入ってしばらくした頃。
低い振動で目が覚めた。
「……また?」
靴を履く。
外套をつかみ、部屋を出る。
廊下にはリゼとファステが出ていた。
ほかの部屋からも扉が開く。
「警報は?」
「鳴っていません」
ファステが答える。
石製ゴーレムの警報音はない。
壁門への衝撃音もない。
なのに、足元が震えている。
一度。
止まる。
今度は壁の奥から、長く低い音がした。
土や石が、見えないところで動いているような音だった。
「灰色のやつか?」
俺が言う。
「決めるな」
リゼが答える。
「でも、壁門側は閉じたままだ。全員、まず邸宅へ集める」
訓練の時とは違う。
今は移動する役割がない。
壁門へ確認に行くより、未知の変化から離れる。
千代とナーヴァも戻ってくる。
アヤメは通路の床へ手を触れた。
「外から近づいている振動ではありません」
「分かるの?」
「門側だけではなく、ここも同時に動いています」
邸宅の床も、壁門へ続く通路も震えている。
菜園側からも、かすかな音が響く。
一つの方向から押されているようには見えない。
灰色の床が広がっている様子もなかった。
「侵食ではないのか?」
千代が尋ねる。
「分からない」
能力表示を確認する。
侵食を示す表示はない。
領域保全の新しい説明もない。
入口は閉じている。
それ以上は、何も教えてくれない。
「外へ出る?」
ヴィオラが尋ねた。
「今、外へつないで安全か分からない」
通常入口を開けば、現地世界との接続が増える。
何が起きているのか分からない状態で開きたくない。
「邸宅から出ない。壁から離れて、揺れが止まるまで待つ」
俺たちは共用区画の中央へ集まった。
今度は所在確認のためだ。
移動する者はいない。
誰も壁門へ走らない。
振動が、また強くなる。
棚の器が小さく鳴った。
天井から埃が落ちる。
ナーヴァが上を見る。
「壊れるのか?」
「分からない」
「分からぬことばかりじゃな」
「うん」
でも、昨日とは違うことが一つあった。
外から、何かが門を叩いている音ではなかった。
今度は、俺たちが守ろうとした場所そのものが。
内側から、形を変えようとしていた。




