第170話 次は、海の向こうへ
エウリオから別の道を聞いた後も、セリナは船で行くための情報を集め続けた。
朝に出て、夕方に戻る日もあった。
戻らず、街で一晩泊まった日もあった。
同じ場所から何度も現れたと思われないように、第二接続地点から離れてから道を変えたらしい。
街の門へ近づく前には、兵の数や人相書きも確認していた。
俺との関係は話していない。
《淫獄》についても話していない。
アヤメに調べてもらったわけでもない。
セリナが、自分の次の旅のために調べた。
そうして数日が過ぎた。
◇
「ここから、港まで」
食堂の卓へ地図が広げられた。
新品ではない。
何度も折り畳まれ、端が少し擦れている。
地図の上には、セリナが書き加えた印がいくつもあった。
「この道が一番短い。ただ、橋が壊れてるって話もあった」
「通れないの?」
「荷車は難しいらしい。歩けるかは、行ってみないと分からない」
セリナの指が、別の道をなぞる。
「こっちは遠いけど、乗合馬車がある。途中までなら、港へ向かう隊商も見つけられるかもしれない」
「護衛の仕事を受けるのか?」
リゼが尋ねた。
「条件がよければ」
「悪ければ?」
「自分で歩く」
もう港までの行き方を決めたのかと思ったが、違うらしい。
短い道。
遠いが馬車を使える道。
仕事をしながら進める道。
いくつかの選択肢を持ったまま、出発する。
「宿は?」
ファステが尋ねる。
「この辺りと、ここ。水を補給できる集落も聞いた」
「食料は足りますか?」
「港までなら。途中で買える分は、全部持っていかない」
「それで、船はいつ出るんだ?」
俺が聞くと、セリナは地図から顔を上げた。
「分からない」
「そこは分からないの?」
「船が増える季節は聞いた。でも、次に出る日までは、港へ行かないと分からない」
別大陸へ向かう船があること。
時期によって数が変わること。
客として乗る場合の、おおよその船賃。
荷物が多ければ、別に金を取られること。
港で使われる貨幣と、両替を扱う場所。
そこまでは確認できた。
けれど、実際にどの船が出るのかは分からない。
船ごとに着く港も、乗せられる荷物も違う。
身分を確かめられることもあれば、紹介を求められることもあるらしい。
船の上で食料を出すのか。
水は船賃に含まれるのか。
客室があるのか。
甲板の隅で寝るのか。
船上の仕事を引き受ければ、安く乗れるのか。
話した人によって、答えが違っていた。
「どれが本当なの?」
ヴィオラが聞く。
「どれも、その人が使った船では本当だったのかもしれない」
「今は違うかもしれない?」
「うん」
古い情報が間違いとは限らない。
誰か一人の話だけを、今も正しいと決めることもできない。
「じゃあ、どうするの?」
「まず港まで行く」
「そこですぐ船に乗る?」
「船を見て、条件を聞いて、それから決める」
急いで最初の船へ乗るつもりはないらしい。
港の治安が悪ければ、別の港を探す。
金が足りなければ、仕事をする。
出る船の行き先が望んだ場所と違えば、待つか、行き先を変える。
「エウリオが話していた港へ行くのか?」
千代が尋ねた。
「候補には入ってる。でも、エウリオがいた頃と同じとは限らない」
「迷宮の道は調べぬのか」
「今は調べない」
セリナは迷わず答えた。
「使わない道を調べるより、港までの道を確かめる」
別経路を知った。
それでも、セリナがやることは変わらなかった。
確認できる道を通って、港へ行く。
船を見て、乗るかどうかを決める。
◇
「いつ出るの?」
「明日の朝」
答えは決まっていた。
「いつ戻る?」
続けて聞いてから、セリナが答える前に気づいた。
港まで何日かかるかも、まだ確定していない。
どの船へ乗るかも決めていない。
別大陸へ着いた後、どこへ行くのかも決めていない。
「戻る日は決めない」
「うん」
「決めても、守れるか分からないから」
「それも、うん」
戻る日を決めてもらえれば、少しは安心できる。
その日まで待てる。
遅れたら心配できる。
けれど、それは俺が安心するための約束だ。
海の向こうで予定が変わったセリナを、無理に急がせる理由にはならない。
「でも、戻らないとも決めてない」
セリナが付け加えた。
「帰る時は、どうする?」
「まず、こっちの大陸まで戻る」
「その後は?」
「使える接続地点を探す。近くまで来られたら、目印が反応するんでしょ」
「たぶん。でも、遠くから話せるわけじゃない」
「分かってる」
《帰還目印》は、何でも解決してくれる道具ではない。
遠くから入口を開くこともできない。
セリナが危険な目に遭った時、俺へ知らせてくれるわけでもない。
それでも、戻るために使える物の一つではある。
使う日が来るかどうかは、セリナが決める。
◇
翌朝。
食堂へ行くと、セリナの旅支度は終わっていた。
洗った旅装。
丈夫な靴。
腰の短い刃物。
数日前に帰ってきた時と似た姿だ。
ただ、背負い袋の留め具だけは新しくなっていた。
「これなら、すぐには外れませんわ」
レイナが革紐を引いて確かめる。
「勝手に直してないよね?」
「昨日、セリナさんへ確認いたしましたわ」
「うん。頼んだ」
「ならよかった」
「夜斗が確認すること?」
「一応」
「私の背負い袋だけど」
「だから確認した」
セリナが、少しだけ笑った。
背負い袋の中には、地図と覚え書き。
水袋。
保存食。
薬。
予備の布。
仕事に使う道具。
用途ごとに分けた貨幣。
壊れた方位磁針も、ほかの道具と一緒に収められた。
「こちらもお持ちください」
ファステが、小さく包んだ保存食を卓へ置く。
「共同の食料?」
「はい。旅へ出られる方へお渡しする分として、皆様へ確認いたしました」
「全部はもらわないよ」
「港までに必要と思われる分です」
セリナが包みを持ち上げ、重さを確かめる。
「じゃあ、もらう。足りない分は途中で買う」
「お気をつけて」
「ありがとう」
ナーヴァが、背負い袋を横から見ている。
「肉は入っておるのか」
「少し」
「海の向こうには、こちらにいない獣がおるかもしれぬ」
「いるかもね」
「食って確かめよ」
「食べられるか確認してからね」
「当然だ」
ナーヴァが言うと、アヤメがそちらを見た。
「未知の獣は、焼けば安全とは限りません」
「では、何を見ればよい」
「それを今から説明しても、旅へ出るのはセリナです」
「我もいずれ行けばよい」
「竜が港へ降りれば、船より先に兵が集まります」
「面倒だな」
「うん。だから今回は私が行く」
セリナが背負い袋を背負った。
肩紐の位置を直す。
腰の刃物へ手が届くことを確かめる。
一度下ろして、中身の偏りを直した。
出発前だからといって、特別なことはしない。
いつもの旅へ戻るための確認を、一つずつ終わらせている。
「尾けられたと思ったら、接続地点へ直接戻らないでください」
アヤメが言った。
「分かってる」
「見失わせたと思っても、時間と経路を変えてください」
「それもやる」
「戻る直前に、周囲を二度確認してください」
「三つ目」
「何が?」
「出発前の注意。夜斗みたいになってる」
アヤメが俺を見た。
「私は、必要なことだけを言っています」
「俺もそのつもりなんだけど」
「夜斗は増えます」
「まだ何も言ってないよ」
「顔に出ています」
言おうとしていたことはあった。
危険なら引き返してほしい。
無理な仕事は受けないでほしい。
船が怪しかったら乗らないでほしい。
海の魔物が多い時期なら待ってほしい。
それから。
「何を言おうとしてたの?」
セリナに聞かれた。
「……気をつけて」
「それなら聞く」
ほかは飲み込んだ。
◇
セリナが持っていかなかった物もある。
着替えが一組。
旅先で手に入れた、小さな木の器。
今の旅には使わない布。
乾燥させた草の束。
どれも、専用の部屋へ置いたわけではない。
保管場所の棚へ、セリナの物だと分かる札を付けて収めた。
「持っていかないの?」
「全部持つと重いから」
「次に使うかもしれない?」
「使うかもしれないし、使わないかもしれない」
「帰ってきた時まで取っておく」
「勝手に使わなければ、それでいい」
帰ってくる約束として残したわけではない。
持ち歩く必要がないから置いていく。
それだけだ。
それでも、セリナの物が《淫獄》に残った。
◇
通常入口の前には、俺とリゼとセリナが立った。
全員で外へ出る必要はない。
見送りに来た皆も、入口から少し離れている。
「開ける」
第二接続地点を思い浮かべる。
入口を、人一人が通れないほど細く開いた。
外の光が差し込む。
水の流れる音。
湿った土と草の臭い。
人の声は聞こえない。
見える範囲に動く影もない。
一度閉じる。
少し待った。
その間に、外側で誰かが近づいた様子はない。
もう一度、細く開く。
さっきと同じ水音。
同じ明るさ。
入口を広げると、リゼが先に外へ出た。
「待ってろ」
短く言い残し、周囲を確認する。
入口から見えない場所まで進み、足跡や人影を調べて戻ってきた。
「新しい足跡はない。近くに人もいない」
「分かった」
今、確認できる範囲では安全だ。
それ以上の意味にはしない。
「街道までは、まっすぐ行かない」
セリナが言った。
「一度、林の側へ回る。誰かに見られてたら、そのまま街道へは出ない」
「港へ行くって、誰にも言わない?」
「仕事を受けるなら、行き先は話す。必要のない相手には話さない」
「帰る場所も?」
「話さない」
セリナが境界の前へ立つ。
数日前には、帰るためにここを越えた。
今日は、次の旅へ出るために越える。
「港まで着いたら――」
「夜斗」
「はい」
「出発が遅れる」
「まだ一つしか言ってない」
「その後に増えるでしょ」
否定できなかった。
「……行ってらっしゃい」
「行ってくる」
セリナは一歩進み、境界を越えた。
外へ出てから、皆の方を見る。
「次は、海の向こうへ」
別大陸へ着くのは、まだ先だ。
まず港へ行く。
船を見て、条件を聞く。
乗るかどうかは、それから決める。
それでも、セリナの次の旅はもう始まっていた。
リゼが外へ出る。
セリナが林へ入り、姿が見えなくなるまで待った。
リゼが戻る。
俺は入口を閉じた。
◇
外の光が消えた。
水の音も聞こえなくなる。
そこに残ったのは、《淫獄》の壁だった。
「行ったな」
リゼが言う。
「うん」
「寂しい?」
「少し」
「止めればよかったと思うか?」
「それは思わない」
セリナは、自分で行く先を決めた。
危険がない旅ではない。
帰る日も決めていない。
途中で別の場所へ向かうかもしれない。
それでも、中へ留めておくことが安全だとは思わなかった。
セリナが自由に旅を続けるなら、俺たちにできることは少ない。
けれど、一つだけある。
「帰ってこられる場所は、残したい」
声に出すと、リゼが俺を見る。
「セリナのために?」
「セリナだけじゃない」
学校へ戻ったミネット。
今はいないセリナ。
これから外へ出るかもしれない皆。
帰りたいと思った時、帰還目印を持っていても。
入口を開く先そのものがなくなっていたら、戻れない。
俺たちは一度、門前空間を失っている。
固定前室門も消えた。
今の壁門の外には、《万物迷宮》がある。
そこから来る魔物を止めているのは、壁門と、その時にいる者たちだ。
リゼ。
ナーヴァ。
千代。
エウリオが置いた人型ゴーレム。
強い者がいれば、今までは何とかなった。
でも、その全員がいつも壁門の近くにいるわけではない。
「今のままで、残せるかな」
「何を?」
「ここ」
俺は閉じた入口ではなく、その向こうにある《淫獄》全体を見た。
住民が自由に出ていける場所でいるためには。
出ていった者が戻ろうとした時まで、残っていなければならない。
セリナは、海の向こうへ行くために出ていった。
戻る日は決めなかった。
それでも、戻らないとは決めていない。
なら俺たちは、次にセリナが帰ろうとした時まで、ここを残さなければならない。




