第168話 住んでいるとは、決めていない
セリナが帰ってきてから、三日が過ぎた。
その間に、背負い袋の中身が全部出されることはなかった。
洗った旅装は乾いている。
腰の刃物も、元の位置へ戻っている。
数日は休むと言っていたが、いつでも歩き出せる姿だった。
「今日は、港へ行く道を調べる」
朝食を終えたセリナが言った。
「もう出発するの?」
「調べるだけ。ここから一番近い港に、別大陸へ行く船があるとは限らないから」
「港まで行くのか?」
「今日は行かない。エウリオが借りた街で、地図か船の話を探す」
「街に行くのは危なくないか?」
「夜斗たちを探してる街とは違うんでしょ」
「違う。でも、俺の噂がどこまで広がってるかは分からない」
「私の顔は、その噂に入ってる?」
「たぶん、入ってない」
「なら、普通に入れるかもしれない」
「かもしれないで行くの?」
「門の外から様子を見て、危なそうなら入らない」
もう決めているらしい。
止める理由を探していると、意識の端へ小さな反応が触れた。
身体に触れられたわけではない。
音がしたわけでもない。
けれど、何度か感じたことがある。
《帰還目印》の反応だ。
「待って」
俺が立ち上がると、リゼもすぐに椅子から離れた。
「誰か来た?」
「たぶん」
「どの目印?」
「そこまでは分からない」
分かるのは、登録した誰かが帰還を求めているらしいことだけだ。
今、外にいる住民の状況から考えれば、ミネットの可能性が高い。
ただし、反応だけで、誰がどの目印を持っているかまで分かるわけではない。
「俺とリゼで見る」
「我も行くぞ」
ナーヴァが立つ。
「最初は近くで待ってて。外に何かいたら呼ぶ」
「呼ぶ前に入ってきたらどうする」
「その時は壁門側を守って」
「むう」
納得はしていなさそうだが、役目は受け入れた。
俺とリゼが邸宅を出る。
セリナも少し遅れてついてきた。
「セリナは中で待っててもいいよ」
「前に私を迎えた入口でしょ」
「そうだけど」
「誰がどう戻るのか、見ておきたい」
自分も次に使う可能性がある。
そう言われると、止める理由はなかった。
◇
邸宅玄関の近くで、外の接続地点へ意識を向ける。
いきなり人が通れるほどには開かない。
細い隙間だけを作る。
外の光が差し込んだ。
水と土の臭い。
それから、見覚えのある鞄の端が見えた。
「ミネット?」
「はい」
すぐに返事があった。
「一人?」
「縁と一緒です」
「周りに誰かいる?」
「今見える範囲にはいません。しばらく待ち、後をつけられていないことも確認しました。ただし、完全に安全だとは断定できません」
ミネットらしい答えだった。
リゼが隙間から外を見る。
反対側も確認してから、一度入口を閉じた。
「もう一回開く」
「ああ」
今度は、人一人が通れる幅まで広げる。
ミネットが先に境界を越えた。
学校へ戻った時と同じ鞄を肩へ掛け、記録帳を胸元へ抱えている。
その足元から、縁が自分で入ってきた。
呼ばれていない。
抱き上げられてもいない。
境界を越えると、縁は一度だけ周囲の臭いを嗅いだ。
「おかえり」
「ただいま戻りました」
ミネットが小さく頭を下げる。
「学校は?」
「本日は授業がありません。明日の夕方までに戻れば問題ありません」
「何かあった?」
「ありません」
「本当に?」
「少なくとも、私が戻る理由になった異常はありません」
「じゃあ、どうして?」
「戻りたいと思ったからです」
前より少しだけ早く出た答えだった。
「それと、置いてある本を確認します。衣服も一組しかありませんので、滞在に必要な物が不足していないか確かめます」
「やっぱり確認することはあるんだ」
「戻りたいことと、戻ってから必要なことがあることは両立します」
入口を閉じる。
そこで、ミネットが俺たちの後ろにいるセリナへ気づいた。
視線が止まる。
セリナもミネットを見ていた。
「こちらの方が、セリナさんですか?」
「そう。ミネット?」
「はい。初めまして」
「初めまして」
名前だけは、互いに聞いている。
それでも、会うのは初めてだった。
先に動いたのは縁だった。
ミネットの足元から離れ、セリナの方へ数歩進む。
途中で止まり、鼻を動かした。
「この小さいの、前にもいたね」
「縁です」
「前に、足の匂いを嗅がれた」
「そうだったのですか」
「ミネットは聞いてなかった?」
「はい。今初めて知りました」
縁が、セリナの靴へ近づく。
以前のことを覚えているのかは分からない。
ただ臭いが気になるだけかもしれない。
セリナは手を伸ばさず、その場で待った。
縁は靴の先の臭いを一度嗅ぐと、ミネットのところへ戻った。
「覚えてた?」
俺が聞く。
「確認できません」
ミネットが答える。
「でも、自分で近づいて、自分で戻った」
セリナが言った。
「今分かるのは、それだけだね」
「はい」
ミネットの表情が、少しだけ柔らかくなった。
◇
邸宅へ戻ると、改めて全員へミネットの帰還を伝えた。
ナーヴァは、異常がなかったと聞いて少し残念そうだった。
「戦う必要はないのか」
「ない方がいいだろ」
「戻ってきた祝いに、何か食う必要はある」
「それは戦わなくてもできる」
「ならば食おう」
結局、昼の食事を少し増やすことになった。
ミネットは自分の本と衣服を確認した。
本は置いた時のまま。
衣服も、ファステがほかの洗濯物と混ざらないよう分けて保管していた。
「ありがとうございます、ファステさん」
「お戻りになった時にお使いになる物ですから」
「次にいつ戻るかは決めていませんでした」
「決まっていないことと、粗末に扱ってよいことは違います」
ミネットが頷く。
セリナは、そのやり取りを少し離れたところから見ていた。
「ここに住んでるの?」
昼食の席で、セリナがミネットへ尋ねた。
「《淫獄》に、ですか?」
「うん」
ミネットは、すぐには答えなかった。
食堂。
置いてある本。
保管されていた衣服。
自分の足元にいる縁。
それらを順番に見てから、口を開く。
「住民として登録されています。泊まることもあります。私物も置いています」
「でも?」
「ここへ住み続けるとは決めていません」
「学校があるから?」
「それも理由です。私はまだ学びたいことがあります」
「卒業したら、ここに住む?」
「卒業する時に考えます」
「まだ決めないんだ」
「はい」
セリナは、自分の器へ目を落とした。
「私も似てるのかな」
「セリナさんも、住民なのですよね」
「登録はされてる。でも、旅は続ける」
「次は別大陸へ行くと聞きました」
「行くつもり。まだ船も港も決めてないけど」
「《淫獄》へ戻る予定はありますか?」
「戻りたいと思ったら戻る」
「時期は?」
「決めてない」
ミネットが記録帳へ手を伸ばしかけた。
途中で止める。
「書かないの?」
セリナが尋ねる。
「今聞いた内容には、まだ具体的な予定がありません」
「ない予定を、ないって書かない?」
「必要になれば書きます」
「何でも書くわけじゃないんだ」
「記録すること自体が目的ではありませんから」
少し考えてから、ミネットは記録帳から手を離した。
「それに今は、セリナさんと話しています」
セリナが一度だけ瞬きをする。
「そう」
短い返事だった。
嫌そうには見えなかった。
「縁は、ミネットのものになったの?」
セリナが尋ねたのは、その後だった。
縁はミネットの椅子の下で身体を丸めている。
「いいえ」
ミネットの返事は早かった。
「使い魔になったって聞いたけど」
「契約は成立しました。でも、所有物ではありません」
「契約したら、命令を聞くんじゃないの?」
「私と縁の契約は、私が一方的に命令するものではありません」
「何ができるの?」
「近くにいれば、存在と大まかな方向を感じられます」
縁は椅子の下から出ると、ミネットの足へ身体を寄せた。
「縁が自分で決めてるなら、それでいいんじゃない?」
「……はい」
「違った?」
「いいえ」
ミネットは、少しだけ笑った。
「学校へ行く時も、縁が自分でついてきます」
その答えにも、迷いはなかった。
◇
ミネットは、その夜《淫獄》へ泊まった。
明日の夕方までに学校へ戻る。
それ以上の滞在は決めていない。
セリナも、翌朝にエウリオが借りた街へ向かうか、門の様子を見てから決めると言った。
二人とも《淫獄》の住民だった。
二人とも、ここに住み続けるとは決めていなかった。
ミネットには学校がある。
セリナには、これから向かう道がある。
外に自分の生活を持ったまま、それでも二人ともここへ戻ってきた。
「何を考えているのですか?」
ミネットが尋ねる。
「二人とも、住んでるって言わないんだなって」
「事実ですから」
「住んでないとも言わないけどね」
セリナが続ける。
「難しいな」
「どちらかに決めなければならないの?」
「いや」
すぐに答えられた。
学校から戻ってきたミネットも。
旅から帰ってきたセリナも。
ここへ住み続けるとは決めていない。
それでも二人が、帰ってきた場所は同じだった。




