第167話 黒瀬夜斗で、間違いないか
「神崎君、右」
小川ひなたの声で、神崎蓮は足を止めた。
剣を振る前だった。
右から来た木剣が、蓮の胸元すれすれを通り過ぎる。
「今のは見えてただろ」
「見えてた。避けるのが少し遅れただけだ」
「それを、見えていなかったと言うんじゃない?」
少し離れた場所で、高峰美咲が笑っている。
「高峰、笑っている暇があるなら次だ」
訓練を見ていた男に呼ばれ、美咲の顔から笑みが消えた。
「今日は魔法を使わないって聞きましたけど」
「使わずに動く訓練だ」
「私の長所を消してません?」
「魔力を使えない状況になったら、そこで動くのをやめるのか」
「その時は神崎に任せます」
「俺に寄せるなよ」
「ほら。神崎君も嫌がってるよ」
ひなたが言う。
「嫌とは言ってない」
「じゃあ任せた」
「全部とは言ってない!」
三人の声が訓練場へ響いた。
以前より、魔物を相手にした動きは良くなっている。
それでも、できないことはまだ多い。
魔法を使わない美咲は、木剣を持った相手との距離を何度も間違えた。
蓮は攻撃へ意識を向けすぎると、足の痛みを忘れる。
ひなたは二人を見ながら動くため、自分へ向けられた攻撃への反応が遅れることがあった。
一度できたことが、次もできるとは限らない。
だから今日も訓練する。
◇
「甘い物が食べたい」
訓練が終わると、美咲は長椅子へ身体を預けた。
「昨日も食べてただろ」
「昨日食べたことと、今日食べたいことは関係ないでしょ」
「少しは関係あるよ。食べすぎたら身体に良くないし」
ひなたが美咲の腕を確認しながら答える。
「訓練したから消費してる」
「どのくらい?」
「甘い物一個分」
「都合のいい計算だな」
三浦悠斗が、水野葵と一緒に訓練場へ入ってきた。
「二人とも、今日は見に来なかったな」
蓮が尋ねる。
「別の場所へ呼ばれてた」
「また聞き取り?」
「いや。前に話した内容を確認されただけだ」
「それを聞き取りって言うんじゃない?」
美咲が身を起こす。
「何を聞かれたの?」
水野はすぐに答えなかった。
三浦と目を合わせてから、蓮たちを見る。
「黒瀬君のこと」
蓮は、手に持っていた布を落とした。
「黒瀬が見つかったのか?」
「まだ分からない」
「何を聞かれた?」
「外見と、年齢。それから、転移する前の黒瀬君について」
「どこにいる?」
「だから、まだ分からないって」
「何かあったから聞いたんだろ」
三浦が、落ちた布を拾って蓮へ渡した。
「俺たちも詳しい話は聞いてない。五人揃ってから説明するらしい」
「いつ?」
「今から」
「先に言えよ!」
「お前が質問を重ねたんだろ」
疲れていたはずの身体が、急に軽くなった気がした。
着替える時間も惜しい。
けれど、訓練用の服のまま話を聞きに行こうとして、ひなたに止められた。
「汗を拭いてから」
「今、それ必要か?」
「必要だよ」
「黒瀬の話なんだぞ」
「黒瀬君の話を聞くことと、汗まみれで部屋へ入ることは関係ないよ」
「早く拭けば、その分早く行けるだろ」
三浦まで手拭いを投げてくる。
蓮はそれを受け取り、急いで顔を拭いた。
◇
五人が通されたのは、以前、過去の転移者について聞いた部屋だった。
同じ机。
同じ椅子。
だが、待っていた者は前より多い。
聞き取りを担当した男のほかに、文官らしい者が二人いる。そのうち一人の前には、封を切られた書面が何枚も置かれていた。
「訓練の直後に申し訳ありません」
「黒瀬が見つかったんですか」
蓮は座る前に尋ねた。
「その可能性が生じました」
「生きてるんですか」
「それも含め、まず報告の内容を確認してください」
答えを避けられた。
蓮は納得できなかったが、水野に袖を引かれて椅子へ座った。
書面が、机の中央へ置かれる。
「帝国領内のある街から、地下施設の異変に関する報告が届きました」
街の名前を聞いても、蓮には分からなかった。
ここからどの方角にあるのかも、何日かかるのかも知らない。
「その異変へ関係した人物の名が、夜斗と記録されています」
胸が強く鳴った。
「黒瀬だ」
口から先に出た。
「待って」
美咲が書面へ視線を落としたまま言う。
「名前が同じだけかもしれないでしょ」
「夜斗って名前が、そんなに何人もいるのか?」
「知らないよ。この世界で珍しい名前かどうかも分からない」
水野も頷いた。
蓮は言い返しかけて、止めた。
黒瀬であってほしい。
生きていてほしい。
それでも、この報告の夜斗が黒瀬だとはまだ決められない。
「……続けてください」
担当者が頷いた。
「報告にある人物は、黒い髪の若い男性です。姓は記録されていません。年齢は正確には分かりませんが、あなた方と大きくは違わないようです」
「顔は?」
「絵はありません。人相の記録も十分ではありません」
「それだけでは判断できないな」
三浦が言う。
「ほかに何をした人なんですか?」
ひなたが尋ねた。
文官が、一枚目の書面をめくる。
「異空間に関係する固有能力を持つ可能性が高いとされています」
五人の誰も、すぐには言葉を返さなかった。
五人が知る転移前の黒瀬に、そんな能力はなかった。だが、こちらへ来てから得た可能性までは否定できない。
担当者は、その説明も書き留めた。
「その異空間は、街の近くに存在していた地下施設の入口と接続したと報告されています。当初は人の往来も確認されましたが、後に地下側から魔物が侵入しました」
「街へ?」
「異空間へ、です。少なくとも、報告上は」
聞き取りの男が補足する。
「夜斗という人物は、探索者組合へ異変を報告しています。地下から来た魔物との戦闘に参加し、組合の巡回者を救助した記録もあります」
「じゃあ、黒瀬は人を助けたんですね」
ひなたの声が明るくなる。
「この夜斗という人物が黒瀬さん本人なら、です」
「それでも、助けた人はいるんですよね」
「その記録はあります」
一つだけ、良い話があった。
けれど、書面はそこで終わらなかった。
「その後、地下へ至る従来の経路が失われました」
「失われた?」
「入口の先が石壁に塞がれ、地下へ進めなくなったとされています」
「夜斗が消したんですか」
水野の問いに、文官は首を横へ振った。
「確認されていません」
「では、どうして夜斗の話になっているんです?」
「従来の経路が消える前、その異空間が途中に存在していたためです。また、夜斗とその同行者は、経路消失後に別の場所から戻っています」
「別の入口を持っている?」
「その可能性があると考えられています。ただし、場所は確認できていません」
三浦が椅子へ深く座り直した。
「つまり、その地方の領主は、地下が使えなくなった原因を夜斗だと疑っている」
「重要な関係者として捜索しています」
「犯人とは書いていない?」
「正式な報告には、原因を作ったと断定する記述はありません」
「正式ではない方には、あるんですね」
美咲が言う。
文官は、別の紙へ手を置いた。
「街と周辺では、複数の噂が広がっているようです」
「聞かせてください」
「地下を奪った。別の入口を隠している。魔物を飼っている。通行料を取ろうとしている。領主へ反乱しようとしている」
「黒瀬が?」
蓮には、どれもすぐには結びつかなかった。
夜斗は、集団の中心に立って皆を引っ張るような男ではなかった。
だが、だから何もできない人物だったわけでもない。
人に言われた通りに動くより、自分が納得できる場所へ行く。
蓮が覚えている夜斗は、そういう男だった。
「反乱は、少し違う気がする」
美咲が言った。
「どうしてですか」
「夜斗、誰かの上に立ちたいようには見えなかったから」
「領主に逆らう可能性は?」
「それはあるかも」
「あるのかよ」
蓮が見ると、美咲は肩をすくめた。
「納得できないことを押しつけられたら、嫌がるでしょ。でも、領地を取って王様になりたいとかは違うと思う」
「異空間の王を名乗っているという話もあります」
部屋が静かになった。
「王?」
美咲が聞き返す。
「能力名に含まれる呼称である可能性と、本人が実際に王を称している可能性の両方が記されています。どちらが正しいかは確認できていません」
「能力名は分かってるんですか」
「正確な名称は、中央へ届いた報告にはありません」
「分からないことが多すぎるな」
三浦の言葉に、担当者も否定しなかった。
「ほかに、竜を従えているとの噂があります」
「竜?」
今度は五人の声が重なった。
「人の姿を取る竜が同行している。領主の街を焼こうとしている。既に地下で多数の魔物を焼いた。内容は一定していません」
「それ、同じ話なんですか?」
ひなたが困った顔をする。
「異なる証言や噂が混ざっている可能性があります」
「黒瀬が竜を従えるところ、想像できる?」
美咲が聞く。
「できない」
蓮は答えた。
「でも、この世界へ来てから何があったか知らない」
「俺たちだって、魔物と戦ってるからな」
三浦が言う。
「転移前の黒瀬だけで、今の行動まで決めるのは危険だ」
「だからって、噂を全部本当にはできないよ」
水野が書面を見る。
「私たちが分かるのは、名前と外見の一部が一致すること。異空間や竜については知らないこと。それだけです」
「本人だと思いますか」
担当者が尋ねた。
蓮は、すぐに答えたかった。
黒瀬だと思う。
生きていたのだと思いたい。
だが、それを五人全員の答えにはできない。
先に答えたのは、ひなただった。
「本人かもしれません。でも、違う人かもしれません」
「会えば分かる?」
「たぶん。顔を見て、話せれば」
美咲が答える。
「ただ、私たちが知っているのは転移前の夜斗です。本人でも、今どう考えているかまでは分かりません」
「俺たちへ何を求めています?」
三浦が尋ねた。
「現在は、情報の照合です」
「地方へ行って本人を確認しろ、と命じるためではない?」
「そのような命令は出ていません」
「現在は?」
「今後について、私からお答えできることはありません」
三浦の顔が少し険しくなる。
「この話は、どこまで上へ行くんです?」
「既に中央へ届いています」
「中央の誰ですか」
文官は、一度だけ隣の者を見た。
「皇帝陛下へ報告されます」
美咲が小さく息をのんだ。
「夜斗のことを?」
「地方の地下施設に生じた異変と、その重要関係者である可能性が高い人物についてです。その人物があなた方と同じ世界から来た黒瀬夜斗である可能性も、併せて報告されます」
「俺たちが本人かもしれないと言ったことも?」
「本人だと断定できなかったことも含めてです」
蓮は机の上の書面を見た。
黒瀬は、まだ行方不明のままだ。
けれど今までとは違う。
何もない場所を探しているのではない。
名前が同じ男がいる。
年齢と髪の色も近い。
異空間を持ち、魔物と戦い、人を助けた記録がある。
同時に、地下を奪い、竜を従え、領主へ反乱しようとしているという噂まである。
「もし本人だったら」
蓮は、担当者を見る。
「会えますか」
「分かりません」
「探しに行くことは?」
「あなた方だけで地方へ向かう許可は、現時点では出せません」
「どうしてですか」
「相手の所在が不明であり、領主との対立が生じている可能性もあるためです」
「黒瀬が危ないかもしれないんです」
「だからこそ、確認せずに向かわせることはできません」
「神崎君」
ひなたが、蓮の腕へ触れた。
止めるためではない。
自分たちだけで決める話ではないと、思い出させるような触れ方だった。
「会えたら、連れて戻りますか」
担当者の問いに、蓮は口を閉じた。
以前なら、そう答えていたかもしれない。
見つける。
助ける。
一緒に帰る。
それが正しいと思っていた。
「まず、無事か確かめます」
蓮は答えた。
「それから、黒瀬本人に聞きます」
「何をですか」
「今どうしているのか。戻りたいのか。何をしたいのか」
「戻りたくないと言った場合は?」
「……理由は聞きます」
「連れ帰る?」
美咲が横から尋ねる。
蓮は少し考えた。
「勝手には連れ帰らない」
「少し間があったね」
「考えてから答えたんだよ」
「なら、前よりはいいんじゃない」
水野が小さく笑った。
「私も、本人へ聞くべきだと思います」
「私も」
ひなたが続く。
「噂どおり危険なことをしているなら、止めた方がいいかもしれない。でも、噂だけで決めたくありません」
「俺は、帝国側が黒瀬をどう扱うつもりなのかも確認したい」
三浦が言う。
「会わせると言って捕らえるつもりなら、協力できない」
「現時点で、そのような方針は決まっていません」
「では、決まった時にもう一度教えてください」
聞き取りは、それで終わらなかった。
夜斗の身長。
話し方。
家族について知っているか。
転移前に争いを起こしたことがあるか。
集団の中でどんな位置にいたか。
五人は、分かることだけを答えた。
分からないことは、分からないと言った。
同じ教室にいたからといって、夜斗の全てを知っていたわけではない。
親しかった者と、ほとんど話したことがなかった者でも、覚えている夜斗は違う。
その違いも、消さずに記録された。
◇
「生きてると思う?」
部屋を出た後、美咲が尋ねた。
「思う」
蓮は答えた。
「早いね」
「本人だと思う。でも、確かめるまでは決めない」
「それ、思ってるのか決めてないのかどっち?」
「思うのと、決めるのは違うだろ」
「最近、少し面倒な言い方を覚えたな」
三浦が言う。
「お前に言われたくない」
「竜、見てみたい」
美咲が呟く。
「話を戻すなよ」
「本当にいたらだよ。人の姿になれるんでしょ?」
「街を焼くかもしれないらしいぞ」
「それは困る」
「軽いな」
「黒瀬君が無事ならいいね」
ひなたの言葉で、皆が少し静かになった。
「うん」
美咲が答える。
「でも、助けてって言ってるとも限らない」
水野が続けた。
「会うことになっても、最初から私たちの答えを持っていかない方がいいと思う」
「帰ろうって言うのも?」
「帰る方法、まだないけどね」
「それでも、俺たちのところへ来いとは言わない方がいい」
三浦が言う。
「黒瀬が今いる場所を、自分で選んでいるかもしれないからな」
蓮は、すぐには頷けなかった。
会いたい。
無事を確かめたい。
できれば一緒に行動したい。
だが、それを夜斗も望んでいるとは限らない。
「まず、本人か確かめる」
蓮は言った。
「本人だったら、話を聞く」
「それでいいと思う」
ひなたが頷いた。
「ところで」
美咲が足を止める。
「話が長かったから、お腹すいた」
「訓練の後からずっと言ってるだろ」
「今は甘い物だけじゃなくて、ご飯も食べたい」
「増えてるじゃないか」
「考えたから」
「何を消費した計算なんだよ」
夜斗の話を聞いても、すぐに会いに行けるわけではない。
皇帝へ報告が上がる。
帝国が何を決めるのかも分からない。
自分たちが何を許されるのかも分からない。
それでも、今日の食事は取らなければならなかった。
◇
同じ日の夜。
地方から届いた報告書と、五人への聞き取りをまとめた書面が、一つの机へ置かれた。
地下施設の経路消失。
途中へ存在した、正体不明の異空間。
探索者組合への事前報告。
巡回者の救助。
魔物との戦闘。
秘匿された別経路。
地方領主による捜索。
そして、竜を従えた反乱者という噂。
確かめられた事実と、推測と、噂は分けて記されていた。
その最後に、異世界から来た五人の証言が添えられている。
名前と外見の一部は一致する。
能力は知らない。
現在の思想と行動も分からない。
本人である可能性はあるが、断定はできない。
皇帝は、最初の書面へもう一度目を通した。
「黒瀬夜斗で、間違いないか」
「現時点では、可能性が高いとしか申し上げられません」
報告に来た者が答える。
「本人であれば、異世界から来た者が、帝国領内に独自の空間を持っていることになります」
「はい」
「地方領主は、既に動いている」
「重要関係者として捜索しています。ただし、犯人と断定した正式な記録は確認されておりません」
皇帝は、すぐに命令を出さなかった。
次の書面を手に取る。
そこには、五人が最後まで一致させなかった夜斗の人物像が並んでいた。
同じ世界から来た者たちでさえ、知っていることは一つではない。
まして、地方から届いた噂だけで一人の人間を決めることはできなかった。
黒瀬夜斗。
その名前を、皇帝は初めて明確な調査対象として覚えた。
それがどのような人物なのかは、まだ誰も答えられなかった。




