第166話 帰ってきても、旅人
翌朝、食堂へ行くと、セリナはもう起きていた。
椅子へ座っている。
背負い袋は、足元に置かれていた。
中身を全部出した様子はない。
腰の短い刃物も、すぐ手が届く位置にある。
「眠れた?」
「旅先の安宿よりは」
「比較対象が低くない?」
「高い宿には、必要な時しか泊まらないから」
以前使った場所で、一晩休んだ。
だからといって、そこを自分の部屋に決めたわけではない。
荷物を解かなかったことも、すぐ出ていくと決めた証拠にはならない。
セリナは、いつでも動けるようにしているだけだ。
「おはようございます、セリナさん」
ファステが湯気の立つ壺を運んできた。
普段ここで飲んでいる茶とは違う香りがする。
「それ、もう淹れたの?」
「はい。皆様といただきたいと思いまして」
茶葉は、セリナがファステへ贈った物だ。
誰と飲むかは、受け取ったファステが決める。
「私の分、残ってる?」
セリナが尋ねる。
「もちろんです」
「ならよかった」
「贈った物でも飲みたいんだ」
「味は知らないからね」
「知らずに買ったの?」
「香りを確認して、値段を聞いて、その土地で普通に飲まれていることまでは確かめた」
「十分調べてる」
「飲んでみないと分からないことは残るでしょ」
ファステが、一つずつ器へ注いでいく。
淡い褐色。
香りは強いが、苦そうな臭いではない。
ナーヴァが最初に器へ顔を近づけた。
「食えぬ葉を湯へ入れたのか」
「茶葉は食べるための葉ではありません」
「湯だけ飲む?」
「はい」
「葉は残すのか」
「残します」
ナーヴァは、納得していない顔で一口飲んだ。
「薄い」
「茶とは、そういうものじゃ」
千代が自分の器を傾ける。
「香りを楽しむ物でもある」
「匂いなら肉を焼いた方がよい」
「比較する物が違う」
「朝から肉を焼く話をするな」
リゼが止めた。
セリナも茶を飲む。
一口目は、何も言わなかった。
二口目を飲んでから、ファステを見る。
「どう淹れたの?」
「こちらで普段使っている茶葉より、少し短くしました。香りが強かったので」
「向こうで飲んだ時より、おいしい」
「セリナさんも飲まれたのですか?」
「買う前に、一杯だけ」
「お店で?」
「茶葉を売っていた人に頼んだ。味を知らずに買うには、少し高かったから」
「その一杯にも金を払ったの?」
ヴィオラが聞く。
「払った。試させてもらった分」
「少しくらい無料にしてくれそうなのに」
「無料で出すかは、売る人が決めることでしょ」
旅をしている間も、セリナは変わっていないらしい。
必要な物を確かめる。
必要な対価を払う。
それから、自分で選ぶ。
「お気に召しましたか?」
ファステが尋ねる。
「うん。ファステに渡してよかった」
「ありがとうございます」
ファステは、自分の器へ最後に茶を注いだ。
自分の茶葉を、誰と飲むか。
皆へ振る舞うことを選び、自分の分も残している。
◇
朝食の後、セリナへ話すことを整理した。
昨日は帰ってきたばかりだった。
一度に全部を説明しても、分からない名前が増えるだけだ。
「まず、入口がなくなったところから?」
「その前に、どうして入口が途中に挟まったのかを聞きたい」
「そこからか」
「帰る道がなくなった理由でしょ」
「理由の全部は、まだ分からない」
「分かってるところまででいい」
《淫獄》とダンジョンの入口が融合したこと。
門前空間へ魔物が入ってきたこと。
現地世界側の固定前室門は、人を通しても魔物を通さなかったこと。
向こうの領域が《万物迷宮》であること。
強欲の王、オルカ・クローネが制御できていないこと。
ボス級の魔物が来た時、門前空間を奪われたこと。
固定前室門が消え、門前空間だった場所がダンジョンの一部になったこと。
順番に説明した。
「それで、前の入口は灰色の壁になった」
「組合で聞いた話と、そこまでは合ってる」
「夜斗が地下を盗んだところは?」
ヴィオラが笑いながら聞く。
「噂では、そうなってた」
「通行料を取ろうとしたって話も?」
「あった」
「街を焼く話は?」
ナーヴァが口を挟む。
「竜を使って領主へ反乱する話なら」
「我はまだ焼いておらぬ」
「まだって付けるな」
「焼くつもりはないって言って」
俺とリゼが同時に止めた。
セリナが、ナーヴァを見る。
「本当に竜なの?」
「そうだ」
「姿を変えられる?」
「見たいか?」
「今ここでは見せないで」
「なぜだ」
「建物が狭そうだから」
「賢明だ」
ナーヴァが満足そうに頷く。
「セリナがいない間に来た住民は、ナーヴァとミネットとアヤメさん」
「ミネットは学校へ行ってる人?」
「うん。縁と契約して、使い魔になった」
「あの小さいのが?」
「覚えてる?」
「前に足元の匂いを嗅がれた」
ミネットについて、必要な範囲を説明する。
魔法学校の学生。
縁と契約して、卒業資格を得た。
それでも今は卒業せず、学校で学び続けている。
「ここへ住んでるの?」
「泊まることはある。私物も置いてる。でも、定住するとは決めてない」
「私と似てる?」
「少しだけ。学校へ戻る場所もあるから」
「会ってから考える」
会ったことのない人を、説明だけで分かったことにはしない。
それでいいと思う。
「アヤメは?」
「昨日会ったでしょ」
「どうしてここへ来たのかは聞いてない」
アヤメさんが、自分で答える。
「夜斗の召喚で来ました」
「普通の召喚?」
「十人の候補から、私一人を選ぶ召喚です」
「十人?」
セリナの視線が俺へ移った。
「十人出たわけじゃない」
「まだ何も言ってない」
「先に説明しておこうと思って」
「昨日もそれをやってたね」
《十連召喚》について、分かっている範囲を話す。
三万個の《淫獄石》を使ったこと。
同じRの候補が十人表示されたこと。
正式に召喚できたのは一人だけだったこと。
「セリナは、普通の召喚の五人目だった」
「私は、選ばれてない?」
「誰が来るか分からない状態で召喚した」
「それで、私が出た」
「うん」
「出ていくとは思わなかった?」
「思ってなかった」
「なら、少しは学んだんだ」
「かなり学んだつもりなんだけど」
「自分で言うと減るよ」
何が減るのかは分からない。
たぶん評価だと思う。
◇
「外では、何かあった?」
俺が尋ねると、セリナは旅先で聞いた話を順番に分けた。
自分で見たこと。
複数の人から聞いたこと。
一人からしか聞いていないこと。
その中に、見慣れない若い男女の噂があった。
「前に聞いた話とは、少し違う場所だった」
「学生たちかもしれない?」
「かもしれない。でも、人数も特徴も一致してない」
「訓練されてるって?」
「そう話す人はいた。前より動けるようになった若者を見たって」
「どこにいる?」
「分からない」
「追わなかった?」
「追えるだけの情報がなかったから」
生きているかもしれない。
学生たちかもしれない。
違う若者たちかもしれない。
今分かるのは、それだけだ。
「ほかの街にも、夜斗の噂は届いてた」
「どのくらい遠くまで?」
「荷車で何日もかかる場所まで」
「そんなに?」
「地下が使えなくなれば、運ぶ物が変わる。商人が動けば、話も動く」
「俺が反乱する話も?」
「話しやすい部分ほど、遠くへ行くみたい」
事実より、竜を従えた異空間の王が領主へ逆らった話の方が面白い。
俺だって、事情を知らなければそちらを覚えるかもしれない。
「それでも、領主のところへ行く気はない?」
「今は」
「なら、私から言えることはない」
「領主に会った方がいいと思う?」
「会わない方がいいとも決めてない。ただ、私が帰ってきた日に決めることじゃない」
「それもそうだな」
セリナが帰ってきたからといって、領主の問題まで解決するわけではない。
旅先で噂を聞いても、外との交渉役を引き受けたわけではない。
◇
「それで、別大陸って、どのくらい遠いの?」
昼を過ぎてから、ヴィオラが聞いた。
「港までの距離で変わる。どの港から船が出るかも確認してない」
「泳いでは行けぬのか?」
ナーヴァが言う。
「私は泳いで大陸を渡れない」
「我が運べば早いぞ」
「ナーヴァは海を越えたことがある?」
「ない」
「なら、船を調べる」
「我なら飛べる」
「途中で休める場所は?」
「なくても飛べるかもしれぬ」
「食料は?」
「多く持つ」
「天候は?」
「雲を避ける」
「別大陸で竜が降りても問題ない?」
ナーヴァが黙った。
「船を調べる」
「……好きにせよ」
セリナは、別大陸へ行くつもりだ。
ただし、行くと言ってすぐ出発するわけではない。
港までの道。
船が出る季節。
必要な船賃。
船上で必要になる食料と水。
向こうへ着いてから最初に泊まる場所。
確認することは多い。
「資金は足りる?」
千代が尋ねる。
「まだ分からない。足りなければ働く」
「共同資金から出すこともできるぞ」
「借りる必要が出たら相談する。今は、自分で払えるかも分かってない」
「承知した」
断ったのではない。
借りるとも決めなかった。
必要になった時に、改めて相談する。
「出発するまで、ここにいる?」
俺が聞く。
「数日は」
「前に使ってた場所を使う?」
「空いてるなら」
「専用の部屋にする?」
「今はしない」
迷わない答えだった。
「荷物を置く場所は必要でしょ」
「置く物が増えたら考える」
背負い袋一つに収まるうちは、専用室を持つ理由がないらしい。
◇
「先に、お身体を洗われてはいかがでしょう」
ファステが提案したのは、話が一段落した後だった。
「昨日は、帰還とお食事を優先しましたので」
「お湯、使える?」
「はい」
「着替えはあるけど、洗う間に着る服が足りない」
「私の予備でよろしければ」
レイナが立ち上がる。
「身体に合う物を選びますわ」
「飾りが少ない方がいい」
「承知しております」
「今、少し残念そうじゃなかった?」
「気のせいですわ」
絶対に少し残念そうだった。
◇
しばらくして、浴室の方からセリナが戻ってきた。
俺は、一度見て。
もう一度見た。
砂色の使い込まれた上着はない。
腰の短い刃物もない。
丈夫な靴も脱いでいる。
レイナが貸したのは、飾りのない薄い室内着だった。
動きやすい形ではある。
けれど、旅装より布が柔らかく、身体へ自然に沿っていた。
長く歩いてきた脚。
余分な肉の少ない腰。
日差しを受けてきた肌と、室内着に隠れていた部分の色の違い。
肩へ届かない灰金色の髪は洗われ、まだ少し濡れている。
いつも風に乱されていた髪が、水分の重さで頬の近くへ落ちていた。
胸元には、壊れた方位磁針だけが戻されている。
針は、まだ一つの方角を示していない。
「何を見てるの?」
「旅装じゃないセリナ、初めて見た気がして」
「前に泊まった時も着替えたけど」
「俺の前では、ほとんど旅装だった」
「そうだった?」
セリナが濡れた髪を片手でかき上げる。
首筋へ残った水滴が、室内着の襟へ入った。
目が追いかけた。
すぐに戻そうとした。
遅かった。
『《淫獄石》を900個獲得しました』
『所持《淫獄石》:1,000』
「増えた?」
ヴィオラが、俺の顔を見て聞いた。
「……増えた」
「いくつ?」
「九百」
「何を見たのじゃ」
千代の声が少し低い。
「湯上がりのセリナを」
「正直に言えばよいというものでもないぞ」
「聞かれたから」
セリナが、自分の室内着と俺を交互に見る。
「そこも、前と変わってないんだ」
「変わってないと言われると、安心していいのか困る」
「安心はしなくていいんじゃない?」
「そこは少しくらい安心させて」
「見続けないなら」
「気をつけます」
返事だけは早くなった。
旅から帰ってきたこと。
茶葉を持ってきてくれたこと。
次の旅の話をしてくれたこと。
それ自体で石が増えたわけではない。
旅装を崩さず、いつでも歩き出せる姿しかほとんど見せなかった成人女性が。
ここで身体を洗い、武器を外し、柔らかい室内着を借りて戻ってきた。
その普段との差を、俺が性的に意識した。
たぶん、それだけだ。
◇
セリナは、その日も旅装へ着替え直さなかった。
洗った服が乾くまでは、借りた室内着で過ごす。
背負い袋は、以前使った場所へ運んだ。
全部は出さない。
壊れた方位磁針だけは、胸元へ下げたままだった。
帰ってきても、旅人だった。
ここで休んでも、次に進む道を自分で決める。
胸元の方位磁針は、相変わらずどこも示していない。
それでもセリナは、迷っているようには見えなかった。




