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このスキル、やばスギル。 ~ガチャ沼に堕ちたら俺の負け~  作者: 明日乃風
第十二章 「向こうから、つながった」

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第165話 帰る方法を探してるだけ

 翌朝、セリナは探索者組合へ行った。


 灰色の壁について、もう一度聞くためではない。


 昨日と同じ受付へ並び、順番が来るのを待つ。


「夜斗という人へ、伝言を渡せる?」


 受付の男は、すぐには答えなかった。


「どういったご関係ですか」


「先に、渡せるかどうかを聞いてる」


「当組合は、現在その人物の所在を把握しておりません」


「連絡を取ったこともない?」


「お答えできません」


「夜斗から何か届いたって聞いた」


「誰からですか」


「町で聞いた噂」


「噂についてはお答えできません」


 書面があったとも、なかったとも言わない。


 誰が持ってきたのかも、どこから来たのかも話さない。


 組合が簡単に口を割らないことは、セリナにとって悪い情報ではなかった。


 自分の伝言も、誰にでも見せられる可能性が低い。


「じゃあ、預かることは?」


「内容によります」


「夜斗本人か、夜斗から頼まれた人にだけ伝えてほしい」


「内容を確認せずに預かることはできません」


「分かった」


 セリナは一度、周囲を見る。


 受付の近くにいるのは、依頼を探す探索者と組合の職員だけだった。


 小声にしても、絶対に聞かれないとは限らない。


 夜斗との関係を疑われる可能性もある。


 それでも、黙ったままでは夜斗へ届かない。


「セリナ・ウェルズが、夜斗を探してる」


 男の目が、わずかに細くなった。


「それだけですか」


「壊れた方位磁針と、庭で拾った灰色の小石を持ってる。それも伝えて」


「どこの庭ですか」


「本人なら分かる」


「あなたが、そのセリナ・ウェルズですか」


「そう」


「身分を証明する物は?」


「ない」


「夜斗という人物との関係は?」


「それも本人へ話す」


「この伝言を受け取った者が、あなたへ連絡する方法はありますか」


 セリナは少し考えた。


 宿を教えれば、そこから行動を追われるかもしれない。


 毎日組合へ来れば、夜斗との関係を自分から目立たせることになる。


「東門を出て、街道を半刻くらい歩いた所に、古い雨避けがあるでしょ」


「石屋根の休憩所ですか」


「明日から三日間。朝から昼まで、そこにいる」


「連絡がなければ?」


「待つのをやめる」


「その後は、どちらへ?」


「決めてない」


 受付の男は、伝言を書き留めた。


「お預かりします。ただし、夜斗本人または関係者へ届けられるとは約束できません」


「いいよ」


「相手を名乗る者が現れても、当組合が本人であると保証することはできません」


「自分で確かめる」


「あなたの伝言を、領主側へ報告する可能性もあります」


 そこだけは、先に言うらしい。


「分かった」


「それでも預けますか」


「預ける」


 セリナは答えを変えなかった。


 危険がない方法ではない。


 けれど、危険がない方法を探している間に、夜斗へ何も届かないままになる。


 セリナが探しているのは、安全な方法ではなかった。


 帰れる可能性がある方法だった。


     ◇


 その頃、《淫獄》では。


「セリナらしい人が、俺を探してる?」


 アヤメさんが持ち帰った話に、俺は椅子から立ち上がった。


「らしい、です」


 アヤメさんが訂正する。


「本人だとは確認していません」


「どこにいる?」


「街の外で三日間待つと伝言を残しています。明日が二日目です」


「じゃあ、すぐ迎えに――」


「誰が?」


 言葉が止まった。


 皆の視線がアヤメさんへ集まりそうになる。


「見ないでください」


「まだ見てない」


「今から見るところでした」


「……うん」


 今日、アヤメさんが街へ行ったのは、前に決めた外部確認のためだった。


 領主側の捜索が変わっていないか。


 探索者組合から新しい返答が出ていないか。


 目的、危険、報酬、戻る時刻を決めた、一回だけの依頼だ。


 セリナらしい人を迎えに行くことは含まれていない。


「まず、その依頼は終わりです」


 アヤメさんが言った。


「うん。ありがとう」


「対価は後で確認します」


「払う」


 話を分けてから、俺はもう一度聞いた。


「別の依頼として、会いに行ってもらえる?」


「条件を聞いてから決めます」


「本人か確かめる。セリナなら、ここへ戻りたいか聞く。戻りたいなら、第二接続地点まで一緒に来てもらう」


「戻りたくないと言った場合は?」


「連れてこない」


「尾行があった場合は?」


「入口へ近づかない。帰還も中止する」


「私が危険だと判断した場合は?」


「会わずに戻ってもいい」


「戦闘は?」


「頼まない。追われたら、セリナを守って入口まで連れてきて、とは言わない」


 言いたくはなった。


 でも、それを頼めば接触ではなく護衛になる。


「報酬は?」


 千代と相談し、今日の確認とは別に金額を決めた。


 移動に必要な費用。


 アヤメさん本人への報酬。


 接触できなくても、条件どおり確認して戻れば支払う。


「本人確認は、どうしますか」


「壊れた方位磁針を持ってる」


「それは伝言に含まれています。伝言を知った別人でも答えられます」


「庭の小石も」


「同じです」


 早く迎えたい気持ちに、判断が追いついていなかった。


「セリナは、五人目の通常召喚で来た」


「表示は?」


「SR《気ままな放浪者》セリナ・ウェルズ」


「その情報を、本人以外が知っている可能性は?」


「住民なら知ってる。外へ話した可能性までは分からない」


「ほかには?」


 俺は、セリナと最後に話した時のことを思い出す。


「前の地下入口を見に来た理由を聞いたら、『旅人だからね』って言った」


「それから?」


「一度寄った時、ファステが戻ってきたって言ったら、『戻ったっていうより、寄っただけ』って」


「帰る時は?」


「また来たくなったら入口の辺りまで来てくれって言った。そしたら、『分かった。来たくなったら来る』って」


 あの時は、道さえ残っていればいいと思っていた。


 その道がなくなるなんて、考えていなかった。


「質問は、私が順番を変えます」


 アヤメさんが言う。


「持ち物だけでなく、複数の答えが一致した場合に本人らしいと判断します。それでも、完全な証明にはなりません」


「うん」


「本人確認後も、《淫獄》や入口の場所は必要な範囲までしか伝えません。《十連召喚》については話しません」


「それでいい」


「引き受けます」


 アヤメさんは、新しい依頼を受けた。


     ◇


「その前に、入口を教えていいか決めたい」


 俺は、今ここにいる全員へ話した。


 セリナは、今も住民として表示されている。


 前に自分で外へ出た。


 戻る義務はなかった。


 それでも、自分から俺を探しているらしい。


「帰ってくるなら、迎えたい」


 ファステが最初に言った。


「ですが、本人であることと、追跡されていないことは確認してください」


「もちろん」


「帰還を望む既存住民を迎えることと、知らぬ者へ入口を公開することは別じゃ」


 千代が続ける。


「アヤメの確認を通るなら、我は異論ない」


「私もだ」


 リゼが頷いた。


「外側は私と夜斗で確認する。反応だけでは開けない」


「セリナとは、強いのか?」


 ナーヴァが聞く。


「旅には慣れてる。でも、ナーヴァみたいに壁を殴って壊す人じゃない」


「ならば、我が迎えに行く必要はないな」


「行ったら目立ちすぎる」


「では、ここで待つ。帰ってきたら話を聞く」


 レイナも、ヴィオラも同意した。


 入口の場所は、俺一人のものではない。


 外へ出す情報が、俺だけに関係するものでもない。


 今ここにいる全員の生活へ続く入口だ。


 だから全員に聞いた。


 セリナ本人だと確認できること。


 本人が今、戻ると選ぶこと。


 尾行されていないこと。


 その三つを満たした時だけ、アヤメさんが第二接続地点へ案内する。


「戻った後、ずっと住むかは?」


 ヴィオラが聞いた。


「それは、帰ってからセリナが決める」


「またすぐ出るって言うかもしれないよ?」


「うん」


「それでも迎える?」


「帰ってくることと、そのまま住み続けることは別だから」


 言い終えてから、自分でも少し面倒な言い方になったと思った。


 でも、ほかに言い方が見つからなかった。


     ◇


 二日目の朝。


 セリナは東の街道にある雨避けで、一人、石柱へ背を預けていた。


 待つためだけに一日を空けたわけではない。


 ほつれた背負い袋を直し、昨日買った留め具を付け替え、携行食の残りを数えた。


 昼までに誰も来なければ、宿へ戻る。


 三日目も来なければ、別の方法を考える。


 人影が見えたのは、留め具を二度引いて確かめた時だった。


 黒髪の女が、一人で街道を歩いてくる。


 足取りは普通の旅人に見える。


 だが、周囲を見る目は、道ではなく人の動きを数えているように見えた。


 女は雨避けへ入らず、少し離れた場所で止まる。


「セリナ・ウェルズ?」


「そう名乗った」


「私は月野アヤメです」


「夜斗に頼まれた?」


「答える前に、確認します」


「何を?」


「あなたが、夜斗の知るセリナ・ウェルズかどうか」


 アヤメは距離を詰めなかった。


「胸元の物を、外して見せられますか」


 セリナは壊れた方位磁針を外し、掌へ載せた。


「針は?」


「方角を示さない。縁も少し歪んでる」


「小石は?」


 背負い袋から、灰色の石を取り出す。


「何ができますか」


「何も。魔力もないし、入口も開かない。ただの石」


「どこで?」


「夜斗たちが住んでる場所の庭」


「なぜ持っているのですか」


「持っていきたくなったから」


 アヤメは石を受け取らなかった。


 見るだけで、次の問いへ移る。


 アヤメは、以前地下入口へ来た理由と、最後に夜斗と交わした言葉も尋ねた。セリナの答えは、事前に聞いていた内容と一致した。


 セリナは、アヤメを見る。


「来たら、道がなくなってたけど」


「その苦情は本人へ伝えてください」


「伝えられるの?」


「あなたが戻ると決め、周囲の安全を確認できれば」


「夜斗は生きてる?」


「生きています」


「みんなも?」


「私が確認した範囲では」


「あなたも、そこにいるの?」


「最近、住民になりました」


「夜斗に召喚された?」


 アヤメの目が少し細くなる。


「その説明は、戻った後に本人たちと決めてください」


「じゃあ、そこまで言える人ではあるんだ」


「複数の情報が一致しました。本人である可能性は高いと判断します」


「慎重ね」


「あなたも、私を信用していません」


「初対面だからね」


「それでかまいません」


 アヤメは、そこで初めて少し近づいた。


「夜斗たちは、以前の入口とは別の接続地点を使っています」


「どこ?」


「今は言いません」


「案内するんじゃないの?」


「戻る意思を確認してからです」


「ここまで来て、戻らないって言うと思う?」


「あなたが何のために来たのか、私はまだ聞いていません」


 セリナは小石を背負い袋へ戻す。


 壊れた方位磁針は、また胸元へ下げた。


「帰ろうと思って来た」


 昨日、誰もいない柵の前で口にした言葉を、今度は相手へ伝える。


「でも、ずっといるとは決めてない。中を見て、夜斗の話を聞く」


「それでも帰還を希望しますか」


「する」


「途中でやめてもかまいません」


「分かった」


「尾行を確認します。疑いがあれば今日は案内しません」


「それも分かった」


 アヤメはすぐには歩き出さなかった。


 街道を通る荷車を一台見送り、雨避けの周囲と遠くの丘を見る。


 それから、街とは反対の方向へ歩き始めた。


     ◇


 二人は一度、脇道へ入った。


 低い林を抜ける。


 水の少ない沢を渡る。


 同じ道へ戻らず、別の斜面から街道を見下ろした。


「遠回り?」


「確認です」


「誰かいた?」


「今のところは」


「いなければ近道でよかった?」


「近道だった場合、確認できない場所が増えます」


「面倒ね」


「帰り道を知られる方が、後でさらに面倒です」


 それは、セリナにも分かった。


 途中で二度休み、後方の音を確認する。


 獣の足跡はあった。


 人の新しい足跡は見つからなかった。


 アヤメはそれでも、すぐ第二接続地点へは向かわない。


 最後に一度、見通しの利く場所を横切り、遠くから追う影がないことを確かめた。


「この先です」


「見覚えがない」


「それでかまいません」


 水場の近くまで来ると、アヤメは細い黒紐を取り出した。


「それが入口?」


「入口を開けてもらうための目印です。これだけでは開きません」


「私にはない」


「聞いています」


 アヤメが黒紐を握る。


 何も起きない。


 少なくとも、セリナに見える変化はなかった。


 少し間を置き、アヤメは決められた通り、もう一度紐を握った。


「二回?」


「私一人ではないという合図です」


「それで、私だって分かる?」


「分かりません。だから、すぐには開きません」


 水場は静かなままだった。


 一分ほど待った後、空気の中へ細い線が生まれる。


 扉ではない。


 人が通れないほど細い、縦の隙間だった。


 向こう側から、リゼの目が周囲を確かめる。


「アヤメ」


「尾行は確認できません。本人確認は複数一致。本人は今、帰還を希望しています」


「セリナ?」


 隙間の奥から、夜斗の声がした。


 セリナは細い入口へ顔を向ける。


「帰り道をなくすなら、先に言って」


「連絡する方法がなかったんだよ」


「私にもなかった」


「だから、今こうなってる」


「それは分かってる」


 夜斗の声は、セリナが覚えていたものと同じだった。


「周り、本当に誰もいない?」


「私とアヤメだけ」


「戻ってくる?」


「そのために帰る方法を探してた」


「分かった。今、広げる」


 隙間が、一度止まる。


 リゼとアヤメが最後に周囲を確認する。


 それから入口は、人が一人通れる幅まで広がった。


「アヤメさんから先に」


「分かりました」


 アヤメが境界を越える。


 すぐ向こうで振り返り、セリナを見る。


「入るかどうかは、あなたが決めてください」


「ここまで案内しておいて?」


「案内したことと、入る義務があることは別です」


「夜斗の近くにいると、そういう言い方になるの?」


「元からです」


 セリナは少し笑った。


 入口の向こうに、夜斗がいる。


 隣にはリゼがいる。


 覚えている場所ではない。


 それでも、二人の顔は知っていた。


 セリナは自分の足で境界を越えた。


     ◇


「帰ってきた?」


 俺が聞くと、セリナは入口が閉じたことを確かめてから答えた。


「帰る方法を探してただけ」


「でも、入ってきたよな」


「中を見てから決めるって言ったでしょ」


「前より面倒な答え方になってない?」


「そっちの方が、前より面倒な言い方をするようになってる」


 否定できなかった。


 リゼが小さく笑う。


「おかえり、セリナ」


「ただいま、リゼ」


 その一言で、急に本当に戻ってきた気がした。


 邸宅へ戻ると、ファステが最初に駆け寄りかけて、途中で速度を落とした。


「セリナさん。おかえりなさいませ」


「ただいま。……今度は、寄っただけじゃない」


「では、お戻りになったのですね」


「今日はね」


 ファステは、それでも嬉しそうに笑った。


「そうだ。ファステに渡す物がある」


 セリナが背負い袋から、小さな紙包みを取り出した。


 開かなくても、乾いた葉の香りがわずかに漏れている。


「茶葉?」


「前に気にしてたでしょ。旅の途中で見つけた」


「私へ、ですか?」


「うん。誰と飲むかは、ファステが決めて」


 ファステは両手で包みを受け取った。


「ありがとうございます。大切にいただきます」


「飲む物だから、残しすぎないでね」


「はい」


 今度の返事には、少しだけ笑いが混じっていた。


「知らない人が増えてる」


 セリナの視線が、ナーヴァで止まる。


「そなたがセリナか。我はナーヴィナル・ドラゴ・クァトリオム・ナーヴァだ」


「長い」


「ナーヴァでよい」


「そうする」


「旅の話を聞かせよ」


「今?」


「腹が減ってからでもよい」


「それなら後で」


 レイナと千代、ヴィオラとも言葉を交わす。


 アヤメさんとは、もう外で会っている。


「ほかにも増えた人がいる?」


「今は学校に行ってる人と使い魔がいる。近くの街に住んでる王もいる」


「少し出てただけなのに、話が多い」


「かなり多い」


 門前空間がなくなったこと。


 閉じた壁門の向こうが、《万物迷宮》になったこと。


 強欲の王、オルカ・クローネ。


 怠惰の王、エウリオ・ハーバー。


 新しい住民たち。


 十人の候補からアヤメさんを選んだ召喚。


 セリナがいない間に起きたことは、一度では話しきれそうになかった。


「壁門は?」


「今は開けない」


「見せてとは言ってない」


「先に言っておこうと思って」


「本当に慎重になったね」


「いろいろあったから」


「それは、見れば分かる」


 セリナは邸宅と、増えた家具と、知らない顔を順番に見た。


「前に使ってた場所は、まだある?」


「ある。でも、今日からそこに住むって決めなくていい」


「旅をやめるとも言ってない」


「分かってる」


「また出るかもしれない」


「うん」


「帰還目印っていうのも、今決めなくていい?」


「希望するなら後で説明する。持つかどうかは、その後で決めて」


 セリナは胸元の壊れた方位磁針へ触れた。


「次に出る前には、持っておいた方がよさそうね」


「もう次の行き先を決めてるの?」


「別の大陸へ行くつもり」


「別の大陸?」


「船賃と航路と、海が荒れにくい時期を調べてから。すぐ出るとは言ってない」


「帰ってきたばかりなのに」


「帰ってきたから、次の話をしてる」


 セリナは方位磁針を首から外した。


「《帰還目印》は、これにする」


「壊れてるけど、いいの?」


「方角を示さないことと、持っていたい物かどうかは別でしょ」


「それ、誰かに教わった?」


「今の夜斗なら、そう言いそうだと思っただけ」


 言い返せなかった。


 俺は、入口の近くまで来なければ反応しないこと、位置や周囲の危険までは伝わらないこと、入口も自動では開かないことを説明した。


「それでも持つ?」


「持つ。この方位磁針は、どうせ旅へ持っていくから」


 預かった方位磁針へ意識を向ける。


『《帰還目印》を設定しました』


 見た目は変わらない。


 針も、相変わらず正しい方角を示していなかった。


 返すと、セリナはもう一度、それを胸元へ下げる。


「帰りたいって思った時くらい、入口の方角を示してくれたらいいのにね」


「それなら、別大陸からでも帰りやすくなるな」


「壊れてる方位磁針が、帰る時だけ直るの?」


 ヴィオラが胸元の方位磁針を覗き込む。


「そうなったら便利でしょ」


「ですが、今確認できているのは、接続地点の近くで夜斗へ反応を届ける機能だけです」


 ファステが、期待と分かっていることを分ける。


「方角を示すと期待して、帰り道を決めるな」


 リゼも続けた。


「分かってる」


「そこまでは、自分で探す」


 今日は休む。


 夜斗の話を聞く。


 自分が外で見聞きしたことも、話してよい範囲で伝える。


 その先は、明日になってから決める。


 それだけが決まった。


 ファステが用意した温かい飲み物を受け取り、セリナが椅子へ座る。


 旅装は、まだ解いていない。


 専用の《帰還目印》になった壊れた方位磁針も、胸元にある。


 灰色の小石も、背負い袋の中に入ったままだ。


 出発した時と同じ物を持っている。


 けれど、戻ってきた場所は、出発した時と同じではなかった。


 セリナは湯気の向こうから、もう一度、部屋の中を見る。


「変わったね」


「うん」


「それでも、ただいまって言ってよかった?」


「もちろん」


「なら、今日はそれでいい」


 セリナは旅を終えたわけではない。ただ、自分で帰る方法を探し、自分の足で境界を越えた。


 変わってしまった《淫獄》は、それでもまだ。


 セリナが、ただいまと言える場所であり続けていた。

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