第163話 帰るかどうかは、見てから決める
翌朝、荷車には布包みが積まれていた。
昨日の樽より軽い。
けれど、数は多かった。
「中身は?」
セリナが聞く。
「染める前の布と糸だ」
昨日の御者が、荷台の布を少しめくった。
生成りの布が畳まれ、その隣に糸を収めた箱が並んでいる。
「濡らした場合は?」
「お前が川へ落としたなら弁償。雨なら、この覆いを使う」
「覆いが破れたら?」
「予備が一枚ある」
「途中で荷物を増やす?」
「一つ目の村で染料を二箱積む。数はそれ以上増えない」
「積む前に箱を見る」
「いいとも」
行き先は昨日聞いた場所と同じ。
二日。
途中で一度野営する。
昨日より長いが、街道から大きく外れない。
魔物が出た場合は荷を守るより逃げることを優先する。
夜に見張りが必要なら交代。
食事は御者側が二日分を用意する。
報酬は到着して荷を確認した後。
昨日より増えている。
「受ける」
「夜の間に気が変わらなかったか」
「荷物を見て決めた」
「昨夜、何か聞き回ってたんだろ?」
セリナは男を見た。
「誰から聞いたの?」
「向かいの宿の連中だ。灰色の髪の女が、地下の話を聞いてたって」
「灰金」
「似たようなものだ」
「違う」
「そこは譲らないんだな」
男は笑った。
「急いで戻るなら、今回の仕事は断ってもいいぞ」
「まだ戻ると決めてない」
「でも気になってる」
「気になることと、今の仕事を投げることは別」
昨夜のうちなら、仕事はまだ引き受けていなかった。
断っても問題はない。
だが、夜斗の噂を聞いたからといって、何も確かめず走り出す必要もなかった。
この仕事を終えれば報酬が増える。
南から来る商人や旅人とも会える。
何も得られなくても、二日後には自分で次の道を選べる。
「出るなら、布を掛けて」
「雨は降ってないぞ」
「朝露で濡れる。濡らしたら困る荷物なんでしょ」
「昨日より仕事が細かくなってないか?」
「荷物が違うから」
同じ相手からの依頼でも、昨日と同じ仕事ではなかった。
◇
一つ目の村で、染料の箱を二つ積んだ。
蓋は閉じている。
ひび割れはない。
中身が漏れた跡もない。
受取人と御者とセリナの三人で状態を確認してから、荷台の奥へ固定した。
「南から来た荷車は?」
作業が終わった後、セリナが受取人へ聞く。
「昼過ぎに一台来る予定だ」
「どこを通ってくる?」
男が挙げた街の中に、夜斗の噂が出た街はなかった。
その近くを通る道が一つある。
「地下が使えなくなった街の話、聞いた?」
「ああ。染料の値が上がるかもしれん」
「どうして?」
「地下へ潜っていた連中が、別の仕事を探してる。採取に回る奴が増えれば下がるかもしれんが、街道の護衛へ流れれば運び賃が変わる」
「入口はいつ使えなくなった?」
「正確な日は知らん」
「誰から聞いた?」
「商人組合の知らせだ。地下向けの品を運ぶなら注意しろと」
「書いた物はある?」
「あるが、俺の物じゃない。見せるなら持ち主へ聞け」
「どこにいる?」
村の倉を管理している女らしい。
セリナは御者を見る。
「出発まで、どのくらい?」
「荷縄を締め直して、馬へ水を飲ませる。その間なら待つ」
「分かった」
仕事中に勝手に離れるのではない。
使える時間を確認してから、倉へ向かった。
◇
知らせは短かった。
特定地域の地下入口が閉鎖され、探索者向け物資の需要が急減している。
運搬予定を持つ商人は、到着前に確認すること。
それだけだった。
夜斗の名前も、異空間も書かれていない。
「写していい?」
セリナが聞くと、倉の女は首を横へ振った。
「組合から届いた物だ。勝手にはさせられない」
「じゃあ、もう一度読む」
「読むだけなら」
日付と発信地を覚える。
噂を聞いた日より前に、入口閉鎖の知らせは出ている。
少なくとも、昨夜誰かが思いついた話ではない。
「地下で何があったかは?」
「書いてないよ」
「入口の途中に異空間があったことは?」
「知らないね」
「夜斗という人は?」
「誰だい、それ」
公的な知らせにないからといって、夜斗が無関係だとは決められない。
反対に、噂へ名前があるから関係者だとも決められない。
「見せてくれてありがとう」
「礼だけかい?」
女が、机へ置かれた小さな硬貨を指で叩いた。
掲示された知らせを見るだけなら金はいらない。
倉の奥へ入り、届いた紙を直接見せてもらうのは別らしい。
セリナは先に聞かなかった自分の失敗を認め、少額を払った。
「次から、先に値段を聞く」
「そうしな」
情報も、勝手に手へ入るものではなかった。
◇
昼を過ぎてから、荷車は村を出た。
空は晴れ始めている。
布の覆いは外さなかった。
雨が止んだことと、道端の枝から水が落ちなくなったことは同じではない。
御者は時々、昨日まで通った町の話をした。
セリナは夜斗の話だけを聞き続けなかった。
この先の水場。
野営に使える場所。
最近、盗賊が出た道。
橋の状態。
今の仕事に必要な話を先に聞く。
夕方前に、北から来た小さな商隊とすれ違った。
休憩場所が同じだったため、二組は少し離れて荷車を止める。
セリナは自分たちの火へ掛ける鍋へ、御者から渡された干し肉を入れた。
向こうの商隊では、酒の瓶が回っている。
「一杯、いくら?」
セリナが聞く。
「水なら売らん。酒ならこのくらいだ」
高くはない。
セリナは二杯分を買い、一杯を商隊の年嵩の男へ渡した。
「何だ?」
「聞きたいことがある」
「酒一杯で答えられることならな」
「あの街の地下入口が使えなくなったのは、いつ?」
男は酒を飲む前にセリナを見た。
「関係者か?」
「今は、噂を聞いた旅人」
「曖昧だな」
「嘘は言ってない」
男は少し考えてから、酒へ口をつけた。
「最初は、地下へ続く途中に妙な場所が挟まったという話だった」
「妙な場所?」
「壁と門に囲まれた空間だ。家もあったとか」
《淫獄》。
セリナは口に出さなかった。
「誰でも通れた?」
「人は通れたらしい。魔物は止められた、と聞いた」
「その後は?」
「地下から魔物が来た。大きいのもな」
「夜斗は?」
「異空間の持ち主が夜斗だという話なら聞いた。何をしたかは知らん」
「入口を奪ったのは?」
「最初から奪うつもりなら、わざわざ組合へ異変を知らせるか?」
昨夜とは違う話だった。
「知らせたの?」
「組合へ先に報告していたらしい。巡回者を助けたとも聞いた」
「誰から?」
「その街で店をやってる弟だ。弟は組合の人間から聞いたと言っていた」
男自身が確認したわけではない。
それでも、昨夜より情報源が近い。
「大きい魔物の後は?」
「地下への道が消えた。それから夜斗たちは別の場所から戻ってきた」
「別の場所は?」
「知らん。だから隠し入口を持っていると疑われた」
「領主が探し始めたのは?」
「その後だ」
最初に異空間が挟まった。
夜斗側から組合へ報告した。
地下から魔物が来た。
大きな魔物も現れた。
従来の道が消えた。
夜斗たちは別の場所から戻った。
領主が捜し始めた。
細部は分からない。
ただ、順番は少し見えてきた。
「夜斗が魔物を出した可能性は?」
「あるかもしれん」
「違う可能性は?」
「あるだろうな」
「領主が何をしたいかは?」
「本人に聞け」
「聞いた人は?」
「少なくとも俺は知らん」
そこで、買った一杯分は終わりらしい。
セリナはそれ以上聞かなかった。
「もう一杯買えば、続きはある?」
「同じ話を長くするだけだ」
「なら、いらない」
男が笑った。
「情報の買い方は悪くない」
「中身が増えないなら、二杯目はいらない」
◇
その夜は、街道から少し離れた高台で野営した。
荷車を風上へ置く。
火は道から見えにくい位置で小さく使う。
見張りは前半を御者、後半をセリナが担当した。
交代前に眠っている間も、胸元には壊れた方位磁針があった。
小石は背負い袋の内側に入っている。
どちらも夜斗へ何も伝えない。
夜斗が困っているかもしれない。
疑われるようなことを、本当にしたのかもしれない。
助けを求めているかもしれない。
一人で何とかしようとして、もっと面倒なことにしているかもしれない。
考えられることはいくらでもあった。
どれも、今のセリナが知っている事実ではない。
「交代だ」
声を掛けられ、セリナは目を開けた。
すぐに立ち上がる。
夜斗のことを考える時間と、見張りを怠ってよいことは別だった。
◇
二日目は、昼前に一度だけ道を変えた。
先の低地へ水が残り、荷車の轍が深く沈んでいたためだ。
遠回りになるが、丘沿いの道なら地面が固い。
出発前には聞いていなかった道だった。
セリナは途中まで歩いて地面を確かめ、戻って御者へ説明した。
「どのくらい遅れる?」
「半刻より少し。低い道ではまれば、もっとかかる」
「危険は?」
「獣の古い足跡がある。新しいものは見えない。見通しは低い道よりいい」
「そっちへ行こう」
荷車は丘沿いへ進んだ。
遅れは出たが、荷物を濡らすことも、車輪を取られることもなかった。
夕方より前に目的地へ着く。
布包みと糸箱。
染料二箱。
数も封も変わっていない。
受取人が確認を終え、御者が報酬を渡す。
セリナは数えた。
「合ってる」
「今度は東へ戻る」
御者が言った。
「帰りも頼みたい。荷は少ない」
「いつ出る?」
「明日の昼だ」
東へ戻れば、昨日の町へ戻る。
そこから北へ進む道もある。
だが、御者の荷に付き合えば、さらに二日ほど使う。
「今回は受けない」
「夜斗とかいう男のところへ行くのか?」
男は、野営中にセリナが話を聞いていたことを知っている。
「夜斗のところへ行けるかは、まだ分からない」
「じゃあ、どこへ行く?」
「知ってる入口があった街」
「帰るんじゃないのか?」
セリナは少し考えた。
《淫獄》には、自分の部屋もなかった。
戻る日も決めていない。
旅を終える約束もしていない。
住民だから帰れと、誰かに命じられたこともない。
「帰るかどうかは、見てから決める」
「見に行くのは決めたんだな」
「うん」
男は、もう一度誘わなかった。
「昨日と今日の仕事は終わった。次は別だな」
「そう」
「なら、ここで別れる」
「ありがとう」
「こっちの台詞だ。荷を濡らさず運べた」
セリナは男と別れた。
◇
その夜、安宿の寝台へ自分の持ち物を並べた。
着替え。
布。
縄。
食料。
水。
短い刃物。
壊れた方位磁針。
普通の灰色の小石。
増えたのは、二日分の報酬と、聞いた話だけだった。
夜斗がダンジョンを奪った証拠はない。だが、地下入口が使えなくなり、夜斗たちが別の場所から戻った後で領主が捜し始めたことは、複数の話から確かだった。
犯人かは分からない。それでも、何も起きていない可能性はもう低かった。
「面倒なことになってる」
夜斗が面倒なのか。
領主が面倒なのか。
地下そのものが面倒なのか。
それも、まだ分からない。
セリナは背負い袋へ荷物を戻した。
いつもの旅支度と、ほとんど変わらない。
進む方向だけが変わる。
専用の目印はない。
遠くから夜斗へ知らせる方法もない。
知っているのは、以前使った地下入口のある街だけだった。
そこへ行っても、《淫獄》へ入れる保証はない。
夜斗に会える保証もない。
それでも、自分の目で見なければ、その先を自分で決められなかった。
セリナは壊れた方位磁針を胸元へ戻した。
小石を背負い袋の内側へ入れる。
方位磁針も小石も、帰る道を示してはくれない。だからセリナは、自分で次に進む方角を決めた。
帰るかどうかは、見てから決める。
見に行くかどうかは、もう決めていた。




