第162話 その名前、知ってる
荷車の前輪が、泥へ半分沈んでいた。
「押せば抜けるか?」
御者台から男が聞く。
「そのまま押したら、もっと沈む」
セリナは車輪の前へしゃがみ込んだ。
昨夜の雨で、街道の端に水が溜まっている。
表面だけなら浅く見えるが、棒を差し込むと手首の近くまで入った。
荷車の後ろには、布を掛けられた樽が六つ。
重さは出発前に確かめている。
空ではない。
「荷を下ろすのか?」
「先に道を作る」
セリナは荷台に結んでいた細い縄を外した。
少し手前に落ちている平たい石と、道端へ寄せられていた折れ枝を集める。
泥の上へいきなり置かず、棒で深さを確かめながら沈みにくい場所を選んだ。
「右へ寄せて。急に引かないで」
「分かった」
「まだ」
男が手綱を動かしかけたため、セリナは止めた。
車輪の後ろへ石を噛ませる。
縄を車体の丈夫な部分へ回し、反対側を道沿いの太い木へ掛けた。
「馬に引かせながら、私が横から車輪を押す。真っすぐじゃなく、少し左」
「左には石があるぞ」
「だから。車輪をその上へ乗せる」
男は一度、泥と石を見比べた。
「任せる」
「ゆっくり」
馬が進む。
縄が張り、荷車が軋んだ。
セリナは車輪の縁へ肩を当てる。
泥が靴とズボンへ跳ねた。
一度目は、車輪が少し浮いただけだった。
「止めて」
石の位置を直す。
二度目で車輪が泥から抜け、平たい石の上へ乗った。
「そのまま。止まらないで」
荷車が固い地面まで進む。
セリナは後ろから追い、もう片方の車輪が窪みへ入らないことを確認した。
完全に抜けてから、男が馬を止める。
「助かった」
「まだ今日の半分」
「そうだったな」
セリナは縄を外し、泥を落としてから巻き直した。
使った石と枝は街道の端へ戻す。
後から来た者が、道の真ん中で踏まない位置へ。
「嬢ちゃんを雇って正解だった」
「セリナ」
「ああ?」
「嬢ちゃんじゃなくて、セリナ」
男は少し笑った。
「セリナを雇って正解だった」
「着いて、荷物を確認して、約束どおり払ったらね」
「疑い深いな」
「確認してるだけ」
出発前に決めたのは、次の町までの一日だけ。
荷車の護衛と、通れる道の確認。
魔物や盗賊と戦うことまでは含めていない。避けられない危険があれば、荷を捨てて逃げることも男は了承している。
報酬は到着後。
宿代は含まれない。
予定外に日をまたぐ場合は、その時に改めて決める。
条件は全部、出発前に聞いた。
曖昧なまま働いて、後から違うと言われる方が面倒だった。
◇
街道は、泥濘を越えてから少し高い場所へ続いていた。
空はまだ曇っている。
雨雲は東へ流れているが、風が変われば戻ってくるかもしれない。
セリナは荷車より先を歩き、道の崩れと新しい足跡を確かめた。
獣のものが二つ。
人の靴跡がいくつか。
荷車の轍は新しい。
少なくとも、昨日か今朝には別の荷車がここを通っている。
しばらく進むと、向こうから四人の若者が歩いてきた。
揃って土に汚れ、剣や槍を持っている。
先頭の男が荷車へ気づき、道の端へ寄った。
残りの三人も遅れて続く。
一人だけ、立ち止まる位置が近すぎた。
「荷車が通る」
別の若者がその腕を引く。
四人は道を空けた。
それだけだった。
すれ違った後、御者の男が振り返る。
「近頃、ああいうのが増えたな」
「若い旅人?」
「探索者だろう。少し前にも見た顔だと思うんだが、前より歩き方がましになってた」
「同じ人?」
「たぶんな」
「何人だった?」
「前か? 四人……いや、五人いたか」
セリナは、今すれ違った四人の背中を見る。
「誰かに習ったらしいって話も聞いたぞ」
「誰に?」
「そこまでは知らん」
「どこで?」
「二つ前の宿だったか。違ったかな」
以前、別の集落で聞いた噂と少し似ている。
見慣れない若者たち。
前より動けるようになった。
誰かに鍛えられているらしい。
けれど、人数も場所も合っていない。
今の四人がその噂の相手かも分からない。
「知り合いか?」
「違う」
「じゃあ、なんで聞いた?」
「前にも似た話を聞いたから」
「気になるなら追うか?」
荷車を止めるつもりはないらしい。
男は冗談のように笑っていた。
「今は仕事中」
セリナは前を向いた。
不確かな噂を確かめるために、引き受けた仕事を捨てる理由はなかった。
◇
町へ着いたのは、日が傾き始めた頃だった。
門を通る前に、荷台の樽を確認する。
六つ。
封は出発時と変わっていない。
荷車にも、泥へはまった時についた以上の傷はなかった。
町の中にある倉へ着くと、受取人も交えてもう一度数える。
「確かに六つだ」
受取人が言った。
御者の男は、約束した金額をセリナへ渡す。
セリナはその場で数えた。
「合ってる」
「明日は南へ行く」
「そう」
「同じくらい払う。どうだ?」
「行き先は?」
男が地名を答える。
ここからなら二日ほど。
進みたい方向からは少し外れる。
「危険は?」
「今日より道はいい。だが、途中で野営になる」
「荷物は?」
「明日の朝に決まる」
「じゃあ、荷物を見てから決める」
「今、引き受けてくれれば宿代も出すぞ」
「決まってない荷物を運ぶとは言えない」
「本当に慎重だな」
「明日の朝、まだ人が必要なら聞く」
今日の仕事は終わった。
明日の仕事まで、今日決める必要はない。
◇
セリナは宿を二軒見て、安い方を選ばなかった。
安い宿の裏口には鍵がなかった。
もう一方は少し高かったが、部屋ごとに内側から掛けられる閂がある。
井戸も近い。
食事は別料金だった。
荷物を部屋へ置き、泥のついた服と靴を拭く。
胸元から古い方位磁針を外した。
軽く揺らしても、歪んだ針は方角を示さない。
その隣へ、灰色の小石を置く。
どちらも旅の役には立たない。
それでも、今日も捨てなかった。
着替えを終えると、食事を取るため一階へ下りた。
食堂には、荷運びを終えた者や旅人が集まっている。
空いていた壁際の席へ座り、豆と肉の煮込みを頼んだ。
量は多くない。
パンを追加すれば足りる。
食べ始めてすぐ、隣の卓から大きな声がした。
「だから、地下へは行けないって言ってるんだ」
「入口が閉まっただけだろ。開くまで待てばいい」
「閉まったんじゃない。なくなったらしいぞ」
セリナはパンをちぎる手を止めなかった。
地下。
入口。
珍しくない話ではある。
崩落や魔物の増加で、地下への道が封鎖されることはある。
「なくなるわけないだろ」
「実際、探索者組合が人を止めてる。中へ入れないんだから同じだ」
「どこの地下だ?」
別の男が話へ加わる。
答えられた街の名を聞いて、セリナは初めて顔を上げた。
知っている街だった。
以前、《淫獄》へ戻る時に使うと夜斗から聞いた地下入口がある場所。
「魔物が溢れたのか?」
「逆だ。地下ごと取られたんだと」
「誰に」
「異空間を持ってる男だよ。地下の入口を自分の場所へつなげて、最後には全部隠したらしい」
「それができるなら、随分な能力だな」
「領主も探してるそうだ」
話している者たちは、誰もその場を見たようには聞こえなかった。
一人が聞いた話へ、別の一人が違う噂を足している。
「名前は?」
「ヤト、とか言ったか」
「夜斗だろ」
セリナの手が止まった。
知っている名前だった。
◇
「その夜斗は、どんな男?」
セリナが尋ねると、卓の男たちがこちらを見た。
「知ってるのか?」
「同じ名前を知ってるだけ」
「黒髪の若い男らしい」
「女ばかり連れてるって聞いたぞ」
「竜もいる」
「竜を連れて歩いてたら、もっと騒ぎになってるだろ」
「人に化ける竜だ」
「魔物を飼って、地下へ放してたって話じゃなかったか?」
「違う。地下から出てきた魔物を従えたんだ」
「領主へ反乱するために集めてるらしい」
「俺が聞いたのは、地下へ入る奴から金を取るつもりだったって話だぞ」
答えは、すぐにばらばらになった。
夜斗が地下を奪った。
地下を隠した。
魔物を飼っている。
竜を従えている。
通行料を取ろうとしている。
領主へ反乱しようとしている。
「誰が見たの?」
セリナが聞く。
男たちは互いの顔を見た。
「探索者が見たんだろ」
「組合の巡回者じゃなかったか?」
「街から来た商人が言ってた」
「領主の兵が探してるなら、何かしたのは本当だ」
「それは、誰から聞いた?」
「宿で聞いた」
この宿とは別の宿らしい。
いつ聞いたのかも、誰が最初に話したのかも分からない。
「知り合いなのか?」
「まだ、同じ人か分からない」
黒髪の若い男。
異空間を持つ。
女たちといる。
そこまでは、セリナの知る夜斗と重なる。
だが、同じ特徴を持つ別人がいないとは言えない。
夜斗が本当に何かした可能性もある。
何もしていないのに、名前だけが広がっている可能性もある。
「その街から来た人は、今ここにいる?」
「さあな」
「昼に着いた隊商なら、向かいの宿へ入ったぞ」
セリナは残った煮込みを食べた。
急いでも、聞いた話が正しくなるわけではない。
代金を払い、食堂を出る。
◇
向かいの宿では、街から来た隊商の荷ほどきが続いていた。
セリナは邪魔にならない場所で待ち、手が空いた者へ水を一杯渡した。
「あの街の地下が使えないって聞いた」
「ああ。こっちにも届いてるのか」
「何があったの?」
「分からん。入口が使えなくなった。探索者が減って、地下向けの道具が売れない。だから積み荷を変えた」
男が荷箱を指す。
以前なら採掘道具を運んでいたが、今回は日用品が多いらしい。
噂ではなく、商売への影響は実際に出ている。
「夜斗という男を知ってる?」
「名前だけだ。異空間の持ち主だろ」
「地下を奪った?」
「そう言う奴もいる」
「あなたは?」
「奪えるものなのかも知らん」
男は水を飲んだ。
「ただ、そいつらが地下の異変に関わったのは確からしい。入口の途中に、その男の異空間があったそうだ」
「誰から聞いた?」
「あの街の道具屋だ。道具屋は探索者から聞いたと言っていた」
「本人を見た?」
「見てない」
「領主が探してるのは?」
「兵が名前と特徴を聞いて回ってる。捕まえろという話なのか、事情を聞きたいだけなのかは知らん」
先ほどの宿より、分かっていることが少なかった。
その代わり、分からないことを勝手に増やさない男だった。
「ありがとう」
「知り合いなら、近づかない方がいいぞ」
「知り合いかどうかも、まだ決めてない」
「名前が同じなら十分じゃないのか?」
「同じ名前の人はいる」
「異空間持ちまで同じなのか?」
そこまで同じ者が何人いるのか、セリナも知らなかった。
◇
自分の部屋へ戻ると、寝台の脇に二つが並んでいた。
壊れた方位磁針。
《淫獄》の庭から持ち出した、普通の小石。
夜斗という名前。
異空間。
地下入口のある街。
別々の相手から聞いた話で、そこだけは一致している。
それ以外は、ほとんど違っていた。
夜斗が地下を奪ったのか。
入口を隠したのか。
領主へ逆らったのか。
竜や魔物を従えているのか。
何も分からない。
今すぐ荷物をまとめても、答えは増えない。
明日の仕事も、まだ引き受けていない。
どの道を選ぶかは、朝になってから決められる。
セリナは方位磁針を手に取った。
針は、今日も方角を示さない。
「その名前、知ってる」
小さく言って、元の場所へ戻した。
知っている名前だった。
だからといって、噂まで知っている事実にはならない。
本人に聞かなければならないことが、一つ増えた。
セリナはまだ、帰る支度を始めなかった。




