第157話 信用するとは、言っていない
月野アヤメが部屋の外へ出たのは、召喚されてから四日目の朝だった。
音はしなかった。
俺が食堂から廊下へ出ると、壁に片手をついたアヤメが立っていた。
「うわっ」
「……大声を出さないで」
「いつからそこにいたの?」
「今、出たところ」
全然気づかなかった。
身体へ沿う暗い衣服は、まだ寝込んでいた時と同じものだ。
髪は後ろでまとめ直してある。
顔色は初日より良くなっていた。
それでも、壁から手を離せるほどには戻っていないらしい。
「歩いて大丈夫なのか?」
「大丈夫かどうかを確かめています」
「一人で?」
「歩けるかどうかは、私が歩かなければ分からないでしょう」
一歩、足を前へ出す。
身体がわずかに傾いた。
俺が手を伸ばすより先に、アヤメは壁へ肩をつけて姿勢を戻した。
「今のは大丈夫に見えなかった」
「倒れてはいません」
「倒れなければ大丈夫ってことにはならないだろ」
アヤメが俺を見る。
「この場所では、皆、その言い方をするのね」
「最近、多いんだ」
昨日、ファステも同じようなことを言っていた。
アヤメは廊下の奥を見る。
「食堂は、あちら?」
「うん。でも、呼んでくれれば食事を運ぶよ」
「自分で歩きます」
「無理なら?」
「その時に頼みます」
俺が止めても、聞きそうにない。
だから少し前を歩き、いつでも支えられる距離を空けた。
「近すぎる」
「倒れた時に間に合わない」
「支えてほしいとは言っていません」
「まだ倒れてないからだろ。倒れてから許可を取るのは難しくない?」
アヤメは少し考えた。
「触れる前に声をかけて」
「分かった」
食堂までは、普段ならすぐだ。
今日はずいぶん遠く感じた。
アヤメは一歩ずつ確かめるように進んだ。
途中で二度止まり、それでも部屋へは戻らなかった。
食堂へ入る。
「アヤメさん」
ファステがすぐに立ち上がった。
「まだお休みになっていた方が――」
「歩けます」
「歩けることと、歩き続けてもよいことは別です」
アヤメが俺を見る。
「やはり、皆が言うのね」
「ここでは便利な言葉だからな」
リゼが答えた。
食卓には、ナーヴァが買った椅子が並んでいる。
アヤメは空いている椅子へすぐ座らず、その脚と背もたれを一度確認した。
「何を見てるの?」
ヴィオラが尋ねる。
「壊れていないか」
「普通の椅子だよ」
「普通に見える物が安全とは限りません」
「疑いすぎじゃない?」
「知らない場所ですから」
アヤメが椅子へ腰を下ろす。
背中を預けず、すぐ立てる姿勢のままだった。
ファステが柔らかく煮た穀物と、薄いスープを運んでくる。
「昨日より、少し量を増やしております」
「食べられます」
「残しても問題ありません」
「食べられると言いました」
「無理にすべて召し上がっていただくとは言っておりません」
二人が見つめ合う。
アヤメは先に匙を取った。
「……分かりました」
少し不満そうに見えた。
それでも、食べ始める。
俺たちも朝食へ戻った。
ナーヴァの前には、ほかより明らかに多く料理が並んでいる。
アヤメの視線が止まった。
「その方だけ、量が違う」
「我が多く食うからだ」
ナーヴァが答える。
「役目は?」
「今は食事をしておる」
「そうではなく、この場所での役目」
「決まっておらぬ」
ナーヴァは肉を口へ運ぶ。
「必要なら戦う。狩りたければ狩る。湯を温めたい時は炎を使う」
「命令を受けて?」
「我が決めてだ」
アヤメが俺を見る。
「あなたより強い?」
「たぶん比較にならないくらい」
「我の方が強い」
ナーヴァが訂正する。
「それでも、従わせているの」
「従わせてない」
「では、なぜここにいるのです」
ナーヴァの手が止まった。
「我がここにいたいからだが?」
ほかにどんな理由がある。
そんな顔だった。
アヤメは何も返さない。
今度は、ミネットの椅子の下へ視線を落とした。
縁が丸くなっている。
「その小さな生き物は」
「縁です。私の使い魔です」
ミネットが答える。
「種類は?」
「分かりません」
「能力は?」
「分かりません」
「食性は?」
「完全には分かっていません」
「それで契約したの?」
「はい」
「危険では」
「可能性はあります」
アヤメの眉がわずかに動く。
「何も分からないまま、使い魔にしたように聞こえます」
「何も分からないとは言っていません」
ミネットは足元の縁を見る。
「縁が繰り返し私の近くを選んだこと。私について外へ出たこと。契約を一度中断した後、自分から戻ってきたことは確認しています」
「意思疎通ができる?」
「言葉による明確な意思疎通は、まだ確認できていません」
「では、あなたがそう思いたいだけかもしれない」
「はい。その可能性は、今も残しています」
ミネットは否定しなかった。
「ですが、私が望んだことだけで契約したのではありません」
縁が椅子の下から顔を出す。
ミネットの足へ鼻先を寄せてから、また奥へ戻った。
アヤメは、その動きを最後まで見ていた。
「あなたは学生だと聞きました」
「はい」
「ここに住んでいるのに?」
「住民として登録されていますが、学校にも所属しています」
「どちらの命令を優先するの」
「どちらからも、常に命令を受けているわけではありません」
「学校へ戻れる?」
「戻るつもりです。現在は街へ入る危険があるため、方法を検討しています」
「ここへ住むことを命じられたわけではない?」
「自分で入りました」
「召喚ではなく?」
「はい」
アヤメの匙が止まった。
「自分から、この異空間へ?」
「説明を聞き、分からないことが残った状態で入りました」
「なぜ」
「ここで暮らしながら調べたいと思ったからです」
ミネットは少し考えてから続ける。
「今後も住み続けるかは、学校を卒業してから改めて決めます」
「途中で出てもよいと?」
「すでに何度も出ています」
「戻る時は?」
「夜斗さんに入口を開いていただきます」
アヤメの視線が俺へ戻った。
「やはり、出口を握っているのはあなたなのね」
「……うん」
その言葉は、思っていたより重かった。
◇
朝食の後、アヤメは部屋へ戻らなかった。
「もう少し見ます」
そう言って、食堂の椅子へ座ったまま、俺たちを見ていた。
何かを手伝おうとはしない。
質問もほとんどしない。
ただ、見る。
ファステが食器を片づける。
俺も運ぼうと立ち上がると、ファステは一部を渡し、残りは自分で持った。
全部を俺に任せるわけでもない。
全部を自分だけでやろうとするわけでもない。
レイナと千代は、街へ伝わっている情報をもう一度整理している。
ヴィオラは横から口を挟み、何度か話を脱線させ、そのたびにリゼから戻された。
ナーヴァは食べ終わると、自分の椅子を少しだけ引き、卓の下を覗いた。
「小さいのがおらぬ」
「縁ならミネットの椅子の下だよ」
「我の椅子の下にも来ればよいのに」
「呼べば?」
「呼んで来たなら、我が選ばれたことにならぬ」
そう言いながら、ナーヴァは縁の近くへ自分から移動した。
アヤメは、それも見ている。
「王は、何をしているの」
不意に聞かれた。
「俺?」
「ほかに誰がいるのです」
「今は食器を拭いてる」
「そうではなく」
また同じやり取りになった。
「この場所で、あなたが担う役目は?」
「入口を開く。能力の表示を確認する。皆で決めないといけないことがあれば話す」
「最後に決めるのは?」
「内容による」
「あなたではないの?」
「俺が決めないと能力を使えないことは、俺が決める。でも、誰かが何をするかは本人が決める」
「意見が割れた場合は」
「話し合う」
「決まらなければ?」
「決めないこともある」
「急ぐ場合は?」
「それでも、分かる範囲で相談する。戦ってる最中なら、リゼや千代の判断に従うこともある」
「王なのに」
「王って呼ばれてるだけで、偉くなったわけじゃないから」
「《淫獄の王》なのでしょう?」
「能力名はそうなってる」
「領域も住民も持っている」
「住民は持ってない」
アヤメが俺を見る。
「登録されている」
「登録されてることと、俺の物になることは別だ」
言い終わってから、また使っていることに気づいた。
アヤメも気づいたらしい。
「本当に、便利な言葉ね」
「だろ?」
「褒めてはいません」
◇
昼前になると、アヤメの顔色がまた悪くなった。
「部屋へ戻りましょう」
ファステが声をかける。
「まだ確認が」
「何を確認しているのですか?」
アヤメは答えない。
ファステも急かさなかった。
しばらくして、アヤメが俺へ視線を向ける。
「この場所が、牢でないか」
食堂の中が静かになった。
「牢?」
「外へ出るには、あなたが入口を開く必要がある」
「うん」
「住民は自由だと言いながら、出口は一人が握っている」
何も言い返せなかった。
出たいと言われたら開くつもりだ。
でも、それは俺のつもりでしかない。
俺が拒めば、少なくとも今確認できている方法では、アヤメは自分だけで外へ出られない。
「私が今、出たいと言えば?」
「今は止める」
「自由ではない」
「毒で倒れて、まだ一人で食堂まで歩くのも危ないからだ」
「それを理由に、いつまで止めるの」
「……分からない」
「あなたが大丈夫だと判断するまで?」
「俺一人では決めない。アヤメさんの状態を皆で見て、本人とも話す」
「それでも、最後に入口を開くのはあなたです」
「そうだな」
認めるしかなかった。
ここは安全だと思っている。
俺にとっても、皆にとっても、帰る場所になった。
けれど、知らない場所から突然連れてこられたアヤメにとっては違う。
窓の外に庭がある。
壁門の向こうにも空間は続いている。
それでも現地世界へ通じる入口は、俺が開かなければ現れない。
「牢にするつもりはない」
「つもりは、確認できません」
「うん」
「否定しないの?」
「今、アヤメさんが勝手に外へ出られないのは本当だから」
アヤメの目がわずかに細くなる。
「じゃあ、どうすれば牢じゃないって証明できる?」
「私に聞くことではありません」
「そうだよな」
「ただし」
アヤメが言葉を切る。
「不都合な点を指摘された時に、すぐ否定しないことは確認しました」
「それは、少しは信用できる?」
「観察項目が一つ増えただけです」
「厳しいな」
「知らない王に召喚されたばかりですから」
当然だった。
ファステがアヤメのそばへ立つ。
「お部屋へお戻りになりますか?」
「戻ります」
「お支えしても?」
アヤメは一瞬迷い、頷いた。
「お願いします」
ファステが腕を支える。
立ち上がったアヤメの足元が揺れた。
今度は、無理に自分だけで耐えようとはしなかった。
◇
午後、アヤメの部屋を訪ねた。
扉を叩く。
「夜斗です。入っていい?」
すぐには返事が来なかった。
「どうぞ」
中へ入る。
アヤメは寝具の上へ座り、小箱の中身を確認していた。
暗い衣服の内側から、細い刃物が何本も出ている。
短い針。
薄い金属片。
小さな袋。
黒栓の瓶。
「そんなに持ってたの?」
「すべては見せません」
「まだあるんだ……」
「身体を調べなかったのね」
「必要なかったから」
「武器を隠している可能性は考えなかった?」
「考えた。リゼも近くにいたし、起きていきなり襲われたら止めるって言ってた」
「他人任せ」
「俺より強いから」
アヤメは細い刃を一本持ち上げる。
刃先がこちらへ向いた。
思わず身体が固まる。
「怖い?」
「怖いよ」
「それでも取り上げない?」
「今、俺を刺すつもり?」
「答える義務はありません」
「それなら、ちょっと取り上げたくなる」
正直に言うと、アヤメの目がわずかに動いた。
「でも、取り上げたら安心できるかっていうと、たぶん違うんだろ?」
「なぜ」
「見つけてない武器がまだあるんだから」
「そうね」
刃先が下がる。
アヤメは布で刃を包み、小箱へ戻した。
「今のは確認?」
「あなたが、どこまで自分の言葉を守るか」
「刺されるかと思った」
「刺していません」
「刺してないことと、怖くなかったことは別だからな」
「使い方を覚えましたね」
「前から使ってるよ」
アヤメが小箱の蓋を閉じる。
「それで、何を聞きに来たの」
「体調」
「朝より疲れています。毒の症状が戻ったわけではありません」
「ほかには?」
「ほか」
「食べたい物とか、部屋に足りない物とか」
「ありません」
「本当に?」
「今は」
「分かった」
それだけ聞いて帰ろうとした。
「待って」
「何?」
「変装について聞かないの」
足が止まった。
「……聞きたい」
「情報収集は?」
「ものすごく聞きたい」
「潜入や追跡を避ける方法も」
「聞きたいよ」
アヤメが俺を見ている。
「では、なぜ聞かないの」
「今聞いたら、仕事を頼む話になるから」
「話を聞くことと、依頼することは別でしょう」
「それはそうだけど」
少し迷った。
「興味だけで聞いていい?」
「内容によります」
「どうやって姿を変えるの?」
口にした瞬間、質問が子供っぽかった気がした。
アヤメは表情を変えない。
「衣服、髪形、化粧、姿勢、声、歩き方。必要なら体格が違って見えるよう布も入れます」
「魔法じゃない?」
「使える術を使うことはあります。ただし、術へ頼れば、それを見破れる相手に痕跡を渡す」
「消えたりは?」
「しません」
「別人の顔になるとか」
「顔そのものを変えるのではなく、相手が覚える特徴を変えます」
「すごいな」
「基礎です」
「それが基礎なの?」
「私のいた場所では」
アヤメは小箱へ手を置く。
「候補の表示だけで、そこまで分かっていたの?」
「短い説明だけ。詳しい方法までは知らなかった」
「それでも、今の問題に使えると思った」
「うん」
「やはり、私の能力が欲しかったのね」
胸の奥が少し痛んだ。
「欲しかった」
否定しなかった。
「街へ行って、領主が何をしてるのか調べてもらえたらって思った。今も、できるなら助かると思ってる」
「私が断れば?」
「困る」
「住民ではなくする?」
「しない」
「がっかりする?」
答えに詰まった。
しないと言えば綺麗だ。
でも、たぶん嘘になる。
「……すると思う」
「そう」
「期待して選んだのは本当だから。でも、がっかりしたからって、やらせていいことにはならない」
アヤメは黙って俺を見た。
「正直なら、信用できると思っている?」
「思ってない」
「では、なぜそこまで話すの」
「隠して、後から知られる方がもっと信用されないと思うから」
「それは、あなたの都合ね」
「うん」
何を答えても、簡単には信用されそうにない。
でも、それでよかった。
召喚されて四日しか経っていない。
それも、ほとんど寝込んでいた四日だ。
「今日は、もう帰る」
扉へ向かう。
「夜斗」
初めて、名前だけで呼ばれた。
振り返る。
「あなたの話を信じたとは言っていません」
「分かってる」
「住民たちが自由に見えることも、そう見せている可能性がある」
「うん」
「私を助けたのも、利用するためかもしれない」
「否定しても証明できないな」
「ええ」
アヤメは小箱から手を離した。
「ですが、あなたが私の能力を欲しがっていることは、信用します」
「そこ?」
「自分で認めたでしょう」
「認めたけど」
「隠されるより、判断しやすい」
信用されたのは、俺ではなかった。
俺の欲望の方だった。
少し複雑だ。
「それで十分?」
「今は」
アヤメが横になる。
「扉を閉めて」
「分かった」
言われたとおり、外から静かに閉めた。
◇
その翌日も、アヤメは俺たちを見ていた。
食事の時だけ部屋から出る。
疲れれば戻る。
質問をする。
答えを聞く。
同じことを別の人にも聞く。
俺が話した内容と、リゼや千代の答えが食い違わないか確かめているらしい。
セリナという住民が外を旅していること。
ミネットが学校へ戻るつもりでいること。
ナーヴァが頼みを断ることもあること。
エウリオという別の王が来訪者として出入りし、俺の命令には従っていないこと。
ファステが誰かの命令ではなく、自分でここに残っていること。
一つずつ聞いていく。
「調べられてるみたいだな」
俺が言うと、アヤメは否定しなかった。
「調べています」
「隠さないんだ」
「隠す必要がありません」
「何を調べてる?」
「あなたたちが、私へ話したとおりの集団なのか」
「結果は?」
「まだ途中です」
「いつ終わる?」
「終わると思っているの?」
「ずっと調べるの?」
「必要なら」
さすが、情報収集に適性があると表示されただけはある。
寝込んでいても、もう仕事のようなことをしている。
「それ、休めてる?」
「身体は休めています」
「頭は?」
「動かせます」
「動かせることと――」
「それ以上は結構です」
先に止められた。
◇
召喚から六日目。
アヤメは壁へ手をつかず、食堂まで歩いた。
食事も一人分の大半を食べた。
まだ普段どおりとは言えない。
けれど、初日に床へ崩れた姿からは、かなり戻っていた。
食後、アヤメが俺を呼び止める。
「街について、もう一度説明して」
「前に話したけど」
「今度は詳しく」
「行くってこと?」
「まだ言っていません」
すぐに否定された。
「では、なぜ?」
「判断するためです」
「何を?」
「あなたたちが入れなくなった街へ、私が入れる可能性があるか」
全員の視線がアヤメへ集まる。
「体調は?」
ファステが尋ねた。
「まだ完全ではありません」
「では――」
「今日行くとは言っていません」
アヤメが俺を見る。
「街への道。門で確認されること。あなたたちの顔を知る者。探索者組合と領主の関係。広がっている噂。最後に街へ入ったのは誰で、いつなのか」
一つずつ挙げていく。
「分かっていることを、すべて話して」
「聞いてから断ってもいいんだよな?」
「当然でしょう」
アヤメは迷わず答えた。
「分かった。話す」
地図。
これまでの記録。
街で使っていた名前。
組合へ伝えた内容。
エウリオが持ち帰った噂。
必要な物を食卓へ集めていく。
アヤメは、まだ俺たちを信用したとは言っていない。
街へ行くとも言っていない。
それでも、判断するための情報を求めた。
俺たちにとって都合のいい答えを、まだ何一つ約束しないまま。
月野アヤメは初めて、自分の意思で、俺たちの問題へ目を向けた。




