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このスキル、やばスギル。 ~ガチャ沼に堕ちたら俺の負け~  作者: 明日乃風
第十二章 「向こうから、つながった」

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第156話 仕事を頼む前に

 光が、人の形へ集まっていく。


 頭。


 肩。


 腕。


 片膝をついた脚。


 第十の枠に映っていた姿が、食堂の床へ重なった。


 黒に近い髪を後ろでまとめた女。


 身体へ沿う暗い色の衣服。


 顔色は、表示で見た時と変わらない。


 いや。


 実際に目の前で見ると、もっと悪かった。


『R《毒を飲み込む隠者》月野アヤメ』


『月野アヤメを《住民》として登録しました』


 文字が浮かぶ。


 アヤメの身体が前へ傾いた。


「危ない!」


 リゼが腕をつかむ。


 それでも支えきれず、片膝が床へ落ちた。


 アヤメは反対の手を床につき、顔を上げようとする。


 開いた目が、一瞬だけ俺たちを順に見た。


 人数。


 位置。


 武器。


 出入口。


 そこまで確認したように見えた直後、身体から力が抜ける。


「寝かせるぞ」


 リゼとナーヴァが身体を支えた。


 用意していた寝具へ横たえる。


「アヤメさん、聞こえますか?」


 ファステが呼びかける。


 返事はなかった。


 けれど、呼吸はある。


 浅く、速い。


 額には汗が浮かび、唇の端には候補表示と同じ黒ずんだ赤い跡が残っていた。


「本当に毒を飲んでたのか?」


 俺が聞くと、ミネットがすぐに答えた。


「まだ断定できません」


 そう言いながらも、アヤメの顔と手を見ている。


「ですが、正常な状態には見えません。召喚によって回復した様子もありません」


「毒なら、どうすればいい?」


「種類が分かりません。分からない毒へ、こちらの判断だけで何かを飲ませるのは危険です」


「では、本人に聞くしかないの」


 千代がアヤメのそばへ膝をついた。


「月野アヤメ。聞こえるか」


 アヤメの瞼がわずかに動く。


 千代がもう一度、名前を呼んだ。


「……誰」


 掠れた声だった。


「名は後で伝える。其方は毒を飲んだのか」


 返事が来るまで、少し時間がかかった。


「……毒」


「何の毒だ?」


 アヤメの唇が動く。


 音にならない。


 無理に聞き返そうとした俺を、千代が手で止めた。


「解毒する物を持っているか」


 アヤメの指先が動いた。


 自分の左腕へ触れようとして、途中で落ちる。


「左腕?」


「……袖、内……白い、紐」


 リゼが俺たちを見る。


「本人が場所を示した。探すぞ」


「衣服を切ったりはしないでください」


 ファステが言う。


「必要な範囲だけ確認します」


 リゼが左袖へ触れる。


 暗い布の内側に指を入れ、縫いつけられた小さな袋を見つけた。


 袋の口は白い紐で結ばれていた。


「これか?」


 アヤメの瞼がわずかに動く。


 肯定なのかも分からないほど、小さな反応だった。


 リゼが白い紐をほどく。


 中には、指より短い細瓶が二本入っていた。


 片方は黒い栓。


 もう片方は白い栓。


「どちらだ」


「……白」


 リゼが白い栓の瓶を取り出す。


「これを飲むのか?」


「……そう」


「全部?」


 間が空く。


 アヤメの呼吸が一度、大きく乱れた。


「アヤメさん?」


「……一瓶」


「分かった」


 ファステがアヤメの上体をわずかに支える。


 完全に仰向けのまま飲ませることはしない。


 レイナが栓を抜き、瓶の口をアヤメの唇へ近づけた。


「ご自分で飲めますか?」


 アヤメの手が上がる。


 けれど、瓶へ届く前に震えて落ちた。


「支えます。嫌なら止めてください」


 ファステが告げる。


 アヤメは目を閉じたまま、小さく頷いた。


 瓶が傾く。


 一度に流し込まず、飲み込んだことを確認しながら少しずつ口へ含ませる。


 途中でアヤメが咳き込み、ファステがすぐ瓶を離した。


 呼吸が落ち着くまで待つ。


 残りも飲み終えると、空になった瓶をレイナが布の上へ置いた。


「これで治る?」


 ヴィオラが聞いた。


「……止まる」


 アヤメが答える。


「何が?」


「回る、のが」


 それ以上は続かなかった。


 身体が再び寝具へ沈む。


「アヤメさん?」


 ファステが呼ぶ。


 反応はない。


 ただ、呼吸は続いていた。


「治るとは言っていません」


 ミネットが空の瓶を見る。


「止まる、とだけ言いました」


「毒が回るのが止まるってことか」


「その可能性はあります。ですが、確認できるまでは――」


「分からない、だな」


「はい」


 俺は寝具の上のアヤメを見る。


 召喚すれば助かるかもしれないと思った。


 候補表示が今の姿なら、ここへ呼べば何かできるかもしれない。


 そう考えて選んだ。


 でも、召喚は毒を消していなかった。


 俺が選んだだけでは、何も終わっていなかった。


     ◇


 しばらく待っても、アヤメの顔色はすぐには戻らなかった。


 呼吸の速さも、大きくは変わらない。


 それでも、さっきまでより悪くなってはいないように見えた。


「このまま食堂に置くわけにはいかないな」


 リゼが言う。


「空いている部屋へ移しましょう」


 レイナが立ち上がった。


「ただし、アヤメさんのお部屋と決めるのは、ご本人が起きてからです。今は休んでいただくためにお借りします」


「うん」


 まだ誰のものとも決めていない部屋の一つへ、寝具ごと移すことにした。


 ナーヴァが持ち上げようとする。


「寝具ごとなら、我一人で運べる」


「ゆっくりな」


「分かっておる」


 ナーヴァが寝具の端へ両手を入れる。


 本当に、一人で簡単に持ち上げた。


 けれど歩く速度は、普段よりずっと遅かった。


 廊下の角でも急に向きを変えず、アヤメの身体が揺れないように進んでいく。


 部屋へ運び終えると、ファステとレイナが寝具を整えた。


 千代は交代で様子を見る順番を決める。


「ずっと一人が張りつく必要はない。ただし、目を覚ました時に誰もいない状態は避けよう」


「私が最初に見ます」


 ファステが言った。


「次は俺でいい」


「夜斗は少し休め」


 リゼに止められた。


「でも、俺が召喚したんだぞ」


「召喚したことと、一人で全部見ることは別だろ」


 すぐに返される。


 ミネットが小さく頷いた。


「今のところ、夜斗さんにしかできない処置は確認されていません」


「そうだけど」


「必要になったら呼ぶ」


 リゼが部屋の入口へ立つ。


「今は、邪魔をしないのも仕事だ」


 俺は何も言い返せなかった。


 アヤメの持ち物は、本人のそばへまとめて置いた。


 左袖から出した二本の細瓶も、勝手に捨てない。


 空になった白栓の瓶は布で包み、残った黒栓の瓶には触れず、袋ごと小箱へ入れた。


 衣服のほかの場所にも何か入っているかもしれない。


 でも、必要もないのに探すことはしなかった。


 武器を持っている可能性はある。


 毒を隠している可能性もある。


 それでも、意識のない人間の衣服を全部調べる理由にはならない。


「目を覚まして、いきなり襲ってきたら?」


 ヴィオラが小声で聞く。


「私が止める」


 リゼが答えた。


「だからといって、今のうちに全部奪う必要はない」


「うん」


 縁が廊下から部屋を覗いている。


 ミネットの足元から離れず、鼻先だけを入口へ向けていた。


「縁は入れません」


 ミネットが言う。


「アヤメさんが、目覚めた時に近くにいてほしいと望むか分かりませんから」


 縁は呼ばれてもいないのに、ミネットと一緒に少し後ろへ下がった。


     ◇


 その日の夜、アヤメは一度だけ目を覚ました。


 知らせを受けて部屋へ入ると、彼女は寝具の上で身を起こそうとしていた。


「動かない方がいい」


 俺が言うと、鋭い目が向いた。


 候補表示で見た時より焦点は合っている。


 それでも、額には汗が浮かんでいた。


「ここは」


「《淫獄》っていう異空間。俺の能力で――」


「誰の命令で、私を運んだ」


 声は弱い。


 けれど、聞き方には迷いがなかった。


「命令じゃない。倒れたから、皆で運んだ」


「皆」


 アヤメが部屋の中を見る。


 俺。


 入口にいるリゼ。


 水と布を持つファステ。


 少し離れて記録帳を持つミネット。


 アヤメの右手が、衣服の脇へ動いた。


 何かを探している。


「持ち物はそこにある」


 俺は小箱を示した。


「左袖の白い瓶だけ使った。あなたに言われたとおり、一瓶全部。黒い栓の方は触ってない」


 アヤメの手が止まる。


「……白を?」


「うん」


「飲ませたのか」


「自分で飲めなかったから、支えた。嫌だったなら、ごめん」


 アヤメはしばらく俺を見た。


 やがて自分の腹へ手を当てる。


「どのくらい」


「何が?」


「時が経った」


「召喚されてからなら、半日も経ってない」


「召喚」


 その言葉を繰り返した直後、アヤメの身体が揺れた。


 ファステが支えようとする。


 だが触れる直前で止まり、声をかけた。


「お支えしてもよろしいですか?」


「……構わない」


 許可を得てから、背中へ手を添える。


「水は飲めますか?」


「少し」


 ファステが器を渡した。


 アヤメは自分で持とうとしたが、指に力が入らない。


 両手で器を支え、ほんの少しだけ口へ含む。


 それだけで疲れたように目を閉じた。


「主は」


 アヤメが呟いた。


「主?」


「私に、修行を命じた方はどこにいる」


「分からない」


 俺は答えた。


「俺たちは、あなたがどこにいたのかも知らない。ここへ召喚したのは俺だけど、元いた場所がどこかは表示されなかった」


「戻せるのか」


「……分からない」


 アヤメの目が開く。


「分からない?」


「召喚した人を元の場所へ戻したことはない。戻す方法があるかも分からない」


 嘘をついて安心させることはできなかった。


 アヤメは起き上がろうとした。


「戻らなければ」


「今は無理だ」


「任務を」


 腕に力を入れた途端、身体が崩れる。


 ファステが支えなければ、寝具から落ちていた。


「今の状態で戻れても、任務はできないだろ」


「それを決めるのは、あなたではない」


「うん」


 反射的に頷いた。


「決めるのはアヤメさんだ。でも、戻る方法が分からないのは本当だ」


 アヤメが俺を見る。


「それと、今すぐ動いたら倒れるように見える。それでも動くかは、話を聞いてから自分で決めてほしい」


「話」


「ここがどこか。俺たちが何を知っていて、何を知らないか」


 俺は一度、息を吸った。


「ただ、今全部話す必要はない。先に休んでいい」


「先に情報を」


 言い切る前に、アヤメが口元を押さえた。


 ファステが用意していた器を差し出す。


 しばらくして、アヤメは完全に力を失った。


 もう起きようとはしなかった。


「……情報より先に、身体を休めてください」


 ファステが背中をゆっくり撫でる。


 アヤメは返事をしなかった。


 けれど、拒みもしなかった。


     ◇


 解毒薬を飲んだからといって、翌朝には元気になっている。


 そんなことはなかった。


 アヤメは熱を出した。


 何度か目を覚まして水を飲み、そのたびに少しだけ話そうとする。


 けれど、長くは続かない。


 食事もほとんど取れなかった。


 ファステが薄いスープを用意しても、最初の日は数口で終わった。


 二日目には、自分で器を持てる時間が少し伸びた。


 それでも、部屋の外へ出ることはできなかった。


「《毒を飲み込む隠者》なのに、毒でこんなに苦しむんだな」


 俺が廊下で呟くと、ミネットが記録帳から顔を上げた。


「二つ名が、毒を無効化するという意味だとは表示されていません」


「複数の毒への耐性を育ててる、だったか」


「はい。育てている途中だった可能性があります」


「本人も、修行って言ってた」


「少量で身体を慣らそうとしていたようです。ただし、毒の種類も、本来の服用量も、今回飲んだ量も聞いていません」


「聞かなくていいの?」


「今、答えさせなければならない理由がありますか?」


「ない」


 すぐに答えた。


「今後の体調管理には必要になるかもしれません。ですが、本人が話せるようになってから確認できます」


 ミネットが扉を見る。


 部屋の中から、小さな咳が聞こえた。


 ファステがすぐに様子を見に入る。


 俺は入口の外で待った。


 街へ行けるかもしれない。


 領主が何をしているのか、調べてもらえるかもしれない。


 噂がどこまで広がっているのか、確認できるかもしれない。


 アヤメを選んだ時に考えたことは、今も消えていない。


 でも、それを今、寝具の上で起き上がることもできない人へ話す必要はなかった。


     ◇


 三日目。


 アヤメが初めて、自分で寝具の上へ座った。


 背中には丸めた布を置いている。


 顔色はまだ悪い。


 それでも、目の動きは最初よりずっとはっきりしていた。


 膝の上には、ファステが作った柔らかい食事がある。


「全部食べなくてもかまいません」


 ファステが言う。


「食べられる分だけになさってください」


「食べなければ戻らない」


「はい。ですが、無理をして戻してしまえば、食べられたことにはなりません」


 アヤメが匙を止める。


「……あなたは、誰に仕えているの」


「今は、ここで暮らす皆様のお手伝いをしています」


「今は?」


「以前は、別の方へお仕えしておりました」


 ファステはそれ以上話さなかった。


 アヤメも聞かなかった。


 少しずつ食べ、器の半分ほどで匙を置く。


「今日はここまでにしますか?」


「まだ食べられる」


「食べられることと、今食べた方がよい量は同じではありません」


 アヤメが黙る。


「この場所では、皆そう言うの?」


「最近、増えました」


 ファステが少し笑った。


 アヤメは意味が分からないようだった。


 俺にも、いつからこんなに増えたのかは分からない。


「話を聞ける?」


 アヤメが俺を見る。


「体調は?」


「聞くだけなら」


「つらくなったら途中でやめる」


「私が決める」


「うん。やめたいって言われたら、すぐやめる」


 俺たちは部屋へ全員で入らなかった。


 大人数に囲まれれば、それだけでも落ち着かないかもしれない。


 アヤメに確認し、俺とリゼ、ファステだけが残った。


 まず俺たちの名前を伝えた。


 ここが《淫獄》という異空間であること。


 俺が《淫獄の王》という固有スキルを持っていること。


 その能力に《住民召喚》があること。


 アヤメは《十連召喚》という方法で表示された十人の候補から選ばれ、ここへ来たこと。


 召喚された直後、システム上は住民として登録されたこと。


 順番に話した。


「私以外の九人は」


「分からない」


 俺は答えた。


「実体化しなかった。それ以外は、何も表示されなかった」


「死んだの?」


「それも分からない。元の場所にいるのか、候補として表示されただけなのかも分からない」


 アヤメが目を伏せる。


「私だけを選んだ」


「うん」


「なぜ」


 来た。


 いつか聞かれると思っていた。


 けれど、まだ街の仕事を頼むつもりはない。


 だからこそ、選んだ理由を隠したままにもしたくなかった。


「二つある」


「二つ」


「一つは、アヤメさんが本当に毒で苦しんでるかもしれないと思ったから」


 アヤメの表情は動かない。


「もう一つは?」


「情報を集めたり、見つからずに動いたり、姿を変えて人に紛れたりするのが得意だって表示されてたから」


「それが必要だった」


「必要になるかもしれないと思った」


 俺は、領主から疑われていることを話した。


 ダンジョンの入口が俺の領域と融合したこと。


 侵食と魔物の侵入が起きたこと。


 俺たちが魔物を倒した後、以前の入口が失われたこと。


 今は別の接続地点だけを使っていること。


 領主が俺を、ダンジョン消失の首謀者だと疑っているらしいこと。


 街へ入れば拘束される可能性があり、俺たちが自由に行けなくなっていること。


 アヤメは途中で口を挟まなかった。


 聞き終えてから、短く息を吐く。


「つまり、私を選んだ理由には、街へ行けそうだったことも含まれているのね」


「含まれてる」


 否定はできない。


 助けたかっただけだと言えば、綺麗には聞こえる。


 でも、それは本当の全部ではない。


「でも、断っても住民じゃなくなるわけじゃない」


 アヤメの目が細くなる。


「何を断るの」


「街へ行くこと。情報を集めること。姿を変えること。毒のことを話すこと。俺たちが期待してること全部」


「それでは、なぜ私を選んだの」


「選んだ後で、表示に出てた仕事をやらせるって決めたわけじゃないから」


「役に立たなくても置くと?」


「役に立たないとは思わない。でも、俺たちが考えた役に立ち方を選ばなくても、ここにいていい」


「私には主がいる」


 声の調子が変わった。


 弱っていても、そこだけは明確だった。


「あなたへ仕えるつもりはない」


「分かった」


「召喚されたからといって、主命よりあなたの命令を優先することもない」


「うん」


「戻る方法を探す」


「それも止めない」


 アヤメが俺を見る。


 疑っている。


 当然だと思う。


 知らない場所へ突然連れてこられた。


 知らない男から、ここにいていいと言われた。


 簡単に信じられるはずがない。


「出口は?」


「ある。ただ、今は街の近くに一つだけ。場所は隠してる」


「私も出られる?」


「たぶん。でも、召喚されたばかりの人が実際に通った例はある。アヤメさんだけ通れない可能性までは否定できない」


「出た後、戻れる?」


「俺が入口を開けば戻れる。ただし、離れた場所から好きな時に戻れるわけじゃない」


「監視は」


「外へ出た人を、ここから見続ける機能はない」


「命令に逆らえば?」


「能力で罰する機能も、俺が知る限りはない」


「知らないだけかもしれない」


「そうかもしれない」


 アヤメはしばらく黙っていた。


 やがて、膝の上の器へ視線を落とす。


「毒を飲ませたのは、主ではない」


「え?」


「耐毒の修行を命じられた。量は決められていた」


 そこで言葉が止まる。


「私が誤った。規定より多く飲んだ」


「間違えたの?」


「そのようね」


 自分の失敗を話しているのに、声は平らだった。


「白栓の薬は、修行中の事故に備えたものです。毒がこれ以上回ることを抑える。すでに受けた影響まで、すぐに消すものではない」


「だから、まだつらい?」


「ええ」


「じゃあ、もう休もう」


「まだ話は終わっていない」


「街の仕事は、今日頼まない」


 アヤメが顔を上げる。


「今日だけ?」


「少なくとも、起きて食べて歩けるようになるまでは頼まない。その後も、事情を全部説明してから聞く」


「断れると?」


「さっき言っただろ」


「口約束です」


「そうだな」


 否定できない。


「だから、今すぐ信じなくていい。ここで何日か見てから決めて」


 アヤメは俺ではなく、リゼを見る。


「あなたも同じ意見?」


「こいつが約束を破って仕事を強いるなら、私は止める」


「住民なのに?」


「住民だからだ」


 次に、ファステを見る。


「あなたも?」


「はい。アヤメ様のお身体が戻るまで、お休みいただきたいと思っております」


「様は要らない」


「では、アヤメさんとお呼びします」


「……好きにして」


 アヤメが壁へ背を預ける。


 話しているだけでも、もう限界に近いようだった。


「今日はここまでにしよう」


 俺が立つ。


「待って」


「何?」


「私の持ち物」


「小箱にまとめてある。白い瓶以外は勝手に使ってない」


「刃物も?」


「たぶん。全部は調べてないから分からない」


「毒を持っているかもしれないのに?」


「持ってる?」


「答える義務はありません」


「じゃあ、無理には聞かない。ただ、漏れたり、誰かが触っただけで危ない物があるなら、それだけは教えてほしい」


 アヤメは少し考えた。


「黒栓の瓶には触れないで。封が保たれていれば、近くに置いても問題はない」


「分かった」


「ほかは、私が起きてから確認します」


「それでいい」


 部屋を出ようとすると、後ろから声が来た。


「なぜ、今日は頼まないの」


 振り返る。


 アヤメは寝具へ身体を戻しながら、俺を見ていた。


「必要なのでしょう。街で動ける者が」


「必要だよ」


「なら」


「仕事を頼む前に、元気になってもらわないと話にならない」


 それだけではない。


 寝込んでいる人間に頼めば、断りにくくなる。


 助けてもらった直後なら、借りを返さなければならないと思うかもしれない。


 それを本人の自由な選択と呼べるのか、俺には分からない。


「助けたことを、依頼を受けさせる理由にはしたくない」


 アヤメは何も答えなかった。


 ただ、目を閉じる前に、小さく息を吐いた。


     ◇


 扉を閉める。


 廊下には、千代たちが待っていた。


「どうだった?」


 ヴィオラが聞く。


「話はできた。でも、まだ寝てた方がいい」


「街のことは?」


「説明した。頼んでない」


 千代が頷く。


「それでよい」


「怒ってた?」


「分からない。警戒はされてる」


「当然でしょうね」


 レイナが静かに言う。


「忠誠を誓う方がいらっしゃるのであれば、なおさらですわ」


「俺に仕えるつもりはないって、はっきり言われた」


「よいではないか」


 ナーヴァが壁にもたれたまま言った。


「誰へ仕えるかは、あの者が決めるのであろう?」


「うん」


 選べたのは、ここへ呼ぶ一人だけだ。その先はアヤメが決める。


「まずは、数日休んでもらいましょう」


 ミネットが記録帳を閉じる。


「自力で起きられること。食事を取れること。歩いても症状が悪化しないこと。それを確認してからです」


「それから頼む?」


 ヴィオラが聞く。


「それから、ご本人へ頼みます」


 部屋の向こうからは、もう声がしなかった。


 眠ったらしい。


 俺は十人の中から、月野アヤメを選んだ。


 毒で苦しんでいるかもしれないと思ったことは、間違いではなかった。


 街で役に立ってくれるかもしれないと思ったことも、本当だった。


 でも、選んだだけでは彼女の毒は消えなかった。


 助けたからといって、彼女の任務を俺が決められるわけでもなかった。


 仕事を頼むのは、まだ先でいい。


 まずは明日も目を覚ましてもらう。


 そして、今日より少し多く食べてもらう。


 今の俺たちが月野アヤメに望んでいいことは、それくらいだった。

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