第146話 まだ卒業しません
翌朝、ミネットはいつもより早く支度を終えていた。
肩から鞄を提げ、記録帳が入っていることを確かめる。
その足元には、縁がいた。
「今日は、学校へ契約成立の報告をします」
「縁も連れていくんだよな?」
「はい。契約状態を確認してもらう必要があります」
ミネットが歩き出す。
縁も続いた。
昨日までと同じように見える。
けれど、ミネットは時々、振り返る前に縁の位置を確かめるようになっていた。
「今、見ないで分かった?」
「はい」
ミネットが足を止める。
縁は、そのすぐ後ろで止まった。
「近くにいることと、大まかな方向は分かります」
「どれくらい離れても?」
「確認していません」
「学校までなら分かる?」
「分かりません」
「契約したのに?」
「契約したからこそ、分からないまま試してはいけません」
昨日使えるようになったばかりなのに、もういつものミネットへ戻っている。
そう思った直後、縁がミネットの足へ身体を寄せた。
ミネットの頬が少し緩む。
完全には戻っていないらしい。
「今日は俺とリゼも一緒に行くよ」
「ありがとうございます」
旧固定前室へ続いていた経路は失われたままだ。
外へ出るには、水場の近くへ残した第二接続地点を使わなければならない。
俺たちは周囲を確認してから入口を細く開いた。
外の明るさ。
水の流れる音。
見える範囲に人影はない。
一度閉じ、今度は人が通れる幅で開き直す。
リゼが先に出た。
続いてミネット。
その後ろを、縁が自分の足で越える。
俺も外へ出ると、入口を閉じた。
「反応は?」
俺が聞く。
ミネットは縁へ背を向けたまま、少し考える。
「右後ろにいます」
振り返る。
縁は本当に、ミネットの右後ろにいた。
「合ってる」
「この距離では、昨日と同じです」
「もう少し離してみる?」
「今日はしません」
「学校へ行くから?」
「それもあります」
ミネットが縁を見る。
「初めての登校と、距離の限界を調べる試験を同時に行いたくありません」
「一つずつだな」
「はい」
俺たちは街道へ出た。
縁は昨日と同じように、ミネットの歩調に合わせて進む。
ただし今日は、ミネットも時々縁へ話しかけた。
「人が増えます」
「こちらを歩きます」
「今から学校へ入ります」
縁にどこまで言葉が通じているかは分からない。
それでもミネットは、自分だけが行き先を知っている状態にしなかった。
◇
学校の門へ着くと、昨日と同じ職員が俺たちに気づいた。
その視線が、すぐミネットと縁へ向く。
「今日は、その子に印がありませんね」
「はい」
ミネットは記録帳から革紐を出さなかった。
「昨日、《淫獄》へ戻った後、縁と使い魔契約を結びました」
職員が目を見開く。
「契約を?」
「はい。双方の魔力がつながったことを確認しています」
「学校の外で行ったのですか?」
「私が学校で学んだ、最も単純な契約方法を使いました」
「強制術式は?」
「使用していません」
「契約の中断は可能な状態でしたか?」
「一度目は、縁が離れたため中止しました。その後、縁が自分から戻ってきたため、同じ手順を説明してから再度試しました」
ミネットは、最初の失敗も省かなかった。
縁が戻ったことだけを話して、自分に都合よく成功したようには見せない。
「分かりました。確認できる者を呼びます。ここで待っていてください」
「はい」
昨日と同じ門内の待機場所へ案内される。
縁はミネットの足元へ座った。
「契約したのに、まだ中へ入れないんだな」
「契約したことと、学校側の確認が終わったことは別です」
「それは分かるけど」
「縁が危険ではないと証明されたわけでもありません」
リゼが周囲を見ながら言う。
「昨日より分かることは増えた。でも、知らないことも残っている」
「はい」
ミネットは不満そうではなかった。
「必要な確認です」
やがて職員が、一人の教師を連れてきた。
昨日、屋外の訓練区画に縁を入れてよいか判断した教師だ。
「一晩で進みましたね」
「はい」
「契約の確認をします。できますか?」
教師はミネットだけでなく、縁も見た。
「嫌がる様子があれば、すぐ止めます」
「分かりました」
ミネットが縁の前へしゃがむ。
「昨日と同じつながりを、少しだけ確認します」
手のひらを上へ向ける。
「嫌なら離れてください」
縁は逃げなかった。
自分から前足を上げ、ミネットの手へ乗せる。
淡い光が生まれた。
昨日よりも弱い。
ミネットから縁へ流れ、縁からミネットへ戻る。
二つの流れが途中で切れず、細い輪になった。
教師がその様子を見て頷く。
「十分です。止めてください」
ミネットが魔力を収める。
縁も前足を下ろした。
「契約は成立しています」
「はい」
ミネットは分かっていたはずなのに、その言葉を聞いて小さく息を吐いた。
「これで、あなたは卒業資格を得ました」
「……はい」
「卒業?」
思わず俺が聞く。
教師はこちらを見た。
「卒業したわけではありません。卒業を選べるようになったということです」
「使い魔を持ったら卒業じゃないんですか?」
「使い魔を得ることは、卒業資格を得るための条件です。いつ卒業するかは本人が決めます」
「すぐ卒業する人もいる?」
「います。すでに十分な経験がある者や、卒業後の行き先が決まっている者などですね」
「多いんですか?」
「いいえ」
教師は縁を見る。
「契約した直後の使い魔について、すべて理解している魔法士はほとんどいません」
ミネットが頷く。
「魔力の相性、補助できる魔法、契約を維持する負担、互いの意思の伝わり方。学ぶことは、契約後の方が増えます」
「それで学校に残る?」
「残る者が多いです。ただし、強制ではありません」
教師がミネットへ向き直る。
「あなたは卒業資格を得ました。手続きを進めることも、このまま在学して使い魔との連携を学ぶこともできます」
ミネットはすぐに答えなかった。
知らなかったわけではないはずだ。
使い魔との契約を目指して、ずっとここで学んできた。
契約した後の制度も知っている。
それでも、実際に自分が選べる立場になることと、知識として知っていることは違うのだろう。
ミネットは縁を見る。
縁は、前足を置いた手の近くに座っていた。
「少し、確認してもよいですか?」
「何をですか?」
「卒業資格を得たまま在学する場合、これまでと同じ授業を受けるのでしょうか」
「基礎課程の未修了部分は続けます。加えて、使い魔との連携訓練を選べます」
「縁の能力が分からなくても?」
「だからこそ、最初に確認します」
「縁が学校へ来たくない場合は?」
「毎日連れてくる必要はありません。ただし、連携訓練は使い魔がいなければ進められません」
「寮へ入れることはできますか?」
「契約を確認できたため、昨日より判断材料は増えました」
教師はすぐに許可を出さなかった。
「ですが、食性も健康状態も分かっていません。他の使い魔と同じ場所で夜を過ごせるかも未確認です。契約しているという理由だけで、今日から寮へ入れてよいとは言えません」
「分かりました」
「必要なら、今後確認していきます」
「お願いします」
ミネットが記録帳を開く。
卒業資格。
在学継続。
連携訓練。
寮への滞在は未許可。
一つずつ書き分ける。
「それで、どうしますか?」
教師が尋ねた。
ミネットの筆が止まった。
「今、卒業手続きを始めますか?」
縁が、ミネットの足へ身体を寄せる。
ミネットは目を閉じた。
見なくても、そこにいると分かる。
けれど、それ以上はまだ分からない。
何を食べたいのか。
どんな魔法を使えるのか。
何を怖がるのか。
どれほど離れても互いを感じられるのか。
魔法を使った時、どちらにどれだけ負担がかかるのか。
昨日、縁は最初の魔力に驚いて離れた。
それでも戻り、二人で同じ契約を選んだ。
選んだ後のことは、まだほとんど始まっていない。
「卒業できることと、今卒業するべきことは別です」
ミネットが目を開ける。
「私は、まだ卒業しません」
教師は驚かなかった。
「理由を聞いても?」
「私は、使い魔と契約する方法を学びました」
ミネットが縁を見る。
「ですが、縁と一緒に魔法を使う方法は、まだ学んでいません」
「分かりました。在学継続として扱います」
「はい」
「今日から、使い魔との基礎連携を学べます。試していきますか?」
ミネットは一度、縁へ手を差し出した。
縁が鼻先を寄せる。
「お願いします」
◇
最初に行ったのは、小さな光を維持するだけの練習だった。
攻撃魔法ではない。
縁から魔力を引き出すこともしない。
ミネットが普段使える小さな光を作り、契約のつながりを同時に意識する。
「補助させないんですか?」
俺が聞く。
「最初から力を借りようとすると、どちらの魔力がどれだけ動いたか分からなくなります」
教師が答える。
「まずは、自分の魔法を使いながら、使い魔の存在を感じることに慣れます」
ミネットが片手を上げる。
指先に淡い光が生まれた。
昨日、契約に使ったものより少し明るい。
縁はその足元に座っている。
「目を閉じてください」
教師に言われ、ミネットが目を閉じた。
「光を維持したまま、縁の位置を確認してください」
「正面です」
「では、縁をこちらへ呼びます」
「呼ぶのですか?」
「来なければ、そのままでかまいません」
教師が少し離れた場所へ移動し、手で床を軽く叩いた。
縁は教師を見た。
動かない。
「来ませんね」
「はい」
「では、ミネット。あなたが移動してください」
ミネットは目を閉じたまま、ゆっくり一歩動く。
縁も立ち上がった。
ミネットについて動く。
「左へ来ました」
指先の光が揺れた。
もう一歩。
「後ろです」
光がさらに小さくなる。
「ミネット、止めてください」
光が消えた。
ミネットが目を開ける。
「維持できませんでした」
「初めてなら珍しくありません」
「縁から魔力を取られたのでしょうか」
「そうとは限りません」
教師が答える。
「契約によって意識するものが一つ増えました。縁の位置へ注意を向けたことで、自分の魔法への集中が薄れた可能性があります」
「使い魔ができたら、魔法が強くなるんじゃないの?」
「強くなる場合はあります」
教師が俺を見る。
「ですが、つながるものが増えるということは、受け取るものも増えるということです」
「邪魔になることもある?」
「扱えなければ」
ミネットは消えた光を見る。
「もう一度、試します」
「今日は同じ練習を繰り返してください。ただし、縁が疲れたり離れたがったりしたら終わりです」
「はい」
ミネットが再び光を作る。
縁は、その場から動かなかった。
二度目の光は、一度目より少し長く残った。
それでも途中で揺れた。
三度目を始める前に、縁が訓練区画の端へ歩いていく。
ミネットは追わなかった。
「今日は、ここまでにします」
「まだ続けられるんじゃない?」
「私だけなら続けられます」
ミネットは魔力を収める。
「ですが、縁と行う訓練です」
縁は端にある日陰へ入り、身体を丸めた。
眠るのかもしれない。
「判断は適切です」
教師が言う。
「契約直後に重要なのは、大きな魔法を成功させることではありません。互いがどこで止めたいのかを知ることです」
ミネットは、その言葉も記録した。
◇
帰る前、昨日ミネットへ話しかけていた学生が近づいてきた。
縁を見てから、ミネットを見る。
「契約したの?」
「はい」
昨日までなら、違うと答えていた問いだ。
今日は訂正しない。
「縁は、私の使い魔になりました」
「おめでとう」
「ありがとうございます」
「じゃあ、卒業するの?」
「まだ卒業しません」
「残るんだ?」
「はい。縁と一緒に学ぶことが残っています」
ミネットは迷わず答えた。
縁は日陰から戻り、ミネットの足元へ座る。
「もう近くにいるの分かる?」
「この距離なら」
「何を考えてるかも?」
「分かりません」
「何ができる使い魔?」
「まだ分かりません」
「分からないことばかりだね」
「はい」
ミネットは縁を見る。
少しだけ笑う。
「ですから、まだ学校にいます」
◇
第二接続地点へ戻り、《帰還目印》の反応を確認してから入口を開いた。
縁が先に入る。
ミネットも続く。
俺とリゼが最後に戻り、入口を閉じた。
邸宅へ戻る途中、俺はミネットへ聞いた。
「卒業できるって言われて、迷わなかった?」
「迷いました」
「そうなの?」
「はい」
ミネットが記録帳を抱え直す。
「目指していた条件を満たしました。すぐに卒業することも、考えました」
「でも残った」
「私は、使い魔を得るために学校へ入りました」
縁が隣を歩いている。
「ですが、縁は、得れば終わる資格ではありません」
「使い魔だから?」
「一緒に魔法を使う相手だからです」
ミネットが歩みを止める。
縁も止まった。
「私は、縁と契約できました」
昨日とは違い、確かめる必要もなく言う。
「でも、縁と何ができるのかは知りません。何をすれば負担になるのかも、まだ知りません」
「それを学校で覚える?」
「はい」
「卒業は、その後?」
「その時に決めます」
「《淫獄》へ来るかどうかも?」
ミネットはすぐには答えなかった。
邸宅を見る。
縁を見る。
それから、学校があるはずの外側へ視線を向ける。
「それも、その時に決めます」
契約したから帰ってくる。
卒業したからここで暮らす。
そうやって、別の選択を一つにまとめるつもりはないらしい。
「でも、今日は戻ってきた」
「はい」
「どうして?」
「私が戻りたかったからです」
縁が先に歩き出した。
ミネットも、その後を追う。
「明日は学校へ行きます」
「縁も?」
「縁が行くなら、一緒に行きます」
「行かなかったら?」
「私だけで受けられる授業を受けます」
「卒業できるのに?」
ミネットが振り返る。
「卒業できるようになったからこそ、いつ卒業するかは私が決めます」
その声には、もう迷いがなかった。
「私は、まだ卒業しません」
使い魔を得るまでの学びは終わった。
その使い魔と共に学ぶ時間が、今日から始まった。




