第143話 ついてきただけです
死骸について確認できたことを書き終えると、ミネットは記録帳を閉じた。
「そろそろ学校へ戻ります」
「もう行くの?」
ヴィオラが窓のない天井を見上げる。
「外の時間、分かる?」
「確認した時刻から計算しています。大きくずれていなければ、まだ間に合います」
「ずれてたら?」
「急ぎます」
「結局急ぐんだ」
ミネットは返事をせず、記録帳を鞄へ入れた。
細い革紐が、頁の間から少しだけ見えている。
ミネットの《帰還目印》だ。
「それ、今も使えるか確認した方がいいよね」
俺が言うと、ミネットの手が止まった。
「固定前室では、反応が届きませんでした」
「でも、あそこはもう入口じゃなくなってた。水場の方なら届くかもしれない」
「同じ目印のまま、接続地点だけが変わっても使えるのでしょうか」
「分からない」
「では、確かめます」
返事が早い。
「学校へ行く前に?」
「帰る時に使えなければ困ります」
「今日も戻るつもりなの?」
ヴィオラが聞く。
ミネットは少し考えた。
「学校側で確認することがあります。いつ戻れるかは、まだ分かりません」
「じゃあ、使う日が決まってからでもいいんじゃない?」
「必要になった時に初めて試すより、今確認した方が安全です」
それはそうだ。
帰りたい時になってから、目印が使えないと分かっても遅い。
「ただし、以前と同じ手順では試せません」
ミネットが続ける。
「以前は、入口付近の安全がある程度確認されていました。今は、唯一残った接続地点です」
「失敗した時に、別の入口から戻れない」
「はい」
リゼが立ち上がった。
「私も行く」
「傷は?」
「歩ける」
「休んだ方が――」
「外へ出る者がミネット一人だけになる方が危険だ」
止めにくい理由だった。
「じゃあ、俺とリゼとミネットで行く。入口の近くまで、ほかの皆にも来てもらうけど、外へは出ない」
「私は?」
ヴィオラが自分を指した。
「中で待ってて」
「外の様子、気になるんだけど」
「人数を増やすと、何かあった時に戻すのが大変になる」
「それもそうか」
ヴィオラは素直に引いた。
ファステとレイナは、壁門側の警戒を続けるために残る。
千代もそちらへ行くと言った。
ナーヴァはまだ、巨大な魔物の死骸をどうすれば食べられるか考えているようだった。
考えるだけなら止められない。
実際に食べに行かないよう、千代へ見ていてもらうことにした。
「我を何だと思っておる」
「安全確認前でも、うまそうなら食べようとする竜」
「そこまで待てぬとは言っておらぬ」
「待つ気はあるんだね」
「当然だ」
その当然を、どこまで信じていいのかは分からない。
◇
邸宅玄関から少し離れた場所へ移動する。
何もない空間に、現地世界へ続く通常入口を開ける場所がある。
見た目で印がついているわけではない。
それでも俺には、そこから水場近くの接続地点へ開ける感覚が残っていた。
ミネットは鞄を肩へかけ直す。
リゼは装備を確かめた。
「最初は細く開けろ」
「うん」
「外へ出るのは私が先だ」
「分かってる」
「異常がなくても、一度閉じる」
「昨日と同じだろ」
「確認だ」
何度も聞いた手順だ。
でも、間違えるよりはいい。
周囲を見る。
ファステたちは少し離れた場所で待っている。
エウリオは吊り寝台の上。
四体の小型ゴーレムが、その周囲で動きを止めていた。
「エウリオは来ないの?」
「水場へ行く理由がないからね」
「何かあったら?」
「入口の内側から見ているよ」
「寝ながら?」
「目は開けている」
今も半分閉じているように見える。
その近くに、縁がいた。
いつからついてきていたのか分からない。
ミネットの少し後ろへ座り、鞄から出ている革紐を見上げている。
「縁は中で待ってて」
俺が言う。
縁がこちらを見た。
「外が安全か分からないから」
言葉がどこまで通じているのかは分からない。
縁は立ち上がらなかった。
「では、開けますか?」
ミネットが入口へ向き直る。
「うん」
水場近くの接続地点を思い浮かべる。
入口を開く。
空間に細い光が生まれた。
隙間の向こうに、草と土が見える。
水の流れる音。
外の風。
地下の臭いはしない。
灰色の砂も見えない。
入口を少しだけ広げる。
「私が出る」
リゼが隙間を通った。
向こう側で左右を確認する。
姿が見えなくなり、すぐに戻ってきた。
「近くに人はいない。魔物も見えない。昨日から変わった様子もない」
「一度閉じるね」
入口を閉じる。
外の光が消えた。
壁門の方からも、異常を知らせる声はない。
少し待つ。
もう一度、入口を開いた。
今度は人が通れる幅まで広げる。
リゼが先に出た。
「ミネット」
「はい」
ミネットが入口の前へ立つ。
その時、足元で小さな音がした。
縁が立ち上がっていた。
「縁?」
ミネットが振り返る。
縁はミネットを見る。
それから、開いた入口を見る。
以前、ミネットが学校へ帰った時も、縁は入口まで来た。
でも、あの時は越えなかった。
「中で待っていてください」
ミネットが言う。
縁は動かない。
「戻ってきた時には、私からこちらへ来ます」
返事はない。
ミネットは少し待ってから、入口へ足を踏み出した。
境界を越える。
外側へ出たミネットが、リゼの横へ移動する。
縁は入口の内側に残っている。
やっぱり、今回も出ないのかもしれない。
「閉じるよ」
縁へ言ってから、入口を狭めようとした。
その直前だった。
縁が走った。
「え?」
小さな身体が、細くなり始めた入口へ向かう。
止める間もなかった。
縁は境界を越え、そのまま外の草へ降りた。
「縁!」
入口の向こうで、ミネットがしゃがむ。
縁は足を止めた。
逃げない。
水場へも行かない。
ミネットの足元まで歩くと、そこで座った。
「ついていった……?」
ヴィオラの声が後ろから聞こえる。
「縁、戻って」
俺は入口の内側から呼んだ。
縁がこちらを見る。
でも、戻ってこない。
ミネットへ身体を寄せるわけでもない。
ただ、その近くに座っている。
「どうする?」
リゼが外側から尋ねる。
「連れ戻した方がいい?」
俺が手を伸ばせば届く距離だ。
抱き上げて戻すことはできるかもしれない。
けれど、縁は自分から外へ出た。
今のところ、危険な場所へ走ろうともしていない。
「ミネットは?」
尋ねると、ミネットは縁を見たまま答えた。
「私が連れていきたいかどうか、という意味ですか?」
「うん」
「……ついてきてくれたことは、嬉しいです」
ミネットは少し間を置く。
「ですが、私が嬉しいことと、縁が学校まで行きたいことは別です」
「ここから学校までついてくるかは、まだ分からない?」
「はい」
縁は草の臭いを嗅いでいる。
初めて見る外の景色を気にしているだけかもしれない。
ミネットを追ったのかもしれない。
たまたま、開いた入口へ興味を持っただけかもしれない。
「無理に戻すのも違う気がする」
俺が言うと、リゼが周囲を見回した。
「ならば、少し歩いて様子を見る。ただし、水場へ近づけるな。草むらへ入ったら追うぞ」
「私が見ます」
「一人では見るな。私も一緒に行く」
「学校まで?」
「少なくとも、街道へ出るまではな」
俺も外へ出る必要がある。
《帰還目印》の試験をするなら、俺は一度《淫獄》側へ戻らなければならない。
「先に目印を確かめよう」
俺は外へ出ず、入口の内側に残った。
「二人で少し離れて。それから戻ってきて」
「縁は?」
「一緒に歩くなら、追い払わなくていい」
ミネットが頷く。
「行きます」
リゼとミネットが、水場から離れる方向へ歩き始めた。
縁は座ったまま、二人の背中を見る。
ついていかない。
やっぱり外へ出たかっただけなのかと思った時、縁が立った。
小走りでミネットを追う。
追いつくと、少し離れた横を歩き始めた。
ミネットは手を伸ばさない。
呼びもしない。
歩く速さだけを、少し遅くした。
三人の姿が木々の向こうへ消える。
俺は入口を閉じた。
◇
《淫獄》側へ外の光が届かなくなる。
すぐに反応が来るわけではない。
以前の試験でも、ミネットが接続地点の近くへ入り直した時に届いた。
少し待つ。
「届くと思う?」
ヴィオラが隣へ来た。
「分からない」
「届かなかったら?」
「今日の帰りは、時間を決めて迎えに行く」
「それなら帰っては来られるね」
「何かあった時には困るけど」
入口を常に開けておくことはできない。
ミネットが帰りたいと思った時、俺がちょうど外へ迎えに行けるとも限らない。
革紐が使えるなら、その不確かさを少しだけ減らせる。
しばらくして、何かが触れた。
音ではない。
声でもない。
入口を開いてほしいと、誰かが知らせている。
「来た」
「ミネット?」
「たぶん」
「たぶんなんだ」
「目印の反応は分かる。でも、誰がどこにいるかまでは分からないから」
「革紐はミネットしか持ってないんでしょ?」
「今は」
「じゃあ、ミネットじゃない?」
「落としたのを誰かが持ってきた可能性もある」
「そこまで考える?」
「考えた方がいいだろ」
外にいるのは、ミネットとリゼと縁だ。
それでも、反応だけを信じて大きく入口を開くわけにはいかない。
細く開く。
向こう側に、リゼの姿が見えた。
「異常は?」
「ない。反応は届いたか?」
「届いた」
ミネットも見える。
その足元には縁がいた。
「革紐は?」
ミネットが記録帳を開き、頁の間から細い革紐を見せる。
「ここにあります」
「一度見せただけでは、本人が持っている証明にならないけど」
ヴィオラが言う。
「今はリゼも一緒にいるからいいだろ」
「私が確認した」
リゼが答えた。
「ミネットが記録帳を持って範囲へ入り直した直後に、入口を開いたように見えた」
「こっちにも、その時に反応が来た」
ミネットが記録帳へ書き込む。
「再登録はしていません」
「うん」
「旧経路が失われた後も、《帰還目印》そのものは残っていました。使用可能な登録接続地点の近くへ入ることで、再び反応が届きました」
「今分かったのは、この場所で一度届いたことだけだよ」
「はい。次回も同じように届くとは、まだ断定しません」
その答えを聞いてから、入口を人が通れる幅へ広げた。
俺も外へ出る。
ファステたちへ、学校まで送ってから戻ると伝える。
入口を閉じた。
草の匂いが濃くなる。
頭上には、本物の空があった。
縁が空を見上げている。
目を細め、鼻を動かす。
「外へ出たのは初めてなのかな」
俺が言う。
「私たちが確認した範囲では、初めてです」
ミネットが答える。
「以前どこにいたかは分かりません」
「そうだった」
《淫獄》へ来る前の縁を、俺たちは知らない。
「街まで歩ける?」
縁へ聞く。
返事はない。
でも、ミネットが歩き出すと縁も動いた。
今度は迷わなかった。
◇
街道へ出るまで、縁はミネットの近くを歩いた。
ずっと足元にいるわけではない。
道の端の草を嗅ぐ。
小石を前足で触る。
水音が聞こえると、一度立ち止まる。
それでも、ミネットが離れすぎる前には走って戻ってくる。
「ついてきていますね」
ミネットが言う。
「そう見える」
「はい」
それ以上は言わなかった。
リゼは周囲を警戒しながら、時々縁を見る。
「抱いた方が早くないか?」
「嫌がるかもしれません」
「疲れた様子はないが、街へ入れば人が増える」
「その時に改めて考えます」
街が見えてくる。
道を行く人の数も増えた。
縁は少しミネットへ近づいた。
足へ触れるほどではない。
でも、道の端を自由に歩いていた時より距離が近い。
「怖がってる?」
「分かりません」
ミネットは縁を見る。
「人を避けているようには見えます」
「じゃあ抱く?」
ミネットがしゃがんだ。
手を伸ばさない。
「抱き上げてもよいですか?」
縁はミネットを見た。
その場から逃げない。
近づいてもこない。
「答えられないか」
「少なくとも、近づいてきてはいません」
ミネットは立ち上がった。
「歩ける場所を選びます」
人通りの少ない道を通ることにした。
遠回りになる。
ミネットは急がなかった。
「学校、間に合う?」
「少し急ぐ必要があります」
「縁に合わせてたら遅れるかも」
「はい」
「抱いて走る?」
「今はしません」
「遅れても?」
「遅れた理由を説明します」
迷いがない。
自分の都合で縁を抱き上げるつもりはないらしい。
俺とリゼも歩調を落とした。
◇
学校の門が見えた時、縁は一度止まった。
高い塀。
出入りする学生。
杖を持つ者。
小さな魔物のような生物を肩へ乗せている者もいる。
あれは使い魔だろうか。
縁も、そちらを見ているように見えた。
「ここが学校です」
ミネットが言う。
縁は答えない。
「中へ入りますか?」
「聞くんだ」
「私が決めることではありません」
縁が門へ一歩近づく。
けれど、境界を越える前に、学校の職員らしい女性がこちらへ来た。
「ミネット」
「おはようございます」
「報告に戻ったと聞いていたけれど、その子は?」
女性が縁を見る。
縁は逃げず、ミネットの横にいる。
「縁です」
「あなたの使い魔?」
ミネットが少しだけ息を止めた。
「違います」
はっきり答える。
「契約はしていません」
「では、連れてきたの?」
「いいえ。私が滞在していた場所から外へ出た時に、縁も自分で入口を越えました。その後、ここまでついてきました」
女性は、ミネットと縁を交互に見る。
「つまり、連れてきたのではなく、ついてきたのですね」
「はい」
「校内には、ほかの使い魔もいます。契約していないのなら、契約印もありませんね」
女性が縁を見る。
「はぐれた時に、あなたと一緒に来た子だと分かる印はありますか?」
「印……」
ミネットが記録帳を開く。
頁の間から、細い革紐を抜いた。
帰りたい時、その意思を俺へ知らせるために選んだ《帰還目印》だった。
「それを使うの?」
「今だけですから」
ミネットは縁の前へ革紐を差し出した。
「耳へ掛けてもよいですか?」
縁が革紐の臭いを嗅ぐ。
ミネットはすぐには触れなかった。
縁が逃げずに頭を近づけてから、革紐を片方の耳へそっと掛ける。
縁は一度だけ耳を動かした。
革紐は落ちなかった。
「これなら、ほかの子と見分けられます」
女性が頷く。
「ただし、それは居場所を知らせる道具ではありませんね?」
「はい。縁から目を離してよい理由にはしません」
「では、校内で誰が様子を見るのですか?」
「私が見ます」
「使い魔ではないのに?」
「使い魔でなくても、私についてきた縁を、ここへ置いて中へ入ることはできません」
ミネットの答えは早かった。
「危険な行動は?」
「今まで確認していません。ただし、安全だと証明できたわけではありません」
女性は頷き、今度はこちらを見る。
「あなた方も、この子と一緒に?」
「学校まで送ってきただけです。夜斗です。こっちはリゼ」
女性は周囲を見た。
人の出入りがある門前で、これ以上話すつもりはないらしい。
「中で確認しましょう。ただし、許可が出るまで校舎へは入れません」
「分かりました」
「その子が嫌がった場合は?」
ミネットが縁を見る。
「縁がここから離れるなら、追わせることはしません」
「戻ったら?」
「一緒に待ちます」
「授業に遅れますよ」
「その場合も、理由を説明します」
女性は少しだけ困った顔をした。
それから門の内側にある、小さな待機場所を示した。
「まずは、そこで待っていてください」
「ありがとうございます」
ミネットが門を越える。
縁は、その場に残った。
俺たちも待つ。
ミネットは振り返らない。
呼ばない。
手も差し出さない。
数歩進んだところで、縁が動いた。
自分で門を越える。
ミネットの後ろを追い、すぐ横へ並んだ。
女性がそれを見た。
「確かに、ついてきていますね」
「はい」
ミネットの声が、少しだけ柔らかくなる。
「ですが、まだそれだけです」
帰るために選んだ革紐が、今は縁の耳で揺れていた。
学校にいる間だけ借りた、識別用の目印だ。
ただ、縁は自分で《淫獄》の入口を越え、水場から街まで歩き、今もミネットの近くにいる。
ついてきただけ。
それでも、縁が自分で選んだ一歩まで小さくする必要はないと思った。




