第140話 残った入口は、一つだけ
「戻れない」
言葉にしてから、意味が重くなった。
千代とミネットとヴィオラは、現地世界へ出ている。
帰りに使うはずだった固定前室門は消えた。
壁門を開けても、その先にあるのは《万物迷宮》だけだ。
「ほかに出口はないのですか?」
ファステに聞かれ、すぐには答えられなかった。
門前空間ができてから、現地世界との行き来には固定前室門を使っていた。
その前は。
「……ある」
思い出した。
「水場の近く」
「以前使っていた接続地点か?」
リゼが振り返る。
「うん。あそこへは、まだ入口を開ける感覚が残ってた」
地下側の異変が始まった時、一度確認している。
開こうと思えば開ける。
ただし、異変と無関係だと確かめられなかったから、使わずに閉じたままにした。
「ならば、すぐ開け」
ナーヴァが言う。
「三人を迎えに行くのであろう」
「待って」
レイナが壁門を見る。
「向こうを放って、皆で外へ出るのですか?」
閉じた壁門の先には、巨大な魔物の死骸がある。
その奥には《万物迷宮》が続いている。
倒した個体だけだったとは限らない。
「全員では行かない」
リゼが答えた。
「外へ出る者と、ここを守る者を分ける」
「我は残る」
ナーヴァは迷わなかった。
「今度こそ、あの門を守ればよいのだな」
「壁門を開けるなよ」
「向こうから開けようとしたなら?」
「その時は止めて。でも、一人で追いかけるな」
「分かっておる」
本当に分かっているのか不安は残る。
でも、今は任せるしかない。
エウリオは損傷した二体の人型ゴーレムを見た。
「僕も残るよ」
「いいの?」
「この二体を連れて歩くより、ここで直す方が楽だからね」
淡いゴーレムの両腕には亀裂が入っている。
黒いゴーレムの片脚も変形したままだ。
動けないわけではない。
それでも、今すぐ外へ連れ出す状態ではなかった。
「石の小さい方は?」
レイナとファステが運んできた石製ゴーレムは、壁門から少し離れた場所に立っている。
「もう門前空間に戻さないで」
俺は言った。
「今まで置いてた場所は、もう《万物迷宮》だから」
「では、ここへ置いておきます」
ファステが石製ゴーレムの周囲を片づける。
警戒設備は、門前空間と一緒に失った。
小さなゴーレムだけが残った。
何をさせるかは、後で決めればいい。
今は三人を迎えに行く。
◇
邸宅の玄関から少し離れた場所へ移動する。
壁門は閉じた。
ナーヴァとエウリオ、それに二体の人型ゴーレムが壁門側へ残っている。
ファステとレイナ、縁は邸宅の近く。
外へ行くのは、俺とリゼだけだ。
「本当に、ここで開けるのか?」
「前に確認した時は、開けると思ったらここに出そうな感じだった」
「感じだけか」
「実際には開けなかったから」
リゼが周囲を見る。
邸宅。
庭。
菜園。
閉じた壁門。
これまで現地世界へ出る時は、門前空間側から入口を使うことが多かった。
今は、その門前空間がない。
それでも、水場近くの接続地点だけは残っている。
「最初から人が通れるほど開くな」
「少しだけ?」
「外が見える幅でいい。異常があれば閉じろ」
頷く。
水場近くの接続地点を思い浮かべる。
以前、生活用の水を得るために使っていた場所。
人目が少なく、街からも少し離れている。
開く。
空間に、細い縦線が走った。
「出た」
線が少しずつ広がる。
扉一枚分にはしない。
手を差し込めるかどうかという幅で止めた。
向こう側に、外の光が見える。
草。
土。
少し離れたところを流れる水。
灰色の石は見えない。
魔物もいない。
地下の臭いもしなかった。
「音は?」
リゼに聞かれ、耳を澄ませる。
水の流れる音。
風で草が揺れる音。
それ以外は聞こえない。
「いつもの場所に見える」
「見えることと、安全なことは別だ」
「分かってる」
「なら、一度閉じろ」
入口を閉じる。
細い光が消えた。
《淫獄》側に変化はない。
壁門も閉じたままだ。
表示も出ない。
「次は、もう少し開く」
「私が先に見る」
「俺が開けるんだけど」
「だから、お前の前に立つ」
リゼが武器を手に、入口を開く位置の横へ立った。
もう一度、水場を思い浮かべる。
入口を開く。
今度は、人が一人通れる幅まで。
外の空気が流れ込んできた。
冷たい。
けれど、《万物迷宮》の冷気とは違う。
湿った土と草の臭いがする。
リゼが入口の向こうを確認する。
「見える範囲に異常はない」
「出る?」
「先に私が出る。お前はすぐ閉じられる位置にいろ」
リゼが境界を越えた。
外へ出る。
左右を確認し、水辺まで視線を走らせる。
「来い」
俺も入口を越えた。
振り返ると、《淫獄》への入口が開いている。
その向こうに邸宅が見えた。
門前空間ではない。
壁門の外でもない。
邸宅の前へ直接つながっている。
以前と開き方が変わったように見える。
でも、門前空間がなくなったからなのか、この場所だけの変化なのかは分からない。
「閉じられるか?」
「やってみる」
入口を閉じる。
何もない空間へ戻った。
「閉じた」
「もう一度開けるか?」
《淫獄》の邸宅前を思い浮かべる。
入口はすぐに開いた。
向こうでファステが待っている。
「夜斗様」
「確認だけ。すぐ閉じる」
「はい」
もう一度閉じる。
外からでも開閉できる。
少なくとも、今の一回は。
「帰る道には使えそうだな」
「うん」
「使えそうなことと、三人がいる場所まで安全に行けることは別だ」
「そこまで言ってない」
「先に言っておく」
リゼは水場の周囲をもう一度確認した。
「行くぞ。三人が地下入口へ戻っているかもしれない」
◇
街へ着く前に、探索者組合の人間を見つけた。
地下入口へ続く道の近くに、見張りが増えている。
俺たちが姿を見せると、二人の巡回者がすぐに近づいてきた。
「夜斗さん!」
「千代たちは?」
「無事です。今は組合の建物にいます」
力が抜けそうになった。
でも、まだ帰れてはいない。
「地下で何がありました?」
「入口がなくなった」
「入口が?」
「固定前室から《淫獄》側へ入る門が消えた。こっちから見ても行き止まりになってる?」
巡回者の一人が頷く。
「はい。報告に来た三名と共に確認しました。固定前室の先は、灰色の石壁で塞がっています」
現地世界側にも、門は残っていない。
壁だけがある。
「壊せそうだった?」
「試していません。状況が分からないまま触れるべきではないと判断しました」
「それでいい」
リゼが答える。
「こちら側でも同じ門が消えた。触らないでくれ」
「《淫獄》側では何が?」
「大きな魔物が来た。倒したけど、門前空間を取られた」
巡回者の表情が固まる。
「取られた、とは?」
「今まで門前空間だった場所が、灰色のダンジョンになった。固定前室への門も消えた。詳しいことは、まだ俺たちにも分からない」
「負傷者は?」
「大きな怪我をした人はいない。エウリオのゴーレムは二体とも傷ついた」
ナーヴァの肩もつかまれていた。
今は動いていたが、本当に怪我がないかは戻ってから確認した方がいい。
「魔物の死骸は?」
「向こうに残ってる。こっちへ持ち込んでない」
「現在、《淫獄》から現地世界へ出る手段はありますか?」
答える前に、リゼを見る。
リゼは小さく頷いた。
「一つだけ、以前使っていた接続地点が残ってた」
「場所は?」
「今は言えない」
巡回者の顔が曇る。
「こちらも、状況を把握する必要があります」
「必要なのは分かる。でも、今残っている唯一の出口なんだ」
あの場所まで知られれば、人が集まるかもしれない。
見張りを置くと言われるかもしれない。
管理のために常時開けるよう求められるかもしれない。
探索者組合がそうすると決まったわけではない。
それでも、残った一つをすぐに渡す気にはなれなかった。
「固定前室門が消えた以上、そちらの入口はダンジョンへの経路でもありません」
リゼが言う。
「《淫獄》の生活領域へつながる私的な接続地点だ。今は住民を回収するためだけに使う」
「安全確認は?」
「最低限しかできていない。だから、ほかの者は通さない」
巡回者はしばらく黙った。
「責任者へ報告します」
「うん」
「場所を隠したままにすることへ、組合が同意するとは約束できません」
「分かってる」
「ただ、三名の帰還を妨げるつもりもありません」
今決められるのは、そこまでらしい。
「三人に会わせて」
◇
千代たちは、探索者組合の一室にいた。
扉を開けると、最初にヴィオラが立ち上がった。
「遅い!」
「ごめん」
「戻ったら壁しかなかったんだけど!」
「こっちから見ても門がなくなってた」
「先に言ってよ!」
「俺たちも、さっき知ったんだよ」
「なら仕方ないけど!」
怒っているのか、安心しているのか分からない声だった。
千代は椅子から立ち、俺たちを見回す。
「皆は無事か?」
「今のところは。大きな魔物は倒した。門前空間はなくなった」
「そうか」
短く答えた後、千代は息を吐いた。
「こちらも固定前室まで戻ったが、門のあった場所は壁になっておった。叩くことも、魔法で調べることもせず引き返した」
「ありがとう」
「礼を言われることではない。分からぬ壁へ触れぬと決めただけじゃ」
ミネットは記録帳を抱えている。
いつもと同じように見えた。
でも、革紐を握る指へ少し力が入っていた。
「帰還目印は?」
「反応を試すために、何度か持ち直しました」
「届かなかった」
「はい」
登録した接続地点から離れすぎていたのか。
入口そのものが失われたからなのか。
別の理由なのか。
今は分からない。
「別の場所から入口を開けられた」
俺は三人へ伝えた。
「そこから《淫獄》へ戻れると思う」
「思う?」
ヴィオラが聞き返す。
「俺とリゼは一度出入りできた。でも、全員が同じように通れるかはまだ試してない」
「戻って住民じゃなくなってたら?」
「外へ出ても住民登録は残ってる。たぶん大丈夫」
「たぶんなんだ」
「今、絶対って言えることが少ないんだよ」
ヴィオラは何か言いかけて、やめた。
「それで、どこ?」
「ここでは言わない」
部屋の外には組合員がいる。
聞こうとしているとは思わない。
それでも、残った入口の場所を広げたくなかった。
千代が頷く。
「では、移動してから聞けばよいな」
「うん」
「学校への報告は途中です」
ミネットが言った。
「地下入口の使用停止については伝えました。しかし、門が消失したことと、門前空間が変化したことはまだ伝えていません」
「今日は戻れる?」
「必要な報告を終えた後なら」
「じゃあ、終わるまで待つ」
すぐに連れて帰りたい。
でも、ミネットが学校へ伝えると決めた仕事を途中でやめさせる理由はない。
「場所は話さなくていい」
「分かりました」
「《淫獄》の中で何が起きたかも、話せる範囲をもう一度決めよう」
「はい。確認した事実と、許可を得た範囲だけにします」
ミネットの指が、革紐から離れた。
◇
学校への報告が終わる頃には、空が少し暗くなり始めていた。
俺たちは人通りの少ない道を選び、水場へ向かう。
正確な場所を知っているのは、今ここにいる五人だけ。
探索者組合には、別経路があることまでしか伝えていない。
「ずっと隠せると思うか?」
歩きながら、リゼが聞いた。
「分からない」
「人が出入りすれば、いずれ見つかる」
「だから、普段は使わない」
「水は?」
「今ある分を使う。足りなくなった時は、その時に考える」
「街へ来る時は?」
「必要な時だけ」
「ミネットの学校は?」
答えられなかった。
これまでミネットは、登録接続地点まで来て《帰還目印》を持てば、自分で帰還を求められた。
今、その場所へは戻れない。
水場を使うなら、学校からの距離も違う。
安全に一人で往復できるかも分からない。
「それは、ミネットへ聞くべきじゃな」
千代が言った。
ミネットは少し前を歩いていた。
声は聞こえていたはずだ。
それでも、すぐには振り返らない。
水場が見えるところまで来てから足を止めた。
「入口が一つだけになったから、聞きたい」
俺はミネットへ言う。
「学校を続けるなら、今までより《淫獄》へ戻りにくくなる」
「はい」
「だからって、学校を辞めてほしいわけじゃない」
「分かっています」
「逆に、《淫獄》へ戻らないって決めてほしいわけでもない」
ミネットが俺を見る。
「今すぐ全部決めなくていい。でも、今後どうしたい?」
ミネットは記録帳へ目を落とさなかった。
すぐに答えず、水場を見る。
それから、街の方角を振り返った。
「私は、学校を続けます」
「うん」
「普段は、学校側で生活します。この場所を毎日の通学経路にはしません」
考えていたことを一つずつ確かめるように話す。
「ですが、《淫獄》へ戻らないとも決めません」
「必要な時だけ?」
「はい。安全を確認できて、夜斗さんたちとも事前に決められた時だけ使います」
「帰還目印は?」
「持っておきます。以前と同じ場所では使えなくても、役割まで失ったとは限りません」
登録し直せるのか。
この接続地点でも反応するのか。
それも、後で確かめなければならない。
「住民でいることは?」
「変わりません」
答えは短かった。
「入口が減ったことを理由に、学校を辞める必要はありません。住民でなくなる必要もないと思います」
「でも、不便になる」
「不便であることは、どちらかを捨てなければならない理由にはなりません」
ミネットらしい答えだった。
今後ずっとそうするとは決めていない。
学校を卒業した後のことも。
どこへ腰を据えるかも。
縁とのことも。
今ここで一緒に決める必要はない。
「分かった。じゃあ、今はそれでいこう」
「はい」
◇
周囲に人がいないことを確認する。
リゼが水辺側を見る。
千代とヴィオラも、別の方向を確認した。
「開けるよ」
《淫獄》の邸宅前を思い浮かべる。
空間に線が走る。
入口が開いた。
向こうには、ファステとレイナが待っていた。
「夜斗様!」
「三人とも一緒だよ」
ファステの表情が緩む。
その足元から、縁が飛び出した。
入口の直前まで来て止まる。
外へは出ない。
境界の向こうから、こちらを見ている。
「縁」
ミネットが名前を呼んだ。
縁の耳が動く。
ミネットは手を伸ばさなかった。
先に千代が入口を越える。
次にヴィオラ。
「今度は消えないよね?」
「消えないうちに入って」
「それ、安心させる言い方じゃないから」
文句を言いながら、ヴィオラも《淫獄》へ入った。
ミネットが入口の前に立つ。
一度だけ、水場を振り返る。
それから、自分の足で境界を越えた。
縁がミネットのところまで走る。
足元を一周して、すぐ近くに座った。
「戻りました」
誰に向けた言葉なのかは分からない。
ファステたちか。
縁か。
《淫獄》そのものか。
俺とリゼも続いて中へ入る。
全員が境界を越えたことを確かめ、入口を閉じた。
外の水音が消える。
残ったのは、邸宅と庭。
閉じた壁門。
そして、戻ってきた三人だった。
「これで全員か?」
ナーヴァが壁門側から戻ってくる。
「全員」
「ならばよい」
「よくないことは、まだ多いけどな」
「今すぐ考える必要があるか?」
「ある」
「面倒だな」
エウリオが、修理途中のゴーレムの横で言った。
「でも、今日は全員戻った。それは後で変わらないだろう?」
「たぶん」
「そこまで疑うの?」
「最近、入口が勝手に変わるから」
エウリオは少し考え、否定しなかった。
残った入口は、必要な時だけ開く。固定前室門の代わりにはならないが、今日はその一つで全員を連れ戻せた。
残った入口は、一つだけだった。
だからこそ、誰が、いつ、何のために使うのか。
今まで以上に、俺一人で決めてはいけないのだと思った。




