第138話 二つの門へ
『現在、境界は維持されています』
表示は、昨日から変わっていなかった。
融合入口の前では、《万物迷宮》の灰色の床と、《淫獄》の床がぶつかっている。
どちらも大きく動いてはいない。
けれど、止まったとも言い切れなかった。
ミネットが昨日置いた目印との距離を確かめ、記録帳へ書き込む。
「大きな変化はありません」
「じゃあ、今は大丈夫?」
「今すぐ門前空間を奪われる状態には見えません」
ミネットは、床の境界から目を離さない。
「ですが、解決した状態でもありません」
「表示も、維持してるとしか言ってないしな」
守れたわけではない。
押し返せたわけでもない。
今もまだ、押し合っている。
「このまま見ているだけで、向こうが諦めると思う?」
ヴィオラの問いに、誰もすぐには答えなかった。
エウリオが、眠そうな目で灰色の床を見る。
「少なくとも、オルカが止まったとは思えないね」
「押し返してるだけじゃ駄目か」
「《淫獄》がいつまで維持できるか分からない。それに、オルカは君たちがここで待っていることも知らないかもしれない」
「知ってたら止まる?」
「今の状態なら、もっと欲しがるかもしれない」
全然安心できない答えだった。
◇
俺たちは、壁門の内側へ戻った。
門前空間が見える位置に集まり、今後の動きを相談する。
「オルカに会えたら、話せるのか?」
俺が聞くと、エウリオは少しだけ考えた。
「前ならね」
「今は?」
「会話より先に、君や《淫獄》を欲しがるかもしれない」
「会いに行くのは無理か」
「見つけられるとも限らないよ。《万物迷宮》は広いからね」
「ならば、手近な魔物を捕らえて聞けばよい」
ナーヴァが言った。
「話せるの?」
「叫ぶことはできる」
「会話じゃないと思う」
「では、分かるまで問い続ければよい」
「それはたぶん、尋問だ」
しかも、これまで来た魔物に話が通じるようには見えなかった。
捕まえたところで、オルカの場所を知っている保証もない。
「まずは、入口の先がどうなっているかじゃな」
千代が言った。
「これまで魔物は向こうから来ておる。しかし、我らは融合後の《万物迷宮》をほとんど見ておらぬ」
「入るの?」
ファステの声に不安が混じる。
「奥までは行かない」
俺は答えた。
「融合入口が見えるところだけ。危なかったらすぐ戻る」
「危なくなってから戻れる保証はありません」
ミネットの指摘は正しい。
「だから、危なくなる前に戻る条件を決める」
リゼが続ける。
「何かを見つけるまで進むのではない。決めた範囲を確認したら、何もなくても戻る」
もう一つ、放置できないことがある。
「探索者組合にも伝えないと」
固定前室門の先には、現地世界の地下入口がある。
今は組合が閉鎖しているが、侵食が始まったことはまだ知らない。
知らないまま巡回者が来るかもしれない。
「こちらを調べた後で、街へ行くのでは遅いかもしれぬ」
千代が俺たちを見る。
「かといって、全員で街へ出れば《淫獄》が空になる」
「三つですね」
ミネットが記録帳に線を引いた。
「《万物迷宮》側の確認。現地世界への報告。《淫獄》の防衛」
「分かれるしかないか」
一つずつ終えるのではなく、同時に進める。
不安はある。
でも、全員が同じ場所に集まっていても、必要なことは減らない。
◇
偵察へ行くのは、俺、リゼ、エウリオ。
それと、エウリオの黒い人型ゴーレムになった。
「黒い方も連れていくの?」
「僕が自分で戦わなくて済むようにいるからね」
黒いゴーレムは、何も言わずにエウリオの近くへ立っている。
外套で覆われていても、人間ではないことは近くで見れば分かる。
それでも動きに迷いはない。
何か来れば、エウリオを守るのだろう。
「偵察の範囲を決める」
リゼが融合入口を指した。
「入口が見えなくなる場所へは行かない。分岐にも入らない」
「魔物がいたら?」
「追わない」
「落ちている物も拾わない方がいいですね」
ミネットが付け加える。
「前に見つけた資源と同じに見えても、安全とは限りません」
「壁や床も削らない」
「当然です」
「オルカがいたら?」
ヴィオラが聞いた。
「話しかける?」
「今回は接触しない」
俺が答える。
「見つけても戻る」
実際にオルカを見て、何もせず帰れるのかは分からない。
でも、最初から会うつもりで行けば、偵察ではなくなる。
「一人でも撤退を求めたら全員で戻る」
リゼが俺とエウリオを見る。
「理由を説明している時間がなくてもだ。それでいいな」
「うん」
「構わないよ。戻る判断を何度も相談する方が面倒だからね」
エウリオらしい同意だった。
◇
現地世界へ報告に行くのは、千代、ミネット、ヴィオラ。
千代がこちらの判断を伝え、ミネットが記録した事実を説明する。
ヴィオラは、組合側の反応を見る役だ。
「私、必要?」
「話の流れを見られる者は必要じゃ」
「千代も見られるでしょ?」
「わし一人が話して、わし一人が相手の反応を見るよりはよい」
「それなら行く」
ヴィオラは軽く答えた。
けれど、遊びに行く顔ではなかった。
「どこまで話す?」
《万物迷宮》。
《万物迷宮の王》。
オルカ・クローネ。
七欲に結びつく、複数の王。
俺たちは、探索者組合が知らない情報を持っている。
でも、その多くはエウリオから聞いたものだ。
俺たちだけで外へ話していいとは限らない。
「侵食が起きていることは話していいよ」
エウリオが先に答えた。
「僕やオルカのことまで説明する必要はない」
「組合が理由を聞いたら?」
「分からないと言えばいい。実際、どうして今になって侵食が始まったのかは、僕にも分からないからね」
嘘はつかない。
ただし、必要のないことまで全部話すわけでもない。
報告する内容を整理する。
ダンジョン側から《淫獄》側への侵食が確認されたこと。
現在は境界を維持できていること。
魔物が《淫獄》側の床材まで奪おうとしたこと。
これから短い偵察を行うこと。
一般の探索者と巡回者を、地下へ入れないでほしいこと。
異変が起きた場合の連絡方法を、今後も相談したいこと。
「魔法学校には?」
「空間の異常と、地下入口を使わない方がよいことだけ伝えます」
ミネットが答える。
「《万物迷宮》や王の情報は、話しません」
「聞かれたら?」
「許可を得ていないため話せないと答えます」
分からないふりをするのではないらしい。
そこもミネットらしかった。
◇
「我も行く」
役割を決め終える前から、ナーヴァは偵察組へ入るつもりだった。
「残ってほしい」
「なぜだ」
「ナーヴァまで向こうへ行ったら、侵食が進んだ時にここを守れない」
「我が奥を焼けば早い」
「何があるか分からない場所で焼くな」
「加減はできる」
「融合入口ごと何か起きるかもしれない」
「ならば、入口を避ける」
「向こうの空間が、炎でどうなるかも分からない」
ナーヴァが黙る。
納得していない顔だった。
「ナーヴァが強いから残ってほしいんだ」
「強いなら、向こうへ行くべきではないか?」
「偵察は、戦うために行くんじゃない。何かあった時に、ここを守る役が必要なんだ」
門前空間を侵食されても、まだ壁門より内側には入られていない。
でも、壁や門は壊れる。
俺たちが全員向こうへ行った間に魔物が別の場所から来ないとも限らない。
ナーヴァは壁門の向こうを見る。
ファステとレイナ。
邸宅。
自分で選んだ部屋と、皆で囲む卓。
「ならば、我は帰る場所を守る」
「頼む」
「ただし、そなたらを追って何か来れば、我が倒す」
「その時は任せる」
今の返事が軽かったことを、俺はすぐに後悔することになる。
でも、この時はまだ知らなかった。
◇
防衛組として残るのは、ナーヴァ、ファステ、レイナ。それに淡い人型護衛ゴーレムと石製警戒ゴーレム、縁だ。
「何か来たら、戦わずに壁門を閉じて邸宅まで下がって」
「承知しました」
「夜斗様たちも、必ずお戻りくださいませ」
「うん」
「邸宅へ入れば安全なのですよね?」
ファステが確認する。
「今までの魔物は入れなかった。でも、全部を防げるとは決めない方がいい」
「では、中へ退避した後も警戒を続けます」
淡い人型ゴーレムは、融合入口から侵入したものを決められた範囲で迎撃する。
石製ゴーレムは通過を知らせ、数を記録するだけ。
ナーヴァは壁門を守る。
それぞれが何をして、何をしないかをもう一度確かめた。
「俺たちが決めた時間までに戻らなくても、すぐ追ってこないで」
ナーヴァの眉が動く。
「見捨てろと言うのか?」
「違う。ナーヴァまで向こうで迷ったら、ここを守る人がいなくなる」
「ならば、時間までに戻れ」
「戻る」
「必ずだ」
「うん」
簡単に約束したくはなかった。
それでも、戻るつもりで行く。
そのために、進む範囲を決めた。
◇
門前空間には、進む先の違う二つの門がある。
一つは、現地世界の固定前室へ続く門。
もう一つは、《万物迷宮》へ続く融合入口。
先に、報告組が固定前室門の前へ立った。
千代が門を越える。
固定前室門側を示す音が、一度鳴った。
石製ゴーレムが仕掛けを戻し、器へ小石を一つ落とす。
次にミネットが通る。
もう一度、同じ音。
小石が二つになる。
最後にヴィオラが門を越え、三度目の音が鳴った。
三人が通り終えた時、器の中には小石が三つ増えていた。
ミネットは境界を越える前に、一度だけ縁を見た。
縁もミネットを見ている。
少し近づいたが、門までは追わなかった。
「行ってきます」
ミネットは、待っていてとは言わなかった。
自分が戻ることだけを伝え、固定前室へ出た。
三人の姿が石段の方へ消えていく。
次は、俺たちの番だ。
「戻れ」
融合入口の前で、ナーヴァが言った。
「命令?」
「我が守る場所へ、そなたも戻るのであろう」
「うん。戻る」
黒い人型ゴーレムが先頭に立つ。
最初に灰色の床へ踏み出すと、石製ゴーレムが融合入口側を示す音を鳴らした。
続いて俺。
二度目の音。
エウリオが三人目。
三度目。
最後にリゼが周囲を確認しながら境界を越え、四度目の音が鳴った。
器へ、小石が四つ落ちる。
それを背中で聞きながら、俺たちは《万物迷宮》へ入った。
◇
足元が、《淫獄》の床から灰色の石へ変わる。
空気が冷たい。
湿った石の臭いに、古い金属のような臭いが混じっていた。
振り返る。
融合入口は見えている。
その向こうには、門前空間と壁門。
ナーヴァがこちらを見ている。
「まずは、ここまで」
リゼが言った。
俺たちは入口から離れすぎない位置で、周囲を確認する。
灰色の通路には、いろいろな物が混ざっていた。
錆びた金属片。
折れた道具。
色の違う木材。
何かの骨。
赤い土と、黒い土。
建物の壁を砕いたような破片。
同じ場所から集められた物には見えない。
「前も、こんな感じだった?」
「物が混ざっていることはあったよ」
エウリオが答える。
「でも、ここまで入口近くへ集まってはいなかったと思う」
「思う?」
「《万物迷宮》のすべてを見たわけではないからね」
暴走して変わったのか。
《淫獄》とつながってから運ばれたのか。
ここが以前とは別の場所なのか。
まだ分からない。
俺たちは、融合入口が見える範囲だけをゆっくり進んだ。
通路は一度だけ緩く曲がっている。
その先にも、入口の一部は見えていた。
ここが限界だ。
そう思った時、床に小さな金属片が落ちているのを見つけた。
何の変哲もない破片だった。
錆びている。
形も歪んでいる。
使い道なんてなさそうだ。
なのに、拾わなければならない気がした。
持って帰りたい。
誰かに取られる前に、自分のものにしたい。
俺は、金属片へ一歩近づいた。
「触るな」
リゼに腕をつかまれた。
「あ……」
「拾わないと決めただろう」
「分かってる」
「なら、離れろ」
「分かってるんだけど……」
目が離れない。
あんな物、欲しくない。
なのに、ここへ置いていくのが惜しい。
リゼが俺を引き戻す。
その手とは反対側で、自分の武器を強く握っていた。
「リゼも?」
「何がだ」
「武器」
指摘されて初めて気づいたように、リゼが自分の手を見る。
「……誰にも触らせたくない」
「いつもより?」
「いつも以上にだ」
少し離れたところでは、エウリオが黒い人型ゴーレムを自分のすぐ近くへ戻していた。
「エウリオも影響を受けてる?」
「僕のものを、ここへ置いていきたくないと思っている」
「いつもじゃないの?」
「いつもより強いね」
エウリオは、ゴーレムの腕へ手を置く。
「だから、僕だけの考えではないかもしれない」
通路の奥から、何かが来ている。
姿は見えない。
音も、まだはっきりしない。
それなのに、欲しいという気持ちだけが強くなっていく。
もっと奥へ行けば、価値のある物がある。
取らなければならない。
誰かに奪われる前に、自分が持つべきだ。
俺は《淫獄》を思い浮かべた。
邸宅。
皆の部屋。
菜園。
風呂。
住民たち。
誰にも渡したくない。
それは、前から思っていた。
でも今は違う。
守りたいのではない。
俺のものだから、誰にも触れさせたくない。
そんな形に、気持ちを歪められている。
「奥に、何かいる」
「感じるのか?」
リゼが問う。
答えたのはエウリオだった。
「違う」
いつもの眠そうな声。
けれど、その声から少しだけ緩さが消えている。
「僕たちが感じ取っているんじゃない」
「じゃあ、これは?」
「向こうから、欲しがらされている」
その言葉と同時に、奥から音がした。
硬いものを、床へ引きずる音。
一度。
止まる。
また一度。
今度は、重い足音も混じった。
一歩ごとに、胸の奥の欲望が強くなる。
通路の先から、小型魔物らしい影が飛び出した。
俺たちへは向かわない。
何かから逃げるように、別の細い通路へ駆け込んでいく。
「何が来る?」
「分からない」
「前にもいた?」
「少なくとも、僕が前に見た個体とは格が違う」
エウリオが、はっきりと言った。
「戻ろう」
「まだ姿を見てない」
「見てからでは、戻る仕事が増えるかもしれない」
「撤退する」
リゼも即座に決めた。
姿を見たい気持ちはあった。
何がいるのか確かめたい。
ここまで来て、何も見ずに帰りたくない。
それも、俺自身の考えなのか。
向こうから押しつけられた欲望なのか。
もう分からない。
一人でも撤退を求めたら、全員戻る。
そう決めた。
「戻ろう」
俺も答えた。
◇
黒い人型ゴーレムが最後尾へ回る。
俺たちは、融合入口へ向かって走り出した。
後ろから、重い足音が聞こえる。
先ほどより速い。
俺たちが動いたことへ、向こうも反応したようだった。
振り返りたくなる。
姿を見たい。
あれほど強く欲しがらせるものが、何なのか知りたい。
「見るな」
リゼが言う。
「入口まで戻れ」
融合入口は見えている。
門前空間も、その向こうのナーヴァも見える。
それなのに、行きより遠く感じた。
足元へ落ちている物が目に入るたび、拾いたくなる。
壁に埋まった金属を剥がしたくなる。
黒い人型ゴーレムを連れて帰りたくなる。
エウリオのものだと知っているのに。
「君のものを守りたいなら、今は戻った方がいい」
エウリオが俺の背を押した。
「俺のものじゃない」
「なら、なおさらだよ」
短い言葉に押され、足を動かす。
先にリゼが融合入口を越えた。
一度目の警報。
俺も続く。
二度目。
エウリオが越える。
三度目。
黒い人型ゴーレムが最後に門前空間へ入り、四度目の音が鳴った。
石製ゴーレムが仕掛けを戻す。
融合入口側の器に、小石が四つ増えた。
欲望の圧力が、少しだけ弱くなる。
消えてはいない。
でも、自分の考えと区別できないほどではなくなった。
「何がいた」
ナーヴァが俺たちへ尋ねる。
「まだ見てない」
「見ずに戻ったのか?」
「見てからじゃ遅いと思った」
リゼが答える。
「今までの魔物とは違う」
エウリオも、灰色の通路を見たまま言う。
「たぶん、格が違う個体だ」
「ならば、なぜ我を連れていかなかった」
「ナーヴァが残ってるから、戻れたんだよ」
「我は何もしておらぬぞ」
「これからすることになるかもしれない」
足音は、まだ聞こえている。
融合入口の向こう。
さっきより近い。
俺たちが何を見たのか。
奥から何が来ているのか。
説明しようとした、その時だった。
石製警戒ゴーレムが、もう一度音を鳴らした。
融合入口側を示す、一度の警報。
俺たち四人の帰還記録は、もう終わっている。
器の中にも、小石は四つある。
「今のは、俺たちの分じゃない」
石製ゴーレムが仕掛けを戻す。
五つ目の小石が、器へ落ちた。
灰色の通路から、重い足音が近づいてくる。
一歩。
門前空間の床が震えた。
二歩。
それまで押し合っていた床の境界が、大きくこちらへ動く。
ナーヴァが融合入口の前へ出た。
もう笑っていない。
リゼも武器を抜く。
「ファステ、レイナ!」
「はい!」
「縁を連れて、邸宅まで下がれ!」
ファステが縁を呼ぶ。
縁は一度だけ融合入口を見た後、二人について壁門の向こうへ走った。
淡い人型ゴーレムが動き、ナーヴァの横へ並ぶ。
黒い人型ゴーレムは、エウリオの前へ立った。
融合入口の暗がりに、大きな影が現れる。
今まで来た小型魔物とは比べものにならない。
まだ、全身は見えない。
俺たちは、奥にいるものを見つけたのではなかった。
欲望を押しつけられ、何も確かめられないまま逃げ帰った。
それでも、偵察には意味があった。
向こうが俺たちを見つけたことだけは、分かったからだ。




