第137話 今回は、説明がある
翌日、エウリオは一枚の紙を持ってきた。
固定前室門をくぐり、門前空間へ入ってくる。その後ろには、黒い人型ゴーレムが付き従っていた。
「約束していたもの」
「もう書いたんだ」
「先延ばしにすると、覚えておく仕事が残るからね」
差し出された紙を受け取る。
そこには、門前空間へ置かれた石製ゴーレムについて書かれていた。
融合入口を何かが通過すると警報を鳴らす。
通過した数だけ小石を容器へ落とす。
侵入者の種類や敵意は判定しない。
戦闘しない。
エウリオへ連絡しない。
設定を変える場合は、エウリオのところまで本体を運ぶ。
前に聞いた内容が、短い文章で整理されている。
「思ったより丁寧だな」
「あとで質問される方が面倒だからね」
「これ、俺たちが質問しそうなところを先に全部書いた?」
「全部ではないよ。僕が思いついた範囲だけ」
俺が紙を読んでいる間に、ミネットも横から内容を確認する。
「警報が正常に作動することと、その後の安全が保証されることは別、とも追記した方がよいと思います」
「必要なら君が書いて」
「所有者の説明書へ、私が追記してもよいのですか?」
「確認が必要なら、そのたびに僕へ持ってくることになるけど」
ミネットは少し考えた後、自分の記録帳を開いた。
「では、別紙にします」
「助かるよ」
エウリオが本当に助かったようには見えない。
でも、自分で書かなくて済むことは確かだ。
「鐘の話は?」
「まだ組合から返事は来てない。向こうでも、どこに置くか考える必要があるみたいだ」
「なら、僕の仕事は終わりだね」
エウリオが黒い人型ゴーレムへ目を向ける。
帰るつもりらしい。
その時、床の近くにいた縁が、不意に顔を上げた。
融合入口の方を向き、鼻先をわずかに動かしている。
「縁?」
ミネットが呼ぶ。
縁は返事をしなかった。
代わりに、灰色の石床へ近づこうとする。
「待って」
ミネットが追いかけるより先に、リゼが縁と融合入口の間へ入った。
「何かある」
短く言って、腰の武器へ手をかける。
俺も融合入口を見る。
魔物の姿はない。
灰色の通路にも、大きな変化は見えなかった。
けれど、床を見ているうちに違和感へ気づいた。
「……広がってないか?」
融合入口の向こうから続く灰色の石床。
その端が、昨日よりこちらへ近づいている気がする。
ミネットが記録帳から細い革紐を外し、床へ近づく。
直接触れず、少し離れた場所でしゃがみ込んだ。
「昨日、境界の位置を記録しました」
記録帳の一頁を開く。
床の継ぎ目から、壁門までのおおよその歩数が書かれていた。
ミネットが同じ場所を歩いて確かめる。
「短くなっています」
「どのくらい?」
「わずかです。ですが、記録の誤差だけではない可能性があります」
俺も境界を見る。
灰色の石が、《淫獄》の床へ薄く重なっている。
いや、重なっているだけではない。
境目の辺りでは、元の床材が灰色へ変わっているようにも見えた。
「全員、壁門側へ下がれ」
リゼの声で、皆が動く。
ファステとレイナが縁を呼ぶ。縁は一度だけ融合入口を見た後、ミネットの足元を通って壁門側へ戻った。
ナーヴァは下がらない。
人の姿のまま、俺たちより一歩前へ出る。
「勝手に向こうへ行くなよ」
「分かっておる」
「本当に?」
「知らせずに行かぬと決めたであろう」
そうだった。
疑ったのが少し悪かった気がする。
「何か来る」
淡い色の人型ゴーレムが動いた。
門前空間へ残されている、迎撃用の個体だ。
続いて石製ゴーレムの警報が鳴る。
乾いた音が、一度。
融合入口の暗がりから、小さな魔物が這い出してきた。
四本の脚。長い前肢。灰色の皮膚。
前に来た個体と似ている。
けれど、魔物は俺たちへ向かわなかった。
境界付近で立ち止まり、床へ爪を立てる。
「何をしてる?」
引っかく。
何度も、同じ場所を。
やがて《淫獄》側の床から、小さな欠片が剥がれた。
魔物はそれを両方の前肢で抱える。
「床を取った?」
「それを持って帰る気か?」
ナーヴァが前へ出る。
魔物は欠片を抱えたまま融合入口へ戻ろうとした。
淡色の人型ゴーレムが退路へ回る。
魔物が向きを変え、今度はゴーレムへ爪を振り上げた。
ナーヴァがその前肢を片手でつかむ。
「物だけでは飽き足らず、地面まで奪うか」
魔物が暴れる。
ナーヴァは振り回さず、その場へ押さえつけた。
「リゼ」
「分かっている」
リゼの刃が、魔物の急所を貫いた。
動かなくなった魔物の前肢から、床の欠片が転がり落ちる。
俺は近づかずにそれを見る。
《淫獄》の床から剥がされたはずなのに、色は半分ほど灰色へ変わっていた。
「《万物迷宮》が、《淫獄》の床まで持っていこうとした?」
「この個体が欲しがっただけかもしれません」
ミネットが答える。
「領域全体の反応と、一個体の行動は分けて考える必要があります」
「でも、床が広がってるのと同時なんだよな」
「はい。関連している可能性はあります」
断定はしない。
でも、無関係だとも言わなかった。
エウリオは帰るのをやめて、境界の近くを見ていた。
黒い人型ゴーレムだけが、その横で周囲を警戒している。
「エウリオ、前にもこんなことはあった?」
「僕が見た範囲ではないね」
「じゃあ、やっぱり暴走してから?」
「可能性は高い。でも、今まで僕が見ていなかっただけかもしれない」
話している間にも、灰色の石は少しずつこちらへ広がっていた。
音はしない。
急に床が割れるわけでもない。
ただ、境界がゆっくりと移動している。
俺たちは、それを止める方法を知らない。
「削るか?」
ナーヴァが聞く。
「待って。両方が混ざってるところを壊したら、何が起きるか分からない」
「では、見ているだけか」
「今は」
自分で言っていて、不安になる。
見ている間に、床を全部取られたらどうする。
門前空間だけで止まる保証もない。
壁門の向こうには、邸宅がある。
皆の部屋も、菜園も、風呂もある。
どうすればいい。
そう考えていた時だった。
灰色へ変わりかけていた床の一部が、元の色へ戻った。
「……え?」
もう一度よく見る。
《淫獄》側の床が、灰色の石を覆っていた。
灰色が引いたのではない。
こちら側の床材が、向こうへ伸びている。
「押し返してる?」
ヴィオラが呟く。
床の境界が、融合入口側へ少し戻る。
けれど、すぐに止まった。
灰色の石も再び広がり始める。
二つの床の境目が、ゆっくりと前後していた。
「互いに、相手の場所へ広がろうとしているように見えますわ」
レイナが、壁門の内側から言う。
「《淫獄》も、向こうを侵食しているの?」
「まだ、そうとは言えません」
ミネットは境界から目を離さない。
「奪われた範囲を戻しているだけにも見えます」
「どっちだ?」
「分かりません」
その答えを聞いた直後、視界の端に文字が現れた。
俺は反射的に表示へ目を向ける。
『外部領域からの侵食を確認しました』
一行目を読んで、息が止まる。
続けて、二行目が現れる。
『《淫獄》の領域保全を実行しています』
さらにもう一行。
『現在、境界は維持されています』
「……今回、やけに説明してくれるな」
「何か出たのですか?」
ミネットに、表示された内容をそのまま伝える。
皆の表情が変わった。
千代だけはすぐに考え込み、三つの文章を繰り返した。
「外部領域からの侵食。《淫獄》による領域保全。そして、現在は境界を維持しておる」
「うん」
「それだけじゃな」
「今回は三行もあるぞ」
「三行あっても、それだけじゃ」
確かにそうだった。
何が侵食しているかは書いていない。
なぜ始まったのかもない。
どうすれば止められるのかも分からない。
いつまで維持できるのかも、維持できなくなったら何が起きるのかも書かれていなかった。
「前より丁寧になったんじゃないの?」
ヴィオラが表示のある辺りを覗き込む。
本人には見えていないはずだ。
「丁寧になったとは限らぬ」
千代が首を振る。
「《淫獄》自身に関わるゆえ、これだけは伝える必要が生じたのかもしれぬ」
「必要なことを、全部教えてくれたわけじゃない?」
「これが全部かどうかも分からぬ」
前にも似たことを考えた。
表示されたことは、嘘ではないのかもしれない。
でも、全部ではない。
今回は、今までより少し多く教えられただけだ。
「現在、という部分も重要です」
ミネットが言う。
「境界を維持できていることと、今後も維持できることは別です」
誰も「また別だ」とは言わなかった。
「エウリオの方には?」
俺は尋ねる。
「何か表示されてない?」
「何も」
エウリオは即答した。
「《無為宮》は、この件について僕へ何も知らせていない」
「同じ王なのに?」
「同じような名前がついていることと、同じ表示が出ることは別だろう?」
「それ、気に入った?」
「説明が短くなるからね」
エウリオは眠そうな顔のまま、動き続ける境界を見る。
「これは、《万物迷宮》と《淫獄》の間で起きていることなんだろう。少なくとも、今の《無為宮》は当事者に含まれていないらしい」
王同士で、共通の知らせが届くわけではない。
俺の表示は、《淫獄》が俺に見せているものだ。
灰色の床が、もう一度こちらへ伸びた。
先ほどより少し速い。
リゼが武器を構え直し、ナーヴァが前へ出る。
だが、壁門から何歩か手前まで来たところで、侵食が止まった。
今度は《淫獄》側の床が広がる。
灰色の部分を覆い、境界を押し戻す。
「壁門に近いほど、こちらの床が強いのでしょうか」
ファステが小さく言う。
「そう見えます」
ミネットが答える。
「ですが、今回だけかもしれません」
邸宅に近いから。
俺がいるから。
皆がいるから。
あるいは、たまたま《万物迷宮》側の侵食が弱まっただけかもしれない。
理由は分からない。
「皆が暮らす場所を、守ろうとしているのでしょうか」
ファステの声に、俺は壁門の向こうを見た。
大きな卓と、皆の椅子。
それぞれが自分で選んだ部屋。
植えたばかりの香草。
ナーヴァが温めた風呂。
縁が選んだ箱。
最初は、俺一人が逃げ込むだけの場所だった。
何もなかった。
今は違う。
ここを奪われたら、俺だけが逃げ場所を失うんじゃない。
「俺は、ここを渡したくない」
気づけば、口にしていた。
「当然です」
リゼが答える。
「わたくしもですわ」
「私も、ここを失いたくありません」
レイナとファステが続く。
「帰る場所がなくなるのは困るのう」
「まだ調べ終わっていないことも多くあります」
千代とミネットも、それぞれの理由を言った。
「遊ぶ場所も減るしね」
ヴィオラが軽く言う。
けれど、その目は笑っていなかった。
ナーヴァは灰色の床を見下ろす。
「奪うと言うなら、奪う側を退ければよい」
「今すぐ全部壊すって意味じゃないよな?」
「そなたらが止めるなら、今はな」
縁も壁門の内側から、こちらを見ている。
その直後だった。
境界が、融合入口側へ押し戻された。
大きくではない。
俺たちが望んだから動いたと断定できるほどでもない。
それでも、灰色になっていた床の一部が、確かに《淫獄》側の色へ戻った。
「今のは……」
「記録します」
ミネットがすぐに記録帳へ書き込む。
「ただし、皆が意思を示した直後に変化した、という順序だけです。原因だとは書きません」
「分かってる」
分かっているつもりだった。
でも、そうであってほしいとも思っている。
俺たちがここを渡したくないと思ったから、《淫獄》も押し返した。
そうなら、少しだけ嬉しい。
「《万物迷宮》は、ここを欲しがっているんだと思う」
エウリオが言った。
「オルカが命じているのか?」
ナーヴァが尋ねる。
「それは分からない。本人が意識しているのかもしれないし、制御されなくなった領域が勝手に奪おうとしているのかもしれない」
「じゃあ、《淫獄》は押し返してる?」
「そう見えるね」
「見えるだけ?」
「領域そのものに意思があるのか、君の欲望に反応しているのか、ここで暮らす者たちの望みまで拾っているのか。僕にも分からないよ」
エウリオは、灰色と《淫獄》の床がぶつかる場所を見る。
「でも、オルカの強欲が君の領域を奪おうとしているのは、たぶん間違っていない」
境界が、わずかに揺れる。
「そして、君の欲望も、渡す気はないらしい」
「俺の欲望……」
俺だけのものなのだろうか。
ここを渡したくないと思ったのは、俺だけじゃない。
Lv.3になった理由も分からない。
門前空間ができた理由も、皆の希望に応じるように邸宅や菜園が生まれた理由も分からない。
《淫獄》が俺だけを見ているのか。
ここに暮らす全員を見ているのか。
それも、表示にはなかった。
◇
しばらくすると、境界の動きは小さくなった。
侵食を消せたわけではない。
融合入口も残っている。
灰色の石と《淫獄》の床は、互いに押し合ったまま止まっているように見えた。
ミネットは床へ新しい目印を置き、位置を記録した。
今後も同じ場所を測り、変化を確かめる。
石製ゴーレムの警戒も続ける。
警鐘については、探索者組合から返答が来るまで保留する。
エウリオは帰らず、しばらく境界を見ていた。
俺の視界には、まだ同じ表示が残っている。
『現在、境界は維持されています』
侵食を排除したとは書かれていない。
防衛に成功したとも、安全になったとも書かれていない。
今は、維持できている。
それだけだった。
《万物迷宮》は、《淫獄》を欲しがっている。
《淫獄》は、それを押し返している。
今回、システムは珍しく説明してくれた。
外から侵食されていること。
そして、今はまだ守れていること。
ただし、いつまで守れるのかは、どこにも書かれていなかった。




