第135話 もう借りてきた
翌朝、門前空間へ出ると、吊り寝台が空になっていた。
「エウリオ?」
呼んでも返事はない。
吊り寝台は床へ下ろされ、そのそばには運搬用の小型ゴーレムが三体。試験中の石製個体だけは、警戒設備の横に立っている。
人の形をした二体のうち、黒い方も見当たらなかった。
残っている淡い色の人形は、融合入口へ身体を向けている。
「一体、減っています」
「エウリオもいない。二人で出たのか?」
「人形を一人と数えるのですか?」
「見た目は人に近いし」
「数え方と、種別は別です」
朝からいつもどおりだった。
リゼが固定前室門の先を確認する。
「争った跡はない。自分で出た可能性が高いな」
残っている人形へ聞いても、固定前室門へ顔を向けるだけだった。
「昨日、近くの街に住むって言ってたじゃない」
ヴィオラの言葉に、嫌な予感がした。
「まさか、もう探しに行った?」
「本人へ聞かなければ分からぬ」
千代が言った直後、固定前室門の向こうから足音が聞こえた。
先に現れたのは、黒い外套だった。
全身を布で覆っているが、その歩き方には見覚えがある。エウリオに付き従っていた黒い人型ゴーレムだ。
半歩後ろから、エウリオが自分の足で歩いてくる。その顔は昨日より疲れて見えた。
「どこへ行ってたんだ?」
「近くの街」
片手には、小さな金属の鍵がある。
「何、その鍵」
「家の鍵」
「……家?」
「借りてきた」
誰もすぐには答えなかった。
「もう?」
「昨日、借りると決めただろう?」
「決めたのは、家を探すってところまでじゃなかった?」
「同じことだよ」
「同じではありません」
ミネットが即座に否定した。
「家を借りる前に、安全について確認する予定でした」
「確認してから、また街へ行くのは面倒だろう?」
「だから先に行ったの?」
「何度も同じ道を歩かずに済んだ」
黒い人形が、エウリオの後ろで止まる。
「その人形も連れていったんだ」
「一人で知らない街を歩けば、自分で周囲を警戒しなければならないからね」
「護衛に任せた?」
「そのための個体だよ。人の多い場所では、僕の後ろを歩かせただけだ」
「固定前室門も通れたんだな」
「僕と一緒なら、少なくとも今回は通れた」
理由は分からない。今確認できたのは、この一体がエウリオと一緒に往復できたことだけだ。
家は街の外縁部にある、小さな一軒家らしい。
周囲の家とは少し離れ、建物は古いが使える。家賃はエウリオ自身の金で前払いしたという。
「金、持ってたんだ」
「前にいた場所で、荷物を運ぶ仕組みを作ったり、壊れたゴーレムを直したりしたからね」
「働いてたんだ」
「今後働かなくて済むなら、先に働くこともあるよ」
自分で得た金で、正式に家を借りた。そこまでなら、俺たちが止めることではない。
「家を借りたことは分かった」
俺は鍵を見た。
「《無為宮》には、まだつないでないよな?」
エウリオが黙った。
「もうつないだよ」
「そっちも?」
「家を借りたのに、玄関を使えなければ意味がないだろう?」
「普通の玄関としては使えるだろ」
「僕が欲しかったのは、《無為宮》へ帰れる玄関だよ」
◇
「何も起きなかった」
壁門の内側へ戻ってから、エウリオは説明した。
「扉を《無為宮》へつないだ。少しだけ開いた。閉じた。元の玄関にも戻った。それだけだよ」
「その前に、俺たちと話す予定だっただろ」
「話してから街へ行けば、往復が増える」
「その往復を減らすために、勝手につないだの?」
「そう言っている」
悪びれていない。
「家を借りることは、エウリオが自分で決めていいと思う」
「なら、問題ないね」
「でも、領域を街へつなぐことは別だ」
「僕の領域だよ」
「分かってる。でも今、《万物迷宮》と《淫獄》の入口がくっついてるんだぞ。また何か起きたら、街の人まで巻き込むかもしれない」
「《淫獄》へ直接つないでいない」
「直接つないでいないことと、影響が出ないことは別です」
ミネットが言う。
「その言い方は、本当に便利だね」
「必要な区別です」
「今回は何も起きなかった」
「何も確認できなかったことと、安全だったことも別です」
「増えた」
エウリオが俺を見る。
「君たちと話していると、『別』が増えていく」
ナーヴァが腕を組み、エウリオの前へ立った。
「つまり、そなたは面倒を減らすため、さらに面倒が増えるかもしれぬことを勝手にしたのだな」
「増えなければ成功だよ」
「増えた後では遅いと言っておるのだろう」
エウリオは危険を何も考えなかったわけではない。
接続は短時間。ゴーレムも荷物も通さず、異常がないことを見て閉じた。本人なりには危険を減らしたつもりなのだろう。
ただ、その判断を全部一人で終わらせた。
「エウリオは前に、オルカが強欲を止められなくなってるって言ったよな」
「言ったね」
「欲望そのものが問題じゃなくて、自分で止められないことが問題なんだろ?」
「そうだよ」
「自分が少し急ぎすぎたとは思わない?」
「急いではいない。なるべく動かずに済む順番を選んだだけだ」
それを聞いて、余計に不安になった。
エウリオにとっては、相談することまで減らせる手間の中へ入っていた。
「もうつないだものを、なかったことにはできません」
ミネットが記録帳を閉じる。
「実際の場所を確認した方がよいと思います」
「私も行く」
リゼが言った。
「俺も行く。エウリオ、案内して」
「また街まで歩くの?」
「自分で往復を増やしたんだろ」
「一度で終わらせたはずだったんだけどね」
「終わってない」
エウリオは深く息を吐いた。
◇
出発前、エウリオは門前空間に残る淡い人形へ、融合入口から何か来た場合だけ決めた手順で対処し、追跡せず、固定前室門も越えないよう命じた。
残り三体の小型ゴーレムと吊り寝台も、そのままだ。試験中の石製個体は警戒設備のそばに残っている。
連れていくのは、街から戻ってきた黒い人形だけだった。
地上へ出ると、黒い人形は外套の頭部分を深く下げた。継ぎ目のある顔を隠し、エウリオの半歩後ろを歩く。
街の外縁部に、エウリオが借りた家はあった。
古く、小さい。だが大きな損傷はなく、隣家まで少し距離がある。
「本当に借りてる」
「鍵を持っていただろう」
中にも大きな異常はなかった。最低限の家具が残り、窓の外には狭い空き地が見える。
リゼが床や窓、壁を一通り確認する。
「今のところ、建物に異常は見えない」
「だから言っただろう?」
「見ただけだ。安全だとは言っていない」
エウリオが面倒そうに目を伏せた。
「そっちも、その言い方を使うの?」
「必要なら使う」
ミネットは玄関の周囲を確認した。
「接続したのは、ここだけですか?」
「そうだよ」
「壁や床へ何か刻みましたか?」
「何も」
「魔法陣や道具は?」
「使っていない」
エウリオ自身の操作だけで接続したらしい。
まず普通に玄関を開くと、先ほど通ってきた街路が見えた。
「《無為宮》へ変える時は?」
「扉を閉じて、接続先を切り替える」
俺たちは扉の正面を避けた。
「今回は誰も通りません。物も入れません。短時間で閉じてください」
ミネットが条件を確認する。
「閉じられなかった場合は、外へ避難し、周囲の方にも離れてもらいます。その後、探索者組合へ報告します」
「何も起きなければ?」
「今回、短時間の接続に成功したと記録します」
「安全とは書かない?」
「書きません」
「聞くまでもなかったね」
エウリオが扉を閉じ、取っ手へ手を置いた。
魔力が大きく動いた感じはない。ただ、扉の向こうにあった街の気配だけが急に遠くなる。
「開けるよ」
扉の先に、道はなかった。
柔らかな光に照らされた、広い通路が続いている。
滑らかな床と壁。遠くで動く、ゴーレムらしき影。
《淫獄》とも《万物迷宮》とも違う。
必要のない音が、最初から出ないように作られている。そんな場所に見えた。
「ここが、《無為宮》?」
「僕の領域だよ」
エウリオは、それ以上説明しなかった。
借家に目立った変形はない。揺れも異音もなく、《淫獄》が引かれる感覚もなかった。
ただ、何も感じないから大丈夫だとは言えない。
「もう閉じて」
「まだ少ししか見ていないよ」
「最初は、それでいい」
「また開く手間が増える」
「一度で全部確認しようとするな」
エウリオが扉を閉め、接続を解除する。
もう一度開くと、外の街路が見えた。
「切り替えと解除はできた」
「今回の一回はね」
「君までミネットに似てきた」
「必要なところだけ」
◇
接続自体を禁止はしなかった。
ただし当面は必要な時だけ。開けたままにせず、魔物や危険物を通さない。ゴーレムをまとめて移すのも待つ。異常が出たら即座に閉じ、閉じられなければ避難して報告する。条件を変える時は、先に共有する。
「全部守った方が、あとで同じ説明を受けずに済みそうだ」
「理由はそれでもいい」
「なら守るよ」
「でも、次に何かを変える時は、勝手に先へ進めないで」
「必要なら話す」
「必要かどうかを、一人で決めないでほしいんだ」
「それは難しいね」
「難しい?」
「話す必要があるかを確かめるために話すなら、最初から話すことになる」
「それでいいんだよ」
エウリオは納得した顔をしなかった。それでも否定もしなかった。
確認が終わると、エウリオは玄関へ向かう。
「この家で寝るんじゃないの?」
「この家には玄関がある。寝る場所は向こうにある」
「やっぱり家に住んでないだろ」
「街に住むことと、街の寝台で眠ることは同じなのかい?」
ミネットが口を開きかけ、一度閉じた。
「今、『別です』って言おうとした?」
「今回は、説明が長くなりそうなのでやめました」
「助かるよ」
エウリオが玄関を《無為宮》へ切り替える。
黒い人形が先に進み、奥で振り返った。エウリオがその後へ続く。
「残してきたゴーレムは?」
「次に行った時に動かす」
「遠くから命令は変えられないんだろ?」
「だから、戻るまで同じことを続けさせるようにしてある」
「融合入口から何か来たら?」
「淡い方が対処する。石の個体は警報を戻す。残り三体は吊り寝台の近くで待つ」
「予定外のことが起きたら?」
「予定外だから、今は決められない」
「なら、早めに戻ってきて」
「必要があればね」
「警戒設備の試験を延ばしたんだから、必要はある」
「分かっているよ」
エウリオは欠伸をしながら《無為宮》へ入り、内側から扉を閉じた。
少し待ってから俺が玄関を開くと、目の前には普通の街路があった。
外から見れば、古い一軒家でしかない。
それでも、この扉はエウリオが望めば《無為宮》へ変わる。
エウリオは、帰るのが面倒だった。
だから、帰り道を短くした。
手続きも、支払いも、接続も、一人で済ませていた。
本人にとっては、余計な手間を減らしただけなのだろう。
けれど、その手間の中には、俺たちへ相談することまで含まれていた。
強欲を止められなくなった王を、エウリオは暴走していると言った。
なら、面倒を避けるためなら何でも先に済ませようとする自分を、あいつはどこまで止められているのだろう。




