第13話 そなたが王だと?
『所持《淫獄石》:300』
『所持上限:300』
『次回必要《淫獄石》:300』
三つの数字が、綺麗に並んでいる。
所持数と上限と必要数。
全部三百。
まるで、今すぐ使えと言われているような表示だ。
いや、実際には何も言われていない。
《淫獄の王》は、召喚しろとも、石を使えとも表示していない。
ただ、このまま三百個を持ち続ければ、新しく生成された石が消える。
その事実を、昨日、実際に確認してしまっただけだ。
「だからこれは、ガチャじゃない」
「ガチャだろ」
リゼが即答した。
「資源運用だ」
「ガチャだ」
「話を聞けよ」
「聞いたうえで言ってる」
俺は召喚画面を閉じずに、リゼを見た。
「三百個を持ったままだと、新しい石を獲得できないんだぞ」
「だから?」
「使えば、また貯められる」
「使い道がガチャなんだろ」
「《住民召喚》だ。正確な機能名で呼べ」
「言い換えてもガチャはガチャだ」
くそ。
論破できない。
「ですが、使わなければ新しい石が失われるのでしょう?」
助け舟を出してくれたのはレイナだった。
「そう。それ」
「でしたら、必要なものへ使うのは合理的ではありませんこと?」
「ほら、レイナもこう言ってる」
「味方を見つけた顔をするな」
昨日と同じことを言われた。
だが、これは多数決なら二対一で俺が優勢である。
「新しい方が来られたら、食事も五人分になりますね」
ファステが静かに現実を突きつけてきた。
「…………」
反論できない。
現在の食料は、四人分としても余裕がない。
住民が一人増えれば、食べる量も増える。
水も、寝床も、生活空間も必要になる。
新しく来た人物が、食料を増やしてくれる能力を持つ保証はない。
戦えるとも限らない。
俺たちの生活に役立つ能力があるとしても、それが今必要なものと一致するとは限らない。
全部分かっている。
分かっているが。
「今の四人だけでは解決できない問題もある。それに、誰が来ても何かしら得意なことはあるはずだ」
「期待が大きくなってないか?」
「過去二回の結果から考えた合理的な予測だ」
リゼは護衛と外界探索。
レイナは品質判断と物資評価。
二人とも、俺たちだけでは持っていなかった能力を持っていた。
次も同じとは限らない。
だが、新しい人物が来れば、新しい視点や役割が増える可能性は高い。
「使わないことにもコストがある」
俺は三人へ説明するというより、自分へ言い聞かせた。
「三百個を持ってる間は、次に生成される石が全部失われる。その損失を避けるために使う。これは浪費じゃない」
「そうか」
リゼが面倒そうに答える。
「納得したか?」
「お前が回すまで終わらないってことは分かった」
納得の方向が違う。
「ただし、誰が来るのか分からない以上、その方が困っていた場合に受け入れる準備は必要です」
ファステが残りの食料へ目を向ける。
「今日の分を少しずつ減らせば、五人でも何日かは保つと思います」
「ファステだけ減らすのは禁止だからな」
「まだ何も申し上げておりません」
「考えた顔をしてた」
ファステがわずかに視線を逸らした。
やはり考えていたらしい。
「全員、同じくらいだ。新しく来る人の分も含めて、あとで配分を考える」
「分かりました」
これで、回したあとに即座に破綻することはない。
余裕があるわけでもないが。
俺はもう一度、召喚画面を見る。
三百個。
ここで使えばゼロになる。
だが、次の石を受け取れるようになる。
そして、新しい住民が一人増える。
「……やるぞ」
「誰に確認してるんだ」
「自分」
リゼの問いに答え、俺は通常《住民召喚》の実行を選択した。
◇
『通常《住民召喚》』
『必要《淫獄石》:300』
『召喚を実行しますか?』
はい。
選択した瞬間、表示が切り替わる。
『《淫獄石》300個を消費しました』
『所持《淫獄石》:0』
綺麗にゼロになった。
「うわ、本当に全部なくなった……」
「自分で使ったんだろ」
「分かってる。でも、三百という数字が一瞬でゼロになると、少しくるものがある」
「でしたら、回さなければよろしかったのでは?」
「レイナまで正論側へ戻らないでくれ」
灰色の空間に淡い光が集まり始める。
リゼが自然にファステとレイナの前へ出た。
もう三度目なので、俺たちも最初ほど慌てない。
ただし、誰が出てくるのか分からない以上、警戒は必要だ。
光の向こうに、人影が形作られていく。
『召喚結果』
『SSR』
「……SSR?」
思わず声が出た。
「それは強いのか?」
「たぶん、かなり」
リゼはR。
レイナはSR。
そこから一段上のSSR。
ガチャに詳しくなくても、文字が一つ増えたのだから上位だと想像できる。
いや、レアリティの具体的な基準は分からない。
戦闘力とは限らない。
それでも、SSRの文字には人の心を強制的に浮つかせる何かがある。
『SSR《落城の女城主》冬月 千代』
『冬月 千代を《住民》として登録しました』
「女城主……?」
読み上げたあと、俺の視線が二つ名の前半で止まる。
落城。
つまり、この人物が治めていた城は――。
◇
城が燃えていた。
破られた城門の向こうで炎が上がり、本丸へ燃え移っている。
櫓が崩れる音が、少し離れた高台にまで届いた。
冬月家の旗も、既に半ば炎に呑まれていた。
女は、乱れた黒髪を風に揺らしながら、その光景を見つめていた。
最後まで城に残るつもりだった。
城主として、家臣と領民の行く末を見届けるつもりだった。
だが家臣たちは、それを許さなかった。
当主まで死なせるわけにはいかない。
そう言って、彼女を半ば強引に城外へ逃がした。
自分の判断は正しかったのか。
もっと早く別の決断をしていれば、救えた者がいたのではないか。
城を守れなかった。
家臣を残した。
自分だけが、ここから炎を見ている。
女の手が、腰の刀へ触れる。
炎に照らされた横顔は崩れない。
ただ、柄を握る指先だけが、わずかに震えた。
「……終わったか」
その言葉が落ちた瞬間、炎も、城も、夜の風も消えた。
◇
光が収まる。
そこに、一人の女性が立っていた。
背中付近まである黒髪は高い位置でまとめられていたようだが、今は一部がほどけ、頬や肩へ落ちている。
濃色の小袖と袴。
胸や肩、腕の一部を守る軽い防具。
腰には刀。
衣装と防具には泥と煤がつき、戦いの直後であることが一目で分かった。
細身だが、ただ細いだけではない。
重い武具を身につけ、長く動くことに慣れた身体だ。
切れ長の目が、鋭く周囲を見渡す。
疲れている。
それでも背筋は伸び、立ち姿から威厳が消えていない。
女性は取り乱さなかった。
最初に俺たちを見る。
次にリゼの武器。
出口らしいものがない灰色の壁。
水袋。
食料。
火。
作業台。
簡易寝床。
視線が素早く空間全体を巡る。
腰の刀へ手を添えたが、抜きはしない。
やがて彼女は、静かにつぶやいた。
「……城が、ない」
「え?」
「ここは、いずこの城じゃ」
「いや、城じゃないけど」
「では、砦か」
「それも違う」
「ただの妙な空間だ」
リゼが横から答える。
「もう少し言い方あるだろ。ここまで整えるのに、かなり苦労したんだぞ」
「妙な空間であることは否定できませんわね」
「レイナまで」
新しく現れた女性は、俺たちの会話を聞いても警戒を解かなかった。
「誰じゃ、そなたらは」
「俺は黒瀬夜斗。こっちはファステ、リゼ、レイナ」
名前を呼ばれた順に、三人がそれぞれ反応する。
「それで、あなたは冬月千代……で合ってるか?」
女性の目が細くなった。
「なぜ私の名を知っておる」
「表示されたから」
「何がじゃ」
「そこから説明しないと駄目だよな……」
◇
俺は分かる範囲で事情を説明した。
ここが《淫獄》と呼ばれる異空間であること。
俺自身も別の世界から来たこと。
俺の固有スキルが《淫獄の王》であること。
その機能の一つである《住民召喚》を使ったところ、千代が現れたこと。
そして俺自身にも、召喚の詳しい仕組みや、元の場所へ帰す方法は分からないこと。
「勝手に呼び出しておいて申し訳ないとは思う。ただ、誰が来るのかは俺にも分からなかった」
「つまり、そなたが術を用いたが、私を選んだわけではないと申すか」
「そうなる」
千代はすぐには納得しなかった。
当然だ。
俺だって知らない場所へ突然連れてこられて、「ガチャで出ました」と説明されたら相手の正気を疑う。
千代は俺の言葉を吟味するように黙り込む。
その間にも、俺の視界には召喚結果が残っていた。
『SSR《落城の女城主》冬月 千代』
落城の二文字が、嫌でも目に入る。
「何じゃ」
「……いや」
「先ほどから、何か申したそうな顔をしておる」
「表示に、《落城の女城主》って出てる」
千代の表情が、ほんのわずかに固まった。
刀の柄へ添えられた指先に力が入る。
俺はそれ以上を尋ねなかった。
リゼが召喚されたときも、レイナが召喚されたときも、二人には俺の知らない人生があった。
千代にもある。
俺がガチャ画面で見た短い二つ名だけで、興味本位に踏み込んでいいものではない。
「話したくなったら聞く。今は説明しなくていい」
千代は何も答えなかった。
ただ、俺の顔を一度だけまっすぐ見た。
◇
「待て」
「何?」
「先ほど、聞き捨てならぬ言葉があった」
千代の視線が、また鋭くなる。
「そなたが、王だと?」
「システム上は」
「しすてむ?」
「そこは今度説明する。とにかく、スキルの名前が《淫獄の王》なんだ」
「淫獄……?」
千代の眉間に深いしわが刻まれた。
やめてくれ。
本物の城主らしい女性へ、この名前を説明する俺の精神的負担も考えてほしい。
「俺がつけた名前じゃない。それだけは先に言っておく」
「王を名乗るからには、領地があるのであろう」
「ここ」
俺は灰色の空間を示した。
千代も周囲を見る。
「兵は?」
「リゼが――」
「勝手に兵にするな」
「だそうです」
「では、兵はおらぬのか」
「戦えるのは実質リゼ一人だけど、俺の兵ではない」
千代の視線がリゼへ移る。
リゼは腕を組んだまま、否定しなかった。
「民は?」
「……俺を入れて五人」
「五人」
「五人」
千代はファステ、リゼ、レイナ、俺を順番に見る。
もう一度、簡易寝床と作業台を見る。
「それで王を名乗るのか?」
「俺が決めた名前じゃない!」
本物の城を治めてきた人から見れば、俺など王どころか、小規模キャンプ場の管理人ですら怪しい。
だが《淫獄の王》なのだ。
レベル一なのだ。
俺が一番困っている。
「なんじゃ。王を名乗る割に、随分と頼りない男よ」
「初対面の感想がリゼとほぼ同じなのは納得できない」
「見れば分かる」
「そこまで同じこと言わなくていいだろ!」
リゼが小さく笑った。
◇
「とりあえず休んだほうがいい。見るからに疲れてる」
「休む前に知るべきことがある」
千代は俺の提案を即座に退けた。
「ここへ出入りできる場所はどこじゃ」
「俺が入口を開く。今は閉じてる」
「外には何がある」
「森みたいな場所。危険な獣もいる。人里は近いかもしれないけど、まだ見つけてない」
「水は」
「そこ」
「食料は」
「そっち」
「火は」
「あれ」
千代は質問しながら歩き始める。
召喚されたばかりだというのに、俺たちの顔より先に水と食料の量を確認していた。
簡易寝床の数を数え、火との距離を見る。
素材置き場と装備置き場を確かめる。
「最初は本当に何もなかったんだぞ」
「なるほど」
「四人で少しずつ作った。結構よくなっただろ」
俺は少し胸を張った。
灰色の床しかなかった頃と比べれば、格段の進歩である。
千代はもう一度、作業台の周辺を見る。
「食料はなぜ全て同じ場所に置いておる?」
「……え?」
「水も近いな」
「使いやすいから」
調理する場所の近くへ食料と水をまとめる。
何度も往復せずに済む。
動線としては間違っていないはずだ。
「一度失えばどうする」
「ここは安全だから、外よりは失いにくい」
「絶対に失わぬのか?」
「それは……」
言い切れなかった。
《淫獄》は安全だ。
少なくとも今まで、外の獣が勝手に入ってきたことはない。
だが、絶対に何も起こらないと確認したわけではない。
火の扱いを誤るかもしれない。
水袋が破れるかもしれない。
食料の一部が傷めば、近くへ置いたものまで駄目になる可能性もある。
「絶対に失わぬと言い切れぬものは、失う前提でも考えるものじゃ」
千代は食料置き場の端を指した。
「すぐ使う分はここでもよい。残りは分けよ。水も一つの袋だけに頼るな。容れ物が足りぬなら、まず増やす手段を探せ」
「使いやすさは下がる」
「全てを一度に失うよりはよい」
「でも、毎回取りに行く距離が――」
「遠くへ置けとは申しておらぬ。火と同じ事故に巻き込まれぬ程度に分ければよい」
反論しようとして、やめた。
千代の言うことには筋が通っている。
俺は平常時の効率と動線を考えていた。
千代は、何かが失われたあとのことを考えている。
「……確かに、一か所へ全部まとめる必要はないか」
「分かればよい」
千代が当然のように答える。
「来て数分で俺の拠点に駄目出しし始めた」
「拠点を名乗るなら、備えは必要であろう」
リゼが、わずかに千代を見る目を変えた。
武器を持っているからではない。
現場を知らず、偉そうに命令するだけの人間ではない。
少なくとも今の指摘は、俺たちの持っている物資と空間を見たうえで出されたものだった。
◇
「この食料を管理しておるのは誰じゃ」
「私です」
ファステが一歩前へ出た。
千代が元城主だと理解したためか、その姿勢はいつもより硬い。
「外で採取した食材を確認し、食べられるものを分けております。水と火の管理、調理も、できる範囲で行っています」
「一日に必要な量は把握しておるか」
「正確には分かりません。ただ、残量と人数を見ながら、なるべく同じ量になるようにしています」
「保存できる食料は」
「今のところ、ほとんどありません」
「傷みの早いものから使っておるか」
「はい」
千代は何度かうなずいた。
「ほかに困っていることは」
「容器と、調理に使う道具が不足しています。ですが、必要でしたら何なりとお申し付けください」
ファステの言葉を聞き、千代の目が少し細くなった。
「申すことがあるなら相談する。命じるために聞いたのではない」
「ですが、私は――」
「食を預かる者を軽んじる城は長く持たぬ」
ファステが言葉を止めた。
「限られた食料を把握し、傷みを見て、人数へ分ける。誰にでもできることではない。そなたの判断が必要じゃ」
「私の、判断……」
「そう申した」
千代はそれ以上褒めなかった。
特別な慰めを与えたつもりもないのだろう。
自分が城を預かってきたからこそ、食料を扱う人間の重要性を当然の事実として述べただけだ。
それでも、ファステはしばらく自分の手を見つめていた。
命じられた仕事ではない。
共同体を維持するために必要な、自分の判断。
その言葉が、ファステの中へ静かに残ったように見えた。
◇
「外の危険は、そなたが見ておるのか」
千代が次に向き合ったのはリゼだった。
「危険については私が判断する。戻るかどうかは夜斗だ」
「妙な分け方をしておるな」
「悪いか?」
リゼの声がわずかに低くなる。
「戦えないこいつが前へ出るわけにはいかない。私が痕跡と危険を見る。だが、どこまで進むか、何を優先するか、誰を連れていくかは夜斗が決める」
「そなたが危険と判断しても、この者が進むと申したら?」
「止める」
「俺の最終判断は?」
「命を捨てる判断まで聞く必要はない」
「俺の権限が思ったより弱い」
「当然だ」
千代は少し考える。
「いや。理には適っておる」
リゼの眉がわずかに動いた。
「危険を見る者と、全体の方針を決める者を分ける。互いの判断を無視せぬなら、悪い形ではない」
「命令を変えるつもりはないのか?」
「そなたは私の家臣ではあるまい」
「ああ」
「ならば、私が命ずる理由もない」
短いやり取りだった。
互いに親しみを持ったわけではない。
だがリゼは、千代を命令することしか知らない城主とは見なくなったらしい。
千代もまた、リゼが自分の指揮下にいる兵ではなく、自分の判断で仲間を守る人物だと理解したようだった。
◇
「そなたも、良い家の者であったか」
千代はレイナへ向き直る。
「……分かりますの?」
「分からぬ方が難しい」
召喚されたときの華やかなドレスは、今では動きやすいよう裾や袖をまとめられている。
それでも立ち方や話し方、指先の動きには育ちが残っている。
「私は、家の決めたことへ従って生きておりました」
「そうか」
「城主というのは、何でもご自分で決めるのですか?」
レイナの問いに、千代は少しだけ間を置いた。
「決めねばならぬことはな」
「ご自分の望むままに?」
「望みとは関係なく、決めねばならぬこともある」
「……そうですの」
レイナはそれ以上尋ねなかった。
千代も説明を続けない。
自分で何も決められなかった令嬢。
多くのことを決め続けなければならなかった城主。
二人は正反対に見える。
けれど、自分の望みだけでは生きられなかったという一点では、どこか近いのかもしれない。
◇
一通り確認しても、千代は休もうとしなかった。
食料の分け方。
水の置き場所。
火と寝床の距離。
素材の用途。
外界探索の人数。
次々に質問を続ける。
「千代様、少しお休みになってください」
ファステが見かねて声をかけた。
「必要ない」
「必要あるだろ。ふらついてるぞ」
リゼが言う。
「ふらついてなど――」
否定しかけた千代の身体が、ほんの少し傾いた。
リゼが腕をつかみ、支える。
「ほら」
「……今のは床が悪い」
「この床、ほぼ完全に平らだけど」
俺が指摘すると、千代が睨んできた。
「そなたには聞いておらぬ」
「負けず嫌い?」
「誰が負けたと申した!」
「誰も勝負だとは言ってない!」
それまで崩れなかった威厳が、一瞬だけどこかへ行った。
リゼが吹き出す。
レイナは口元へ手を当てている。
ファステも笑ってよいのか迷いながら、少しだけ表情を和らげた。
「とにかく座れ。倒れたら余計に手間がかかる」
「その言い方は気に入らぬが……理はある」
「素直じゃないな」
「そなたには言われたくない」
リゼに支えられ、千代は簡易寝床へ腰を下ろした。
五人目の寝床はまだないため、俺の場所を貸している。
千代は籠手を外し、身体を守っていた防具の一部を緩めた。
張りつめていた肩が、ようやく少し落ちる。
乱れた黒髪を片手で払い、結び直すために紐を解く。
背中付近まである髪が、さらりと肩から流れた。
煤のついた頬。
少し崩れた襟元。
鍛えられていながら、女性らしさを失っていない身体。
戦場から来た女城主が、安全な場所で初めて武具を緩める。
それまで威厳に隠れていた疲労が、一瞬だけ表へ出る。
これは。
かなり刺さる。
落城がいいわけではない。
死者や敗北へ興奮しているわけでもない。
本物の女城主。
戦国風の和装。
部分甲冑。
刀。
凛とした女性が、俺の拠点でほんの少しだけ力を抜く。
その属性と状況の組み合わせが、俺の中二心とオタク心と、そのほか言い訳しづらい部分へ同時に刺さった。
『《淫獄石》を24個獲得しました』
『所持《淫獄石》:24』
「二十四……」
「何じゃ」
「何でもない」
ガチャで使った直後に石が戻った。
SSRの性能評価より先に、石の獲得効率を考えそうになった自分が少し怖い。
俺は表示を閉じた。
千代は髪を結び直し、再びいつもの姿勢へ戻ろうとする。
その途中、誰も見ていないと思ったのか、腰の刀へ静かに触れた。
目を閉じる。
ほんの一瞬だけ、指先が震えた。
俺は気づかなかったことにした。
◇
「元の場所へ戻る術はあるのか」
少し休んだあと、千代が尋ねた。
「今のところ、方法は分からない」
「今のところ、か」
「俺も元の世界へ帰る方法を探してる。ただ、手掛かりはまだない」
正確には、同じ世界から来た学生たちが生きている可能性を見つけたばかりだ。
だが、それが帰還方法へつながるかは分からない。
「帰りたいなら、方法は一緒に探す。ただ、すぐ戻せるとは約束できない」
「元の場所へ戻ったところで、同じ時へ戻れるとも限らぬか」
「それも分からない」
「ならば、今すぐ帰還だけを求めて外へ出ても意味はないな」
千代は冷静だった。
冷静すぎるようにも見えた。
戻った先にあるのは、炎上する月影城なのだろう。
帰りたい気持ちがないはずはない。
それでも感情だけで動かず、現在分かっている情報を並べて判断している。
「帰る術を探すにも、まず己がどこにいるかを知らねばなるまい」
「そうなる」
俺は少し迷ってから、もう一つ伝えた。
「あと、召喚されたからって俺に従う必要はない」
「何?」
「システム上は、千代も《淫獄》の住民として登録されてると思う。でも、それを理由に俺が命令するつもりはない」
「私を呼び出しておきながらか」
「俺も誰が来るか知らなかったし」
「随分と無責任な王じゃな」
「王っていうな。いや、王なんだけど」
「どちらじゃ」
「俺も分からなくなってきた」
千代が、初めてわずかに口元を緩めた。
◇
千代は改めて《淫獄》を見回した。
帰還方法は不明。
外界の地理も、社会も分からない。
この空間には最低限の水と食料がある。
俺たち四人が、今すぐ敵対する様子もない。
誰も千代の刀を奪おうとはせず、身体を拘束してもいない。
そして、改善すべき問題はいくらでもある。
「ならば、しばしここへ置いてもらう」
「いいのか?」
「そなたが決めるのではなかろう」
「……そうだった」
「私が決めた。しばらくここにおる」
忠誠ではない。
俺を王として認めたわけでもない。
《淫獄》を新しい城や領地だと思ったわけでもない。
帰る方法を探すためにも、まず状況を知る必要がある。
そのための足場として、ここへ残る。
千代自身がそう判断したのだ。
住民登録自体は、召喚された時点で既に済んでいる。
だが、システムへ名前が載ったからといって、千代がここにいたいと思うかどうかは別だ。
今ここに残ると決めたのは、表示でも、《淫獄の王》でもない。
千代自身だった。
◇
夜になり、俺は改めて召喚画面を開いた。
『通常《住民召喚》回数:3』
『所持《淫獄石》:24』
『次回必要《淫獄石》:1,000』
『所持上限:1,000』
「……千」
三百から、一気に千。
七百も増えている。
所持上限まで次回必要数に合わせて増えていた。
「どうした?」
リゼが聞く。
「次は千個必要らしい」
「なら、しばらく無理だな」
「まあ、さすがに次はすぐ無理だ」
そう答えながら、頭の中では既に計算が始まっていた。
現在二十四個。
不足九百七十六個。
今までと同じ増え方では、かなり時間がかかる。
なら、どうやって――。
「いや、待て」
俺は自分で思考を止めた。
「何だ?」
「今、貯め方を考えかけた」
「順調に手遅れへ向かってるな」
「まだ考えただけだ」
「誰も聞いてないのに言い訳を始めたぞ」
千代が不思議そうに俺とリゼを見比べる。
「この者は、いつもこのような調子なのか」
「大体な」
「誤解を招く説明はやめろ」
「まだ誤解されてないと思ってるのか?」
つらい。
◇
その夜、千代は来たばかりだというのに、既にいくつかの改善案を挙げていた。
食料を分けて置く。
水袋が一つ破れた場合を考える。
外へ出る者と残る者を毎回確認する。
火の周囲へ燃えやすい素材を置かない。
使える物資と、代替できない重要物資を分ける。
ファステが生活と食事。
リゼが護衛と外界探索。
レイナが品質と物資評価。
千代が備蓄、防衛、非常時の備え。
役割が、また一つ増えた。
「……俺、何担当なんだ?」
思わず口にする。
「《淫獄》の操作ができるのは夜斗様だけです」
ファステが答える。
「入口を開くのも、撤退を決めるのもお前だ」
リゼが続ける。
「この場所全体をどのように整えるかを考えているのも、夜斗さんでしょう?」
レイナも加わる。
《淫獄》の操作。
住民召喚。
外へ出る方針。
撤退判断。
最終判断。
拠点全体の方向性。
確かに、俺にしかできないことはある。
「……まあ、王か」
言ってから、自分で嫌な顔になった。
「ようやく認めたか」
千代が言う。
「できれば別の呼び方がいい」
「では、淫獄王」
「悪化してる!」
◇
翌朝。
目を覚ますと、既に四人が共同作業台を囲んでいた。
「傷みの早いものは、こちらへ分けております」
ファステが食料を示す。
「外で運べる容器の候補は、この素材ですわ。ただ、長く水を入れておけるかは分かりません」
レイナが硬い素材を並べる。
「出入口の近くに装備を置きすぎると、慌てて戻ったとき邪魔になる」
リゼが配置を指摘する。
「ならば、すぐ持ち出す装備と予備を分けるべきじゃな」
千代が答えた。
召喚されてから、まだ一日も経っていない。
「……早くない?」
「何がじゃ」
「いや」
昨日まで四人で考えていた拠点へ、本物の城主経験者が加わった。
《淫獄》を城と思っていないはずなのに、問題点を見つければ放っておけないらしい。
「起きたなら、そなたにも聞きたいことがある」
「俺にも仕事あるの?」
「王なのであろう?」
「そういうときだけ王扱いするのやめない?」




