第125話 椅子の下
「それは我のだ」
食堂へ入った途端、ナーヴァの声が聞こえた。
見ると、ヴィオラが大きな椅子の背へ両手をかけている。
「分かってる。確認しただけ」
「何を確認した」
「本当にナーヴァ以外が座ったら駄目なのか」
「駄目だ」
「確認できた」
ヴィオラは満足そうに手を離し、隣の共用椅子へ座った。
ナーヴァ用だけは一回り大きく、背も脚も太い。誰の物か聞かなくても分かるのに、わざわざ触りに行くところがヴィオラらしい。
「壊れてない?」
「壊す前に止めた」
「私が壊すと思った?」
「座ろうとはしたであろう」
「ちょっと座るだけで壊さないよ」
「座るな」
椅子が増えてから、食堂で席を探す必要はなくなった。
ナーヴァの物以外は誰が使ってもいい。その日の気分や、先に座っている相手に合わせて場所が変わる。
新しい椅子を買ったのに、新しい決まりはほとんど増えなかった。
その日の夕方、ミネットの《帰還目印》から反応が届いた。
◇
「ただいま戻りました」
入口を越えてきたミネットは、記録帳と学校で使っている荷物を抱えていた。
「おかえり。今日は泊まる?」
「まだ決めていません。明日の予定を確認してから決めます」
「分かった。先にご飯にする?」
「その前に、菜園の記録を確認してもよいですか?」
「食堂に置いてあるよ」
ミネットが食堂へ入ると、ナーヴァの椅子の正面にある共用椅子が空いていた。
彼女はそこへ座り、千代が残した記録を開く。
「今日の水やりは、記録どおりですか?」
「うむ。量も時刻も、大きくは変えておらぬ」
千代が答える。
「芽の状態は?」
「見た限りでは大きな差はない。高さの違うものはあるが、昨日からの続きか、今日生じた差かまでは分からぬ」
「ありがとうございます」
ミネットは記録帳へ短く書き足した。
「ご飯の前まで記録?」
ヴィオラが横からのぞき込む。
「忘れる前に書いているだけです」
「食べながらでも忘れないと思うけど」
「思うことと、忘れないことは別です」
「ほら、やっぱり便利」
ヴィオラがナーヴァを見る。
「我を見るな」
皆が席へ着き、ファステが料理を並べ始める。
俺も空いている椅子を引いたところで、ミネットの足元に小さな影があることへ気づいた。
「縁、そこにいたのか」
ミネットの手が止まる。
「どこですか?」
「椅子の下」
ミネットは足を動かさず、上体だけを少し横へ傾けた。
縁は彼女の椅子の下で丸くなっている。
足へ身体を寄せているわけではない。椅子の奥側、卓の下からも少し外れた位置だ。
「いつからですか?」
「分からない。俺も今気づいた」
「入ってくるところを見た者は?」
千代が皆を見る。
誰も答えなかった。
縁は、俺たちがミネットの記録を見ている間に入ってきたらしい。
「新しい椅子の下が気に入ったんじゃない?」
ヴィオラが言う。
「狭くて暗いし、隠れるにはちょうどよさそう」
「前も、立派な寝床より棚の下の箱を選んでたもんな」
「では、この椅子が気に入った可能性があります」
ミネットは縁を見たまま答える。
「ミネットの近くだからかもしれない」
俺が言うと、彼女は少し黙った。
「どちらも可能性です。今は分けられません」
そう言いながら、右手を膝から下ろしかける。
指先が椅子の横まで来たところで止まった。
「撫でないの?」
「今は、縁から触れてきていません」
「前は撫でたよね」
「前は、縁が自分から頭を寄せました」
今回は違う。
縁はただ、椅子の下で身体を休めているように見える。
「そのまま休んでいるのかもしれませんね」
ファステが声を落として言った。
ミネットは手を膝へ戻す。
「では、休んでいる可能性を優先します」
縁を起こさないようにするためか、ミネットは食事中も足の位置をほとんど変えなかった。
◇
次にミネットが来た日は、前と少し違っていた。
彼女が食堂へ入った時、前回使った椅子にはレイナが座っていた。
「こちら、使っていますわ」
「はい。椅子は共用ですから」
ミネットは迷わず、卓の反対側にあった空いている椅子へ座る。
前の場所を空けてもらおうとはしなかった。
縁はその時、食堂の入口近くにいた。
俺たちを見ているのか、料理の匂いを気にしているのか、それとも偶然そこにいるだけなのかは分からない。
ミネットも縁へ声をかけず、千代から菜園の記録を受け取った。
「生成水を使った側の一本が、少し高く見えます」
「伸びた?」
「前回から高さは変わっています。ただ、ほかの芽と生えた時期が同じとは限りません」
「まだ水のおかげかは分からない?」
「分かりません」
記録帳を卓へ置き、前回の線と今日の線を見比べる。
その間に、縁が入口から動いた。
一度、ナーヴァの椅子の近くで止まる。
そこから卓に沿って歩き、レイナが座っている椅子の横を通った。
前回ミネットが使った椅子の下には入らない。
卓の反対側まで来ると、今日ミネットが座っている椅子の下へ潜り、その奥で丸くなった。
「椅子じゃなかったみたいだな」
俺が言うと、ミネットが椅子の下を見る。
「二度だけです」
「嬉しくない?」
「二度では、繰り返す行動だと判断するには少ないです」
「それは聞いてない」
前にも同じようなやり取りをした気がする。
ミネットは記録帳へ向けていた視線を下げた。
椅子の下の縁を見る。
「……嬉しいです」
小さな声だった。
「ですが、私の近くを選んでも、使い魔になりたいと決まったわけではありません」
「そこまでは誰も言ってないよ」
「私が言いたくなるかもしれませんから」
ミネットは一度閉じかけた記録帳を、もう一度開いた。
「書くの?」
「確認できたことだけです」
千代が自分の記録用具を持って近づく。
「どこまでを残す?」
「呼んでいません。餌も使っていません。魔法も使っていません。今回は触れてもいません」
「異なる位置の椅子の下へ、自分から来たことは?」
「書きます」
ミネットは少し考え、続けた。
「好意がある、とは書きません」
「そこまで書かないと駄目?」
ヴィオラが聞く。
「あとで私が、そうだったと思い込みたくなるかもしれませんから」
使い魔が欲しい。
縁が使い魔になれる種類の生物だと分かってからも、その気持ちは消えていない。
だからこそ、自分に都合よく意味を決めたくないらしい。
「小さいのが、そなたの近くを選んだ。それでよかろう」
ナーヴァが自分の椅子へ深く座ったまま言った。
「理由は分かりません」
「理由が分からねば、近くにいることまで消えるのか?」
ミネットの筆が止まる。
「……消えません」
「ならば、いる間はそうしておけばよい」
ナーヴァはそれだけ言って、料理へ手を伸ばした。
特別なことを言ったつもりはなさそうだ。
ミネットは記録帳を見下ろす。
少し迷ってから、確認した事実の最後へ一行だけ加えた。
「何て書いたの?」
「異なる場所でも、近くに来ました」
それ以上の意味は書かなかった。
だが、起きたことまで小さくもしなかった。
◇
食事の後、ミネットは菜園へ向かった。
二つの区画には、前より少し伸びた芽が並んでいる。
生成水を使っている側の一本が、確かにほかより高く見えた。
「こっちの方が育ってる?」
「この一本は高くなっています」
「じゃあ、生成水の方がいい?」
「高いのは今のところ、この一本だけです。水の影響だと決めるには早いです」
ナーヴァは椅子を買ってからも、菜園を見る時だけは外へ出てくる。
本人は何も育てていないが、変化があるかは気になるらしい。
縁も、少し遅れて食堂から出てきた。
試験区画の中には入らない。
以前、ミネットが札を移した外側の土を嗅ぎ、その近くへ座る。
ミネットが区画の反対側へ動いても、すぐにはついてこなかった。
俺たちが水の量と芽の高さを確認している間も、縁は同じ場所にいる。
それでも、記録が終わる頃には、ミネットから遠すぎない位置だった。
偶然かもしれない。
菜園のその場所が気に入っているだけかもしれない。
ミネットはそれを記録しなかった。
ただ、立ち上がる前に一度だけ縁を見た。
◇
「今日は学校へ戻ります」
ミネットがそう決めたのは、日が傾き始めた頃だった。
「明日の予定がある?」
「はい。朝から確認したい資料があります」
学校へ帰るための荷物を持ち、《帰還目印》を挟んだ記録帳を確かめる。
俺が入口を開く準備をすると、縁が菜園からついてきた。
ミネットのすぐ後ろではない。
離れすぎてもいない。
門前の空間まで来て、前と同じように入口の近くで止まった。
ミネットがしゃがむ。
手は伸ばさない。
「私についてきたいのですか?」
縁は答えない。
ミネットを見ているようにも見えるが、入口の生まれる場所を見ているだけかもしれなかった。
「外へ出たいだけかもしれない」
俺が言う。
「分かっています」
ミネットは縁から目を逸らさずに答えた。
「だから、私が連れていきたいだけでは連れていけません」
抱き上げれば、そのまま一緒に外へ出られるかもしれない。
だが、それでは縁が何を選んだのか分からなくなる。
外側に危険がないことを確認してから、俺は入口を開いた。
ミネットが境界を越える。
縁は入口の近くまで進んだ。
それでも、外へは出ない。
ミネットは外側で足を止めた。
縁を呼ばない。
手も差し出さない。
少しの間、互いに境界の反対側から見ている。
やがてミネットが立ち上がった。
「今日は、ここまでですね」
少しだけ残念そうに聞こえた。
でも、無理に連れていこうとはしなかった。
「また来ます」
縁へ待つことを求める言葉ではない。
ミネット自身が、また来ると決めた言葉だった。
縁の身体がわずかに動く。
それが何を意味したのかは分からない。
ミネットが外側へ離れた後、俺は入口を閉じた。
縁は《淫獄》側に残っている。
閉じた入口の前にしばらくいたが、やがて庭の方へ戻っていった。
その夜、ミネットが使っていた共用椅子にはヴィオラが座った。
縁は、その椅子の下へは行かなかった。
縁が気に入ったのは、新しい椅子の下なのかもしれない。
暗くて狭い場所なら、ほかにもいくつもある。
それでも縁は、ミネットが座るたび、その近くへ来た。
理由はまだ分からない。
ただ、選んだ場所だけは、前より少し分かるようになっていた。




