第122話 水を変えるのは、半分だけ
香草の芽は、昨日より少しだけ増えていた。
増えた、と言っても、土の上へ顔を出した緑色の点が二つほど多くなっただけだ。
背が伸びたように見える芽もある。でも、本当に伸びたのか、見る角度が違うだけなのか、俺には分からない。
「触らないでください」
確かめようと指を伸ばしたところで、ミネットに止められた。
「触る前に止めたのに」
「止めていただくために言いました」
ミネットは菜園の端へ膝をつき、記録帳を開いた。
土に近づいた細い革紐へ、縁が鼻先を寄せる。
ミネットは革紐を引き上げなかった。縁の方へ差し出すこともしない。そのまま記録帳へ挟み直し、昨日と同じ場所に印を置いた。
「全部は出てないな」
「はい。植えた数に対して、確認できる芽はまだ一部です」
「出なかった種は駄目だったのか?」
「まだ分かりません。芽が出る時期に差があるかもしれませんし、土の中で変化している途中かもしれません。発芽しなかったと判断するには早いです」
聞くたびに、待つ理由が増えていく。
種を植える前は、芽が出たら育ったことになると思っていた。
実際には、芽が出ても正常か分からないし、そのまま育つかも分からない。育ったとしても、食べられるとは限らない。
「それで、今日は水を変えるのか?」
隣から覗いていたナーヴァが聞いた。
「半分だけです」
「なぜ半分なのだ。育てるなら、すべて同じ水でよかろう」
「比べられるものを残すためです」
ミネットは迷わず答えた。
今日は、《淫獄》で生成された水を香草へ使ってみることになっている。
あの水は、短時間の入浴や身体を洗うためには使った。今のところ、目立った異常は出ていない。
でも、飲んではいない。
植物へ与えたこともない。
「全部に生成水を使って、育たなかった場合、水が原因なのか、ほかの条件が原因なのか分かりにくくなります」
「育てば問題ないのではないか?」
「植物が育っても、その水を私たちが飲めるとは限りません」
ミネットは反論せず、記録帳へ視線を戻した。
◇
比較すると言っても、今ある菜園を真ん中から割れば終わり、というわけではなかった。
まず、芽が出ている位置と数を確認する。
同じ日に植えた種でも、右側と左側では、すでに芽の数が少し違っていた。
「最初から同じじゃないけど、いいの?」
「完全に同じ条件にはできません」
ミネットが土へ触れないよう、細い棒で位置を示す。
「ですから、水を変える前の状態を記録します。今後、差が出た場合も、水だけが原因だと断定はしません」
「比べるのに、断定できないのか」
「一度の比較だけで断定する方が危険です」
千代が用意していた小さな札を二つ置いた。
一方は、これまで使ってきた外界由来の水。
もう一方は、《淫獄》の生成水。
文字だけでは離れて見ると分かりにくかったので、札へ結ぶ紐の色も変えた。
「こっちが今までの水で、こっちが中の水だな」
「うむ。記録上は左右ではなく、札で区別する。後から立つ向きが変わっても間違えぬようにな」
「さすが千代」
「そなたが右と左を二度間違えたからじゃ」
「見る方向が変わったんだよ」
「ゆえに札を置いた」
反論できなかった。
ファステとレイナが、同じくらいの量になるよう水を二つの器へ分ける。
片方は、これまで使っていた水だ。
もう片方は、邸宅内の設備から出した生成水を、そのまま運んできたものだった。
見た目だけでは違いが分からない。
どちらも透明で、変な匂いもしない。
「生成された直後から変化している可能性は?」
リゼが器を見ながら聞く。
「あります」
ミネットが答える。
「汲んでからの時間、使った器、運んだ経路でも条件は増えます。ただ、最初からすべてを分けて調べることはできません」
「今日は、普通に運んで使った場合を見る?」
「はい。生活の中で続けられる方法を優先します」
調べるためだけに、毎回誰かが水の前で見張るわけにはいかない。
畑を作ったのは、記録を増やすためではなく、いつか食べられるものを育てるためだ。
そのために必要な範囲で、分かることを増やしていく。
「では、こちらから水をやりますね」
ファステが外界由来の水を持った。
「待って」
その足元を、縁が横切った。
縁は二つの札の間で止まり、色の違う紐の片方へ顔を寄せる。
「それは食べ物じゃないぞ」
俺が声をかけても、縁は気にしない。
前足で紐へ触れそうになり、ミネットが手を伸ばしかけた。
でも、途中で止めた。
縁を抱き上げる代わりに、札の方を静かに抜く。
少し離れた場所へ挿し直すと、縁は空いた場所の匂いを嗅ぎ、その場へ座った。
「追い出さないの?」
ヴィオラが聞く。
「水をやる場所には座っていません」
「札を動かしたら、条件が変わらない?」
「札は区画の外です。植えた場所にも触れていません。動かしたことは記録します」
「そこまで書くんだ」
「後で見た時、なぜ札の位置が記録と違うのか分からなくなりますから」
ミネットは、縁が手伝ったとは言わなかった。
邪魔をしたとも言わなかった。
ただ、縁が札へ近づいたことと、札を移動させたことだけを書いた。
ファステが、外界由来の水を片方の区画へ少しずつ注ぐ。
レイナは生成水を持ち、反対側へ同じように注いだ。
土の色がゆっくり濃くなる。
すぐに芽が伸びることも、光ることも、枯れることもなかった。
「変わらないな」
「今は、です」
ミネットが言う。
「次はいつ見る?」
「これまでと同じ頃に確認します。見る時刻まで変える必要はありません」
「水をやる量は?」
「できるだけ揃えます。ただし、土の乾き方に大きな差が出た場合、同じ量を与え続けることが適切かは考え直します」
「同じにすることと、同じことを続けることは別?」
俺が聞くと、ミネットがこちらを見た。
「……そうです」
「合ってた」
「うつっておるな」
ナーヴァが満足そうに頷いた。
◇
作業が終わっても、縁は菜園から離れなかった。
生成水を使った区画を見るわけでもなく、芽へ顔を寄せるわけでもない。
移動した札のそばから立ち上がると、今度は記録を続けているミネットの方へ歩いていく。
ミネットは気づいていた。
それでも呼ばず、手も出さず、記録帳へ今日の水の量を書いている。
縁はその足元で一度止まった。
それから、ミネットの靴へ身体が触れないほどの場所に座る。
前に頭を撫でられた時より、少し離れていた。
でも、菜園のほかの場所はいくらでも空いている。
「近くにいるな」
俺が言うと、ミネットは顔を上げずに答えた。
「そう見えます」
「嬉しくない?」
そこで初めて、手が止まった。
「私が嬉しいことと、縁がここへ座った理由は別です」
「それは聞いてない」
ミネットは少しだけ黙った。
足元の縁を見る。
縁も顔を上げたが、近づきはしなかった。
「……嬉しいです」
小さな声だった。
ミネットは縁へ触れない。
縁も、それ以上は近づかない。
ただ二人は、そのまま同じ場所にいた。
「育ったら、食えばよいのだな」
ナーヴァが土を見て言った。
「育っても、食べられると確認するまでは待ってください」
「知っておる。確認しただけだ」
ミネットは記録帳へ一行書き足した。
同じ種を植えた、小さな二つの区画。
今日から、意図して変えるのは水だけだった。
どちらが育つのか。
育ったものを食べられるのか。
生成水が植物へ何を与えるのか。
まだ、どれにも答えはない。
ミネットの足元では、縁が静かに座っていた。
答えはまだ、土の中に残っていた。




