第120話 観察しているのは、どっち?
翌朝、土から芽は出ていなかった。
「やっぱり、まだ何も出てない」
囲いの前でしゃがみ込み、昨日植えた場所を見る。
土の色が少し変わっているのは、水を与えたからだ。
目印は動いていない。囲いにも壊れたところはない。大きく掘り返された跡もなかった。
でも、緑色の物はどこにも見えない。
「昨日植えたばかりですから」
ファステが、俺の隣で少し笑う。
「早く芽が出るって聞いたけど」
「一晩で出るとは聞いていませんよ」
「そうだった」
すぐに育つとは誰も言っていない。
店で聞いたのは、この辺りで使われる香草の中では、比較的早く芽を確認しやすいという話だけだ。
「変化なし、と書けばよい」
千代が記録へ目を落とす。
「何も起きなかったことも記録するの?」
「昨日は何もなく、今日になって突然芽が出た、とだけ残すよりはよかろう」
千代は、囲い、目印、土の表面、芽の有無を順番に書いた。
縁は少し離れた土の上で丸くなっている。
昨日掘った場所へ、もう一度入ろうとはしなかった。
囲いがあるからなのか、今日は土に興味がないのか、それも分からない。
◇
その日の少し遅い時間に、《帰還目印》の反応が届いた。
外へ出て登録接続地点の周囲を確かめると、記録帳を抱えたミネットが待っていた。
「学校は終わった?」
「はい。今日は、こちらへ来られる時間が取れました」
入口を開くと、ミネットは自分の足で《淫獄》へ入る。
毎日来ると決めているわけではない。
学校側の予定があり、俺もいつでも入口を開けられるとは限らない。来られない日は、千代たちが残した記録を後から確認することになっている。
「芽は出ましたか?」
「まだ」
「では、何も記録していないのですか?」
「千代が、変化なしって書いてた」
「見せてもらえますか」
ミネットは試験区画へ向かう前に、千代の記録を読んだ。
昨日植えた時の状態。
今朝見た時の状態。
水を追加していないこと。
囲いと目印に変化がなかったこと。
「この形なら、私が見ていない日のことも分かります」
「何もなかった日も?」
「はい。私が見ていない時間を、なかったことにはできませんから」
「見ておらぬ時間を埋めるための記録でもある」
千代が答えると、ミネットは頷いた。
二人で、次から確認する順番を簡単に揃える。
土の乾き方。
目印の位置。
囲いの状態。
芽の有無と数。
同じ物を同じ順番で見れば、来た人が違っても比べやすいらしい。
「細かいな」
「後から何を見たか分からなくなるよりはよいです」
記録を整えた後、皆で試験区画へ向かった。
先にいたのは縁だった。
囲いの少し外側で、土の匂いを嗅いでいる。
ミネットの足が止まった。
「気になる?」
「はい」
答えは早かった。
けれど、ミネットはそのまま近づかなかった。
縁が何をしているのか。
なぜ土の近くへ来るのか。
以前会ったミネットを覚えているのか。
聞きたいことは多そうだったが、縁へ質問しても言葉で返事が来るとは限らない。
「縁が畑の近くへ来たことも、記録してよいでしょうか」
「縁のことを調べるの?」
「いいえ」
ミネットは記録帳を開かずに答える。
「試験区画へ近づいたか、囲いを越えたか。栽培へ影響する範囲だけです」
「縁そのものを調べるんじゃなくて、畑の近くで何をしたかだけ?」
「はい。今の目的は、植えた種の状態を確認することです」
縁の種族や身体、魔力、使い魔としての性質を調べる話ではない。
そう説明してから、ミネットは千代の共同記録へ短く書き加えた。
縁あり。囲いの外。侵入なし。
それだけだった。
ミネットが少し離れた場所でしゃがむ。
その動きに気づいたのか、縁が顔を上げた。
二人の視線が重なる。
次の瞬間、縁はミネットから数歩離れた。
ミネットは追わなかった。
「名前を呼んだら来るかもしれないよ」
ヴィオラが言う。
「来るか確かめるためだけに呼ぶのは、やめておきます」
「呼ぶだけでも?」
「普段どおり必要があって呼ぶのと、反応を見るために呼ぶのは同じではありません」
「出た。それは別です」
「まだ言っていません」
ヴィオラが笑い、ミネットは少しだけ困った顔をした。
結局、その日は縁との距離は縮まらなかった。
◇
ミネットが帰る時間になり、俺は入口まで一緒に歩いた。
「一つ聞いていい?」
「内容によります」
「縁を使い魔にしたい?」
ミネットの足が止まった。
すぐに否定はしない。
しばらく考えた後、抱えていた記録帳へ指を置く。
「使い魔がほしいとは思っています」
「うん」
「縁と契約できる可能性にも、興味があります」
そこまで言ってから、ミネットは《淫獄》の奥へ目を向けた。
縁の姿は、ここからは見えない。
「ですが、私が望んでいることと、縁が望んでいることは別です」
「やっぱり言った」
「必要な区別です」
使い魔がほしいという気持ちまで、なかったことにはしない。
縁に興味があることも隠さない。
ただ、それだけで縁も同じことを望んでいるとは決めない。
「だから追わなかった?」
「追って距離を縮めても、縁が選んだことにはなりません」
入口を開く。
ミネットは一度振り返ったが、縁を探しには戻らなかった。
「では、また来られる日に」
そう言って、一人で学校側へ帰っていった。
◇
それから何度か、同じような確認を続けた。
土が乾き始めれば、外から運んだ水を少し与える。
水が溜まるほどは入れない。
《淫獄》で出る水も、植物を育てる魔法も使わなかった。
変える条件を増やさないためだ。
ミネットが来られない日は、俺かファステか千代が様子を見る。
来た日は、ミネットも同じ順番で試験区画を確認した。
縁は、いつもいるわけではなかった。
箱の中で寝ている日もあった。
ナーヴァの近くにいる日もあった。
試験区画へ来ても、土を嗅いですぐ離れることがある。
ミネットの方を見たように思えても、そのまま別の場所へ行くこともあった。
それでもミネットは追わなかった。
ある日、いつものように囲いの前で記録帳を開く。
その時、縁がミネットの横から顔を出した。
「あ」
ミネットの手が止まる。
縁が鼻先を近づけたのは、記録帳に挟まれた細い革紐だった。
ミネットが自分で選んだ《帰還目印》だ。
以前、初めて会った時にも、縁は同じ革紐の匂いを嗅いでいた。
「前も、それ嗅いでたよな」
「覚えているのでしょうか」
「分からない」
「はい」
ミネットは革紐を動かさなかった。
縁の前で揺らして、反応を確かめようともしない。
「ですが、同じ物へ二度近づいたことは記録できます」
「菜園の記録に?」
「これは書きません」
縁が試験区画を荒らしたわけではない。
記録帳へ興味を示したことと、香草の栽培は別だった。
しばらく匂いを嗅いだ後、縁は革紐から顔を離した。
そのまま去ると思った。
けれど、縁はミネットの少し横へ座った。
ミネットの背中が固まる。
「緊張してる?」
「動いて、離れられたくありません」
「それ、縁よりミネットの方が警戒してない?」
「……否定できません」
ミネットは、記録帳を膝の上へ置いたまま動かなかった。
縁もすぐには動かない。
二人で並び、囲いの中の何も出ていない土を見ている。
少しして、ミネットの右手が動いた。
縁の頭へ伸ばしかけ、途中で止まる。
「触れてもよいのでしょうか」
「俺に聞かれても、縁が決めることだと思う」
「聞いて答えられるでしょうか」
「分からない。でも、嫌なら離れるかもしれない」
ミネットは縁へ手を近づけなかった。
少し離れたところで、掌を上に向ける。
縁は動かない。
ミネットも動かない。
俺まで息を止めそうになった頃、縁がゆっくり顔を寄せた。
鼻先が、ミネットの指へ触れる。
匂いを嗅ぎ、それから顔を離した。
ミネットの手は追わなかった。
「触れました」
「縁が触ったんじゃない?」
「……そうですね」
ミネットは自分の指先を見る。
表情はいつもとほとんど変わらない。
でも、声だけが少し柔らかかった。
「何か起きた?」
「契約のことですか?」
「うん」
「何も感じません」
使い魔の契約がどう成立するのか、俺は知らない。
ただ、今の短い接触で何かが結ばれたわけではないらしい。
「残念?」
「今は、縁が自分から触れたことの方が重要です」
今は。
ミネットはそう言って、指先を握った。
◇
「何か出てる」
最初に気づいたのは、ファステだった。
縁との間に気を取られていた俺たちは、揃って囲いの中を見る。
目印の近くで、土の表面が小さく割れていた。
その隙間から、ごく細い緑色が覗いている。
「芽?」
「そのように見えます」
ミネットが近づく。
縁も立ち上がったが、囲いの中へは入らなかった。
「育った!」
ヴィオラが声を上げる。
「まだ芽が出たところです」
「でも、出たんでしょ?」
「はい。少なくとも、一つは発芽したように見えます」
ほかの目印も確かめる。
土が少し盛り上がっている場所はあるが、緑色が見えたのはまだ一部だけだった。
「全部ではないのじゃな」
「はい。これから出る可能性も、出ない可能性もあります」
「このまま育つ?」
「分かりません」
「普通の形なのかは?」
「比較するには、もう少し待つ必要があります」
「食べられる?」
「それは、さらに後です」
質問するたび、答えが先へ逃げていく。
それでも、昨日まで土しかなかった場所から、初めて緑色の物が出た。
ファステは囲いの前へしゃがみ込み、小さな芽を見つめている。
「本当に、出ましたね」
「ファステが植えたのかもしれない」
「位置だけでは、まだ分かりません」
千代が記録を確かめる。
「最初の一粒に近くはあるが、土を戻した時に多少ずれた可能性もある」
「誰が植えた種でも、育てば同じです」
ファステはそう言いながら、嬉しそうだった。
ミネットが発芽したように見える位置と、その時の土の状態を書き残す。
縁はミネットの隣にいた。
囲いを越えなかったのは、入れなかったからかもしれない。
入らないと決めたのかもしれない。
どちらかは分からない。
◇
学校側へ戻る時間になり、ミネットが記録帳を閉じた。
「次に来た時、どのくらい変わっているでしょうか」
「すごく伸びてるかも」
「枯れている可能性もあります」
「ミネットは喜んだ後にすぐ悪い方も言うよね」
「両方ありますから」
ヴィオラに答え、ミネットは入口へ向かう。
俺も外の安全を確認するため、その後を追った。
途中で振り返ると、縁もついてきていた。
「縁?」
名前を呼ぶと、縁は立ち止まった。
ミネットも気づいて足を止める。
縁は引き返さない。
そのまま入口付近まで来て、少し離れた場所へ座った。
「外へ出たいのかな」
「分かりません」
ミネットは縁を見ながら答える。
「私についてきたとも、まだ決められません」
「ただ、ここまで来た?」
「はい」
それ以上の意味は付けなかった。
ミネットも、縁へ一緒に来てほしいとは言わない。
「ここから先へ、一緒に来てほしいとは言えません」
「学校へ連れていかないの?」
「縁が外へ出たいのかも、学校へ行きたいのかも分かりません」
使い魔にできるかもしれない生物を見つけたからといって、勝手に外へ連れ出すつもりはないらしい。
ミネットが入口の前でしゃがむ。
もう一度、掌を上へ向けた。
縁はすぐには動かなかった。
ミネットも待った。
しばらくして、縁が鼻先を寄せる。
指の匂いを嗅ぎ、そのまま頭を少し下げた。
縁の頭が、ミネットの指の下へ入る。
ミネットは一度動きを止めた。
それから、縁の様子を見ながら、指先でゆっくり頭を撫でる。
一度。
縁は逃げなかった。
もう一度だけ触れる。
縁は抱き上げられるのを待つような動きはせず、少しすると自分から顔を離した。
ミネットも追わなかった。
「今のは、触れてもよいという意味でしょうか」
「少なくとも、今は嫌じゃなかったんじゃない?」
「今は、ですね」
一度撫でられたから、これからはいつでも触ってよい。
そう決めるつもりはないようだった。
「私は、縁の様子を見ているつもりでした」
ミネットが言う。
「違った?」
「縁も、私が何をするのか見ていたのかもしれません」
「じゃあ、どっちも観察中?」
「そう考えることはできます」
ミネットの口元が、ほんの少し緩んだ。
縁は入口の手前から動かない。
俺が外を確かめて入口を開いても、越えようとはしなかった。
ミネットも縁を連れていかず、一人で外へ出る。
「また来ます」
誰へ言ったのかは聞かなかった。
入口を閉じると、縁はしばらくそこにいた。
やがて身体の向きを変え、菜園の方へ歩いていく。
香草の芽は、まだとても小さい。
縁との距離も、使い魔の契約と呼べるものには程遠い。
それでも、昨日まで触れたことのなかった相手へ、今日は指先が届いた。
ただし、ミネットが一方的に距離を詰めたわけではない。
ミネットが縁を見ていた間、縁もミネットを見ていたのかもしれない。
どちらが先に相手を選び始めたのかは、まだ分からなかった。




