第118話 風呂を沸かす竜
初めて風呂を使った翌朝、ファステは厨房の隅でしゃがみ込んでいた。
「何かなくなった?」
声をかけると、ファステが振り返る。
「なくなってはいません。ただ、昨日は普段より多く使いました」
ファステの前にあるのは、火を起こすために使っている物だ。
食事を作る時にも必要になる。それを昨日は、風呂へ入れるだけの湯を用意するために何度も使った。
「足りなくなりそう?」
「すぐに困るほどではありません。でも、昨日と同じことを毎日続ければ、今までより早く補充が必要になります」
水は《淫獄》の中で出せるようになった。
だから、風呂の問題もほとんど解決したと思っていた。
実際には、水が出ても湯にはならない。
生成した水の一部を厨房で温め、浴室まで運ぶ。冷たい水と混ぜて、熱すぎれば水を足す。冷めれば、また温め直す。
昨日は全員が初めて使ったから、何度も同じことを繰り返した。
「水が出るようになったから、毎日入れると思ってた」
食堂へ集まって話すと、ヴィオラが残念そうに言った。
「水が出ることと、湯を用意できることは別だ」
リゼが即座に返す。
「リゼまで言い始めた」
「今回は言葉どおりじゃ」
千代が記録へ書き加える。
「毎日、全員が湯へ入る必要はないでしょう」
ファステが言う。
「身体を洗うだけなら、使う水も温める量も減らせます」
「湯へ入る日を決める方法もあるな」
「燃料をもっと買えば?」
「買えるが、これから必要になる物はほかにもある」
リゼが指を折る。
「菜園を試すなら、種や道具がいる。部屋へ置く物も足りない。水を温める道具も、今ある物だけで十分とは限らない」
「お金も無限じゃないしね」
ヴィオラはそう言いながら、どこか楽しそうだった。
「何で嬉しそうなんだよ」
「使い道を考えられるだけ、前より余裕があるから」
それは確かにそうだ。
以前なら風呂の燃料より、今日食べる物と飲む水の方が先だった。
今は、どうすれば次も湯へ入れるかを皆で考えている。
「我が温めればよい」
それまで黙っていたナーヴァが言った。
「何を?」
「湯だ」
一度、全員が黙った。
ナーヴァは不思議そうに俺たちを見る。
「火が要るのであろう」
「要るけど」
「ならば我が出せる」
理屈だけなら、間違っていない。
問題は、ナーヴァが出す火を、俺たちがよく知っていることだった。
「我の炎を恐れておるのか」
返事が遅れたせいで、ナーヴァの目が少し細くなる。
「怖いよ」
正直に答えた。
ナーヴァの視線が鋭くなる。
「でも、怖いから使わないって決めたわけじゃない」
「では何だ」
「風呂の水を温めるくらいまで、小さくできるのか分からない」
竜の姿で放った炎は、《淫獄》に阻まれていなければ、俺たちごと周囲を焼いていた。
狩りでは人の姿のまま、力を抑えて戦えた。それでも地面や岩には大きな跡が残った。
「どのくらい小さな炎を、どのくらい続けられる?」
リゼが聞く。
「必要なだけだ」
「実際に、湯を温めたことは?」
ナーヴァが黙った。
答えは、それだけで分かった。
「敵を焼きすぎぬ加減なら知っておる」
「湯は敵じゃない」
「ならば、覚えればよい」
ナーヴァは、できないとは考えていないらしい。
俺たちも、できないと決める理由はなかった。
ただし、いきなり浴室で試す理由もなかった。
◇
試す場所は、邸宅の外にある広場にした。
周囲に燃えやすい物がないことをリゼが確かめる。
縁はファステと一緒に邸宅の中だ。レイナとヴィオラにも、決めた距離より近づかないよう伝えた。
「私たちまで離れる必要がありますの?」
「炎がどのくらい小さくなるか分からないからな」
「最初から近くで見たいのに」
「ヴィオラはもっと下がれ」
「私だけ?」
「一番近づきそうだから」
広場の中央には、火にかけてもよい小さな容器を置いた。
中の生成水も少量だけだ。
近くには、火を消すための水を別の容器に用意してある。水が出せるようになったことが、こういう時にはありがたい。
温度を正確に測る道具はない。
まずは離れた位置から湯気と水面を見る。次に棒を浸し、取り出して少し待ってから触れる。最後に少量だけ別の容器へ移し、十分に冷めるのを待ちながら確かめる。
「面倒だな」
「熱すぎる湯へ入る方が面倒だよ」
「怪我をする、と言いたいのであろう」
「分かってるなら抑えて」
ナーヴァは人の姿のまま、容器の前へ立つ。
「その姿でも炎を出せるの?」
「出せぬと思っておったのか」
「見たことなかったから」
ナーヴァが少し息を吸う。
唇の間から、細い赤黒い炎が伸びた。
竜の姿で見たものとは比べようもないほど小さい。
それでも、人間が料理へ使う火よりは、明らかに強かった。
「止めて!」
俺が声を上げると、炎はすぐに消えた。
容器の中で、水面が大きく揺れている。
すぐに湯気が上がり、用意した棒を浸すまでもなく、熱すぎることが分かった。
「今ので抑えたのか?」
リゼが聞く。
「かなりな」
聞いたことのある答えだった。
「温まったではないか」
「温まった。でも、速すぎる」
「早い方がよいのであろう」
「風呂に入れる温度で止めたいんだよ」
「面倒だな、湯は」
「人間が面倒なんじゃなくて?」
離れたところから、ヴィオラが言う。
「両方だ」
容器は壊れていない。
ナーヴァも、合図を聞いてすぐ炎を止めた。
水を温めること自体には成功している。
ただ、人が使える温度を大きく越えた。
「もう一度やる」
ナーヴァが言う。
「さっきより小さくできるか?」
「できる」
「絶対?」
俺が聞くと、ナーヴァは一瞬だけ黙った。
「……やってみなければ分からぬ」
その答えを聞いて、リゼが新しい水を用意する。
今度は、炎を一度に当て続けないことにした。
短く当てる。止める。水面と湯気を見る。必要なら、もう一度だけ当てる。
ナーヴァが、先ほどより小さく息を吐く。
細い炎が容器の底をなぞり、すぐに消えた。
「まだだ」
リゼが水面を見る。
もう一度。
炎を当て、止める。
三度目で、ごく薄い湯気が上がった。
棒を水へ浸し、取り出して少し待つ。リゼが先端へ慎重に触れた。
「さっきよりは低い」
少量を別の容器へ移す。
すぐには触れず、外側の熱が落ち着くまで待った。
最後に俺も指先で確かめる。
「これなら、水を足せば風呂に使えそう」
「できたではないか」
ナーヴァが胸を張る。
「できた」
「まだ少量だけだ」
リゼが付け加える。
ナーヴァは言い返しかけて、先に口を閉じた。
「できたことと、大量にできることは別だと言うのであろう」
今度は、俺たちが黙った。
「覚えたね」
ヴィオラが笑う。
「何度も聞かされればな」
◇
少量の水を温められた。
「ナーヴァ様にお願いすれば、燃料を使わずに済むのでしょうか」
ファステが確認する。
「できるかもしれない。でも、毎日の役目にはしない」
「我が入りたい時は、我が温める」
ナーヴァが言う。
「うん」
「ほかの者の分も、我がやると決めた時は温める」
「それならいいと思う」
「そなたらが必要なら、我へ聞け。断るかどうかは、その時に我が決める」
ナーヴァ自身が決めた条件を、千代が記録へ加えた。
身体を洗うだけの日も作り、今までどおり燃料を使う方法も残す。ナーヴァへ頼む時は、その都度本人へ聞く。
炎を浴室の設備へ直接当てず、当面は広場で容器の水を温める。
大量の湯を一度に作れるかは、まだ試さない。
「これでよいか?」
千代が読み上げると、ナーヴァは頷いた。
「よい」
「では、今日の試験は終わりじゃな」
「待て」
ナーヴァが、先ほど温めた水を見る。
「これはどうする」
「冷ましてから捨てる?」
「捨てる必要はあるまい」
「何かに使う?」
「湯に足せばよい」
ファステが少しだけ笑う。
「今夜もお入りになりますか?」
「確認が一度で足りぬこともあるのであろう」
「風呂、気に入ったんだ」
「悪くないと言っておる」
ナーヴァは、自分で温めた容器を持ち上げた。
熱すぎないことをリゼがもう一度確認してから、浴室へ運んでいく。
「今日も風呂上がり、待ってる?」
ヴィオラが俺の隣へ来る。
「待ってない」
「石、増えるかもしれないのに?」
「そのために入ってもらってるわけじゃない」
俺は浴室の前には残らず、自分の部屋へ戻った。
昨日は、皆の風呂上がりを立て続けに見た。
今日は、ナーヴァが出てくるのを待たない。
しばらくしてから表示を開いてみても、所持数は変わっていなかった。
『所持《淫獄石》:15,001』
「増えてない」
当たり前か、と呟く。
その違いについて深く考えず、表示を閉じた。
ナーヴァの炎は、まだ安全な給湯設備ではない。
毎回同じ温度にできる保証もない。大量の水を温められるかも分からない。
それでも今日は、誰も焼かなかった。
何も壊さなかった。
小さな容器の中で、水だけを温めた。
戦場を焼き尽くした竜の炎は、初めて風呂の湯を温めた。
本人は、それを大したことだとは思っていないようだった。




