第117話 風呂上がりは、性癖クリティカル
新しくできた浴室を見つけてから、数日が過ぎた。
それでも、まだ誰も風呂には入っていない。
「今日の分も、見た目は変わっていません」
ミネットが、窓際へ並べた小さな容器を一つずつ確認する。
中に入っているのは、《淫獄》で生成した水だ。出した日と時刻を分け、同じくらいの量を保管してある。
少なくとも、俺たちが見て分かる範囲では、濁りもない。変な匂いもせず、底に何かが沈んでもいない。
「じゃあ、安全?」
「数日間、目立った変化がなかったことと、長期間安全に使えることは別です」
予想どおりの答えが返ってきた。
「今回は真似しないからな」
「言われる前に気づいたんだ」
ヴィオラが笑う。
「何の話ですか?」
「こっちの話」
ミネットは少し不思議そうにしたが、それ以上は聞かなかった。
俺は袖をまくり、左腕を見せる。
生成水を少量だけ手と腕へ触れさせる確認も、何日か続けていた。触れた後は外から運んだ水で洗い流し、時間を置いて皮膚の状態を見る。
今のところ、痛みもかゆみもない。赤くなったり、腫れたりもしていなかった。
「少なくとも、夜斗さんが少量を皮膚へ触れさせた範囲では、短期的な異常は確認されていません」
「では、身体を洗う程度なら使えるかもしれぬ、と」
千代が確認する。
「可能性はあります。ただし、使ってよいと証明されたわけではありません」
「風呂に入れるようになるまでが長いな」
「知らない水を身体へ使うのですから、短い方だと思います」
ミネットには、浴室を見つけた日の方が楽しそうだった気がする。
調べることが増えるのは嬉しいが、安全だと言う役目は別らしい。
「使うなら、今回は普通に身体を洗う範囲だけにしてください。飲まない。料理へ使わない。縁にも与えない。傷がある場合は避ける。ダンジョン由来の汚れや、正体の分からない物を洗い流すためには使わない」
「水を浴びるだけで、ずいぶん面倒だな」
ナーヴァが腕を組む。
「お前は平気でも、ほかの者が平気とは限らない」
リゼが言うと、ナーヴァは小さく鼻を鳴らした。
「また別か」
「今回は本当に別だよ」
使うかどうかも、各自で決める。
まず俺が短時間だけ試し、しばらく様子を見る。それで何も起きなかったとしても、ほかの全員に安全だとは決めない。
分かっていることを聞いたうえで、それぞれが選ぶ。
そこまで決めてから、ようやく新しい浴室を使うことになった。
◇
問題は、水が出ても湯は出なかったことだ。
「温かい水を想像しても駄目?」
俺は水の出口へ手を触れ、もう一度試す。
流れてきたのは、さっきと同じ冷たい水だった。
「水温まで変える機能がないのか、夜斗殿が使い方を知らぬだけかは分からぬな」
「今日は調べること増やさなくていいよ」
ヴィオラが容器を抱えたまま言う。
結局、生成した水の一部を厨房で温め、浴室へ運んで冷たい水と混ぜることになった。
外から全部の水を運ぶよりは楽だ。それでも、大きな容器に湯を用意するのは一仕事だった。
「熱い方は俺が持つ」
「私も運ぶ」
リゼが反対側を持つ。
「滑らせないでくださいね」
ファステが先に通路を確認し、レイナが床へ水がこぼれた時に拭く布を用意する。
「お風呂へ入る前に疲れそうですわ」
「最初だけじゃ。手順が分かれば、次からは減らせよう」
「次も温めるところからだよね?」
「そこは変わらない」
浴室にも、ひとまず簡単な決まりを作った。
一人ずつ使う。使用中は勝手に入らない。入る前には声をかける。設備に変化があったり、身体に異常を感じたりしたら、すぐに知らせる。
「俺は絶対に入らないからな」
「誰もまだ疑ってないよ」
「疑われる前に言った」
「余計に怪しくなったね」
最初に使うのは俺だ。
数日間、接触確認をしていた俺が先に試すことには、誰も反対しなかった。
身体を洗い、温めた湯へ短時間だけ入る。
久しぶりに肩まで湯に沈んだ瞬間、思わず息が漏れた。
「……生き返る」
誰もいない浴室で呟く。
新しい部屋もありがたかった。でも、身体を拭くだけではなく、温かい湯へ入れることの方が、今はよほど大きな変化に思えた。
長く入りすぎないように出て、身体の状態を確認する。
すぐに変わったところはない。
使った水を少しずつ流しても、排水口は詰まらず、逆流もしなかった。異臭もない。
だからといって、排水先が分かったわけではない。
普通に身体を洗った水が流れた。それだけだ。
浴室から出ると、全員がこちらを見た。
「どう?」
「すごくよかった」
「水のことを聞いています」
ミネットに訂正された。
「今のところ、変な感じはない。痛くもかゆくもない」
「少し時間を置いて確認します」
「風呂の感想も大事じゃない?」
「安全性の確認とは別です」
今度はヴィオラが先に言った。
ミネットがそちらを見る。
「合っていますが、真似する必要はありません」
「一回言ってみたかったんだ」
しばらく待っても、俺の身体に目立った異常は出なかった。
ミネットは結果を記録し、今日のうちに学校へ戻る準備を始める。
「入っていかないの?」
「今日は戻る予定です。それに、夜斗さん一人へ短期的な異常がなかっただけですから」
「変わったことがあったら知らせる」
「お願いします」
ミネットは記録帳を閉じる。
「私も、次に試すかは記録を見てから決めます」
住民になったから使うのではない。浴室ができたから入るのでもない。
ミネットは、今日入らないことを自分で決めた。
俺は入口を開き、学校へ戻るミネットを見送った。
◇
ファステが浴室から出てきた時、俺は食堂で水を飲んでいた。
もちろん、外から運んだ水だ。
「お待たせしました」
「別に待っては――」
顔を上げたまま、言葉が止まる。
ファステの髪は、まだ少し濡れていた。いつものようにきっちり整えず、邪魔にならない程度に緩くまとめている。
服も、すぐに働くためのものではない。自分の部屋で休むために選んだ、軽い室内着だった。
湯の熱が残っているのか、頬も普段よりわずかに赤い。
「何か、おかしいでしょうか」
「いや。何も」
「そうですか」
ファステは厨房へ向かいかけて、足を止めた。
「今日は、少し休んでから片づけます」
「うん。その方がいい」
用意したのは、自分が飲むための水だけだった。
それを持って、俺の向かいではなく、少し近い隣の席へ座る。
「夜斗様も、ご一緒に休まれますか?」
「もう休んでる」
「では、ご一緒ですね」
誰かの世話をするためではなく、自分の休む時間へ俺を入れる。
濡れた髪から落ちた小さな雫が、ファステの首筋を伝った。
見ない方がいいと思った時には、もう見ていた。
視界の隅で、表示が淡く光った気がした。
今は開かないことにした。
◇
次に浴室を使ったのはリゼだった。
出てきた姿を見て、最初に気づいたのは剣がないことだ。
「剣、持ってこなかったんだ」
「浴室へ持ち込む方がおかしいだろ」
「いや、そうだけど」
装備も身につけていない。
湿った髪が首筋へ残り、いつもより軽い服の下では、肩から余計な力が抜けている。
それでも、食堂へ入った瞬間に出口と窓へ目を向けた。
いつもの癖だ。
だが、リゼは一度周囲を見ただけで、それ以上は確認しなかった。
「どうした?」
「何でもない」
そう言ってから、少しだけ考える。
「今日は、ここにいる者を警戒する必要はない」
俺たちを信用している、と言葉にしたわけではない。
けれど、剣を置き、濡れた髪のまま同じ場所へ座る姿は、戦場で最後まで残った傭兵とはまるで違って見えた。
表示がまた淡く光る。
「夜斗、顔が赤くないか?」
「風呂に入ったから」
「もう時間が経っているだろ」
「まだ残ってるんだよ」
何が残っているのか、自分でも分からない言い訳だった。
◇
レイナは、浴室から出た後も自分で髪を整えていた。
新しい部屋で過ごすために自分で選んだという室内着は、飾りが少なく、動きやすそうだった。それでも布の重なりや袖の形には、レイナらしさが残っている。
「その服、自分で直したの?」
「はい。まだ仮縫いに近いものですが」
濡れた髪をまとめようとして、指の間から一房が落ちる。
レイナは少し困ったように笑い、もう一度、自分の手で結び直した。
誰かに見せるためではない。
自分が楽に過ごすために、自分で選び、自分で整えた姿だった。
「見すぎではありません?」
「服を見てた」
「服だけですの?」
「……その質問、答えないと駄目?」
「結構ですわ」
答えを聞かなかったわりに、レイナは少しだけ満足そうだった。
その後に出てきた千代は、髪を下ろしたままだった。
背筋は伸びている。歩き方も声も、いつもの千代と変わらない。
なのに、湯の熱が残る頬と、肩へ流れた髪のせいで、普段よりずっと柔らかく見える。
「何を見ておる」
「見てない」
「今、目を逸らしたであろう」
「見てたから逸らした」
「正直に言えばよいという話でもないぞ」
「じゃあ、どうすればいいんだよ」
「自分で考えよ」
難しい。
また表示が光った。
もう、気のせいではない。
◇
ヴィオラは、濡れた髪を布で拭きながら俺の隣へ来た。
「夜斗」
「近い」
「まだ何もしてないよ」
「何かする気だっただろ」
「顔を見ようと思っただけ」
「それが近いんだよ」
濡れた髪がすぐ近くにあり、風呂上がりの熱が伝わってくる。
いつもと同じヴィオラなのに、普段とはまるで違って見えた。
ヴィオラは俺の顔を覗き込み、すぐに口元を上げた。
「今の、性癖クリティカルでしょ」
「自分で言うな」
「違う?」
違うとは言えなかった。
ファステだけではない。
装備を外したリゼ。自分で選んだ服を着たレイナ。髪を下ろした千代。そして、今も近すぎるヴィオラ。
どれか一つではなく、違う方向から続けて刺さっている。
「……一回じゃない気がする」
「何が?」
「性癖クリティカルが重なってる」
「それ、すごいんじゃない?」
「俺にとっては危険だよ」
「数える?」
「数えない」
「誰が一番だったか調べる?」
「調べない」
「同じ格好でもう一回――」
「再現もしない」
ヴィオラは残念そうな顔をした後、すぐに笑った。
「成長したね」
「前にやったからだよ」
性癖クリティカル選手権は、一度で十分だった。
◇
ナーヴァだけは、まだ浴室を使っていなかった。
「入らないの?」
「我に湯浴みなど必要ない」
人間と同じ方法で身体を洗わなくても、ナーヴァには困らない方法があるらしい。
使う必要がないなら、無理に勧める理由もなかった。
「入りたくなった時に使ってください」
ファステも、それだけ言った。
湯上がりの皆が食堂へ集まる。
温かい物を飲む者。髪を乾かす者。自分の部屋へ戻る前に、もう少し同じ場所で休む者。
ナーヴァは少し離れたところから、その様子を見ていた。
しばらくして、浴室の方へ目を向ける。
「まだ湯はあるのか」
皆の動きが止まった。
「あるけど、入るの?」
「使える物か確認するだけだ」
「入りたいんだ」
ヴィオラが言う。
「違う」
「では、使わぬのじゃな?」
千代に聞かれ、ナーヴァが黙った。
「……使う」
誰かに勧められたからではない。
皆が使った後の様子を見て、自分から選んだ。
冷めた分だけ湯を温め直し、ナーヴァは人型のまま浴室へ入った。
俺は食堂から動かない。
「壊れないかな」
「ナーヴァも加減はできる」
リゼが言う。
「できるの?」
「……浴室による」
「本人じゃなくて浴室側なんだ」
やがて水音が止まった。
少しして、ナーヴァが戻ってくる。
濡れた髪を片手で後ろへ払い、煩わしそうに息を吐く。
いつもの戦装束ではない。本人が選んだ簡素な室内着をまとい、湯の熱が残る肌には、普段の張り詰めた気配が薄い。
強大な竜であることは変わらない。
それでも今、目の前にいるのは、風呂上がりで髪を濡らした一人の成人女性だった。
「どうだった?」
「悪くない」
「気に入った?」
「悪くないと言った」
ファステが髪を拭くための乾いた布を差し出す。
ナーヴァは当然のように受け取り、皆がいる場所へ来た。
元の世界では恐れられ、孤高だった竜。
そのナーヴァが、自分で湯へ入り、気の抜けた姿のまま、同じ卓へ加わる。
誰も驚かない。
誰も特別扱いしない。
濡れた髪。火照った肌。簡素な服の下にある、戦装束では隠れていた女性らしい身体の線。
圧倒的な強さと、ここでだけ見せる無防備さ。
全部が一度に、俺の欲望へ深く刺さった。
今度は、表示を見落としようがなかった。
『《淫獄石》を5,000個獲得しました』
『所持《淫獄石》:15,001』
「多い」
思わず声が出た。
「やっぱり性癖クリティカルだった?」
ヴィオラがすぐに反応する。
「重なった結果だと思う」
「誰と誰が?」
「言うわけないだろ」
「また我か」
ナーヴァまでこちらを見る。
「今回はナーヴァだけじゃない」
「では、誰だ」
「だから言わない」
「全員だったりして」
「黙って」
否定できないことまで見抜かないでほしい。
「でも、これからはお風呂上がりを見るたび、石が増えるかもしれないね」
ヴィオラが楽しそうに言った。
「毎回、性癖クリティカルになるわけじゃないぞ」
「住民の風呂を、石の収入源みたいに言うな」
「期待してないの?」
否定しようとして、さっきまでの光景を思い出した。
濡れた髪。火照った肌。普段より力の抜けた姿。
「……否定はしない」
「正直でよろしい」
表示には、15,001という数字が残っている。
一回召喚しても、5,001個残る。
そんな考えが、頼んでもいないのに頭へ浮かんだ。
「回さないの?」
「今日は回さない」
「今日は?」
「そこ拾うな」
前は、上限に達するから回した方が得だと思った。
今度は、回しても残るから一回くらい、と考え始めている。
理由が変わっただけで、ガチャを回したい欲が消えたわけではないらしい。
初めて浴室を使った日。
身体を洗えるようになった。
皆が少しだけ気を緩め、自分で選んだ姿で過ごせるようになった。
その結果、俺の欲望だけが大きく働いた。
風呂上がりは、性癖クリティカル。
前にも使った言葉なのに、今日は一回では足りなかった。




